記憶にないことはなかったことになるのかどうかと問われれば、そんなことはないと答えたい。

映画『記憶にございません』を観た。

なんとも言えないが、今これをやるのか、という驚き半分、呆れ半分といった趣である。

群像劇としては最高に面白い。と思う。
なにより、俳優たちが大袈裟に役になりきっているタイプの映画としては、そのケレン味が充分すぎるほど発揮されている。
むしろ、ある意味で演じることが仕事であろう政治の世界を舞台にしたことと相まって、真面目に演じれば真面目に演じるほど面白いコメディも、ここまでうまく演出されれば本望だろう。

コメディは多少設定に無理があるくらいがちょうどいい。
しかし、客に設定に無理があることに気付かれてしまうと、途端に白ける。
特定の演出家や俳優を狙ってコメディ映画を見る層は、目が肥えているのだ。

そこに投入されるのが、演技力と存在感に文句のつけようのない主役級に配置されるベテラン俳優陣である。
彼らの演技は、設定の無理や矛盾や無茶を芸歴に恥じない堂々たる演技による説得力と圧力というロードローラーで踏み潰していく。
気持ちいいくらい、細かいところはとりあえず置いておこうという気分にさせてくれるのだから、ベテランかくあるべしである。

そもそもフィクションである。
それをわかった上で、無茶苦茶な設定でかっ飛ばして笑わせてやろう……なんていうのはまぁまぁ普通のことだ。
ところが、そうもいかないのがこの作品。
大きなくくりで捉えるとするなら、明らかに時事ネタである。
しかも、そう捉えた場合に笑いの具となる対象は、困ったことに、当事者意識のない当事者たる現政府なのだ。

『記憶にございません』というタイトルは、この数十年来、本邦において政治家を揶揄するギャグとして使われてきたタームである。
この映画の主人公たる総理大臣は、CMでもご存知の通り、野党による不正疑惑の追求に対する答弁においてそれを繰り返し使う。
いわば腐った政治家という記号そのものであり、記憶にないなら何をしても許されるというわけではない、という戒めの意味も含まれる。微かに。
大切なことなのでもう一度言うが、ギャグとして使われてきたのである。

がしかし、悲しいことに今の政治はその斜め上を越えて行く。コメディすら笑いで勝てない政治である。
「違法献金は返せば問題ない」であり「ステーキを毎日食べたいというのは毎日食べているということではない」であり「わたくしは立法府の長」からの「責任は最高責任者たるわたくしが取る」である。
なんなら「批判には当たらない」である。

そして何が悲しいって、映画の中ではマスコミが政府を通常営業として批判している上に、内閣支持率が低い。
小泉内閣のときに、誰かが内閣支持率なんて5%もあれば充分なんてことを言っていたが、それより低い。コメディだから。

コメディだから。

悪い状況には、わかりやすい元凶がいて、わかりやすく対立して、わかりやすく対決して、わかりやすく大団円。
そんな都合のいい話は物語の中だけだろう。
現実にはそれがない。

素人目で見ても、現実の日本には問題が山積しすぎて、誰がどこから手を付けてもドミノ倒しのように破綻する未来しか見えない。
だからこそ求められる、明るくて切なくてちょっと苦しくて笑顔になれる作品がある。
性善説に則った、ちょっとした奇跡と大きな変化。
たとえ一瞬でも、頭上にぽっかりと青空が覗くかのような、ストレスの解消。
私たちがフィクションに、コメディに、物語に求める現実逃避の効能である。

でもそれは毒リンゴではないのか?

淡い期待すら持たせぬ社会に希望を見せても、それは政治への、社会への、無関心を煽るだけじゃないのか?

「こんなご時世、だれが総理大臣になっても一緒ですよ」
そんな感じのセリフが、ご他聞に漏れずこの作品にも出てくる。絶望から出たセリフではなく、希望の前置きではあるが。
一昔前なら、そのセリフに頷き、主人公を思って胸に痛みを覚え、彼の善性に期待した人も多いだろう。
でも、今はどうだろう。皆、それを口にしなくなったように思わないだろうか?

代わりのいない政治家。それは存在として得難く、ありがたみすら感じてしまうかもしれない。
しかし、そんなものは幻想でなければならない。
なぜなら、それが存在したとすれば確実に独裁者であり、独裁は必ず権力を硬直させ腐敗させるからだ。
「代わりはいくらでもいる」
それは健全な政治だったのではないか?
特定の他の誰かが権力を握らなければ、という条件付きだが。

今の時代に、この政治体制の中で、この作品を作り、公開するのは勇気のいることなのかもしれない。見方によっては。
でも、別の見方をすれば、政治体制を応援する作品と言うこともできる。
私は左後ろ向き人間なので、後者として捉える人の方が多いのではないかと予測する。
傾国の最中において、希望は積極的な無関心を生むのだ。

暗くなってきた。もう駄目だ。

コメディの良いところは、一番悪い奴以外は自己責任(自業自得)を突き付けられないところではないだろうか。
どんなことがあっても、それを選んだお前が悪いんだろと嘲笑われることがない。もしくは、笑うやつは酷い目に合う。
そして、報われる。
映画だから?フィクションだから?
私は、これに関してはノーと言いたい。

かわいいものを「かわいいね」、楽しそうな人や嬉しそうな人に「よかったね」、悲しそうな人に「悲しいね」、つらい人に「つらいよね」、困っている人に「何かできることはある?」、自分が嫌いなものを好きな人に文句を言わず、差別する人には「差別するな」と言う。
それだけで、あなたも私も、大勢が生きやすくなる。
人生はコメディではないけれど、優しくはなれる。
生きていくことのつらさに処方箋があるとして、それがコメディだとしたら、最大の効能は自分と他人に優しくなれること、そのヒントをもらえることなんじゃないか。

強引にそういうことにして、なんとか着地させたいと思う。

以下、ネタバレ……?かな?

気になった点と、所感。

・むしろ小池栄子が主人公なのではないか。

・ハッピーターンの発音。

・田中圭の二の腕が逞しい。

・どこで記憶の戻ったのかはミスリードがあるので3回くらい観ないとわからなそう。

・草刈正雄筆頭に誰のモノマネをしているのか、誰をモチーフにしているのか、その半ズボンはやりすぎだ等の、政治家いじりみたいなのは、多分逆に好意的に受け止められるんだろうなと思う。

・木村佳乃の使い方が雑なのと、演出の古臭さで欧米社会を日本の人権意識の低さのレベルにまで下げて表現してしまっているのが残念。(現大統領の人権意識の低さの再現をわざわざ女性にさせる必要はなかった

・「総理のお友達」が本当にお友達なのは笑った。

・主人公を世襲議員にしなかったことによって、保険をかけたんだな。日和ってる。

・総理夫人のモチーフはわかりきってるのに、わがままさとエキセントリックさが足りないせいでストーリーが少々ぼんやりしてしまっている。しかし、後半の扱いを考えると仕方がない部分もあり痛し痒し。

・どこかで頭を打っている人が他にもいそう。

・吉田羊の冒頭の党首討論か代表質問のシーンでの蓮舫と土井たか子と田中真紀子を足して割ったような演技が非常に良い。と云うか吉田羊が良い。

・「憑く」感じの演技ではなく、演出意図として「こういう人いるよね」を限りなく具体的に再現する作品の中で、明確にそうではないキャラクターを配置しているのは、監督の作為的な指示なのか演技力のせいなのか気になる。

・モノローグがないのがすばらしい。中井貴一の言葉なき一挙手一投足がモノローグとして機能し、観客は見事に騙される。文句無しの大俳優だ。
なのに、それにひけをとらない小池栄子のコメディエンヌっぷりがなんともキュートで、存在が頼もしい。画面が締まるというか。
感情の出し入れとオンオフが完璧。彼女が女性であり秘書官である必然性がさりげなく描写されるのはうまいと思ったし、少なくとも時代は少しずつ進んでいるのかもしれないなと感じさせてくれた。そして、それを小池栄子が成長という形で演じきるという。この作品が一定の評価を得るとしたら、それは彼女が作品の屋台骨の一人として存在するからこそなんじゃないかと思う。いや、決して過大評価ではないよ。
最後の、主人公の子供時代の作文を読もうとするシーンで、主人公への淡い慕情と尊敬と感動と色々入り混じった表情とそれを出さないよう努める仕草は、コメディ的なあからさまな大きな演技なのだけど、美しく物語のすべての着地点を演出するに足りすぎる演技だと思った。

なんだかんだで、とても楽しい映画でした。
久々に三谷幸喜作品を劇場で観ましたけど、彼の才能は確かです。ちょっと感覚古いとこあるけどね。
そこも含めて受けるんでしょう。

さて、次は何を観ようかしらね。

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