うーん、反感でもないのだけれど。
2023年9月23日、三連休の中日に東京都現代美術館に行って「あ、共感とかじゃなくて。」を観てきました。
11月5日まで開催されているので、この記事を読んだ人が興味を持ってくれたらいいなと思います。行かない/行けないでも気にしないでください。正直に言えばこういう展示も存在していることを知る人が増えるだけでも私は嬉しいです。
でも、同時にこういう展示が継続されるには足を運んでくれる人も必要です。言い換えればチケットを買う人です。と言い切ってしまうのにはいろいろな意味で抵抗がありますが、何をするにもお金が必要です。持ち出しを続けていては生活が破綻してしまいます。
でも、チケットを買うのは今これを読んでいるあなたでなければならないというわけではありません。あなたである可能性も否定できませんがこれを読んでいる別の誰かかもしれないしあるいはこの記事とはまったく関係のない誰かでしょう(これがいちばん多いことは想像に難くありません)。
これはそういう展示だと思いました。どういう展示なのか端的な言葉で表現している「あ、共感とかじゃなくて。」展覧会Webページに掲載されている紹介文の冒頭を引用します。
「あ、共感とかじゃなくて。」は「想像する」展覧会だと言っています。「反感」ではなくて安心します。敵意に満ちた展覧会は……かつてあったと言えばあったのですが、ここでは措いておきましょう。機微に触れる話題です。「退廃芸術展」という言葉を聞いたことがある人もいるかもしれません。
では、「共感」と「想像」の違いはどこにあるのでしょうか? ひとつには出発点が「わかっている」のかそれとも「わからない」のかにあると思います。「わかっている」なら「わかる~~~」と「共感」できます。「わからない」なら「想像」の余地があります。
これを、展覧会の紹介文では「チャンス」であり「面白さ」だと書いています。しかしそれだけでしょうか?
わからないものに不安や恐怖を覚えることは珍しくありません。答えの出ない問いについて考え続けるのは苦しいものです。この紹介文はポジティブな面ばかり強調して、ネガティヴな面を無視しているのではないか? だとすればそれはある種のだまし討ちでありアンフェアではないか? そんなことを考えます。
同時に、それがわかる人にはいちいち言わなくてもいいし、わからない人には言ってもわからないのではないか? と投げやりなことも考えます。あるいは、わからないものを拒絶するのに躊躇いがない人や即座に直接の答えを要求するのをはばからない人に足を運ばせるために、仄めかしさえ控えたのかもしれない、とも。
わかりません。答えを必要としているわけでもありません。ただ、こうして文章にすると思考が整理されてスペースに空きができます。そのスペースが考えを広げる余地になります。もう少し考えてみます。続きます。
ここまで読んでくださりありがとうございました。気が向いたら下のボタンからコーヒー1杯分でもサポートしてもらえると嬉しいです。何をするにもお金が必要です。
※ヘッダ画像はBing Image Creatorで生成
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