「4/23第9号」

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 桜は散りつつあるが、新緑の季節に向けて穏やかな日差しを感じる日々でございます。
 さて、今回は関連なさそうで関連ありそうな話題を3つ書き散らしてみました。何卒宜しくお願いいたします。

1.生活費を眺めていて思うこと

 来年には上洛を果たそうとするのだが、それにあたり事前に求人の調査をしている。求人の調査は高頻度でおこなわれており、その中で得てきた知見(偏見とも言う)があるため、ここに書き散らすこととする。今日の医療ソーシャルワーカーは劣悪処遇(私だけかも知れないが)であり、3年目で月税込み20万程度であって、手取りにするなら15万程度というところもある。例えば、都内で独り暮らしをするのなら次の通り計算できる。

30代男性独居身寄りなし
家賃:45000
ライフライン:20000
食費:25000(内6000は昼食代)
被覆衛生費:7000
交通費:5000(月に2から3回程度外出)
交際費:5000(外出先での食事等の支払い)
自動車:13000(駐車場や燃油維持)
趣味:5000
奨学金返済:25000

 概ねこのような生活となることが予想される。家賃は手取りの3割程度であり、基本的に自炊であって、2から3回の外出が出来て、映画鑑賞や食事を月に1回程度出来ること、図書館等を利用したり、趣味の本(学術書や専門書等)を月に1回購入できる計算である。それでようやく貯金が出来るかというところである。毎日のように外食したりカフェでお茶をすると予備費に回せなくなることが容易に想像出来る。奨学金の返済がなければ「慎ましい生活(中間層)」となるが、預金も出来ない「最低限度の生活(下層)」になるといえる。このモデルケースを見て、読者はどう思うだろうか。
 これが私の考える「貧乏物語」である。

2.自己責任と公的責任

 このところ物価や税金、社会保険料等何かと負担増になることがある。労働の対価として給料なるものを、当方は税込み20万円程度受けているが、しかしながら手取りにすると15万円程度となる。賃上げが万が一あった場合でもそれは微々たるものであり、”実質的賃下げ”状態となるのは明白だと、私は考えている。最近、カフェでコーヒーを飲みながら勉強であったり、美味しいラーメンを食べたり外食したりといった事柄が、全てブルジョアのなせる技の様に見えてならない。私はしがないプロレタリアートであり、そのようなことは出来ないと、自己憐憫になるばかりである。
 さて、社会福祉士・精神保健福祉士養成課程で使用されるテキストを読み進めているが、そこで気がついたことがある。明治時代の我が国は、1874年恤救規則(じゅっきゅうきそく)なる公的救済を目的とした、救貧法が作られたのである。ただ、これにはいくつか条件があり、今日の生活保護と内容は些か異なるが、制度を”機能させない”ようにしているは共通である。厚生省(現:厚生労働省)が出来るきっかけとも言える米騒動(1918)直前に、河上肇の連載である「貧乏物語」『大阪朝日新聞』1916年.があり国民の関心を買ったのではないかと想像する。なお「貧乏物語」や「公的扶助」について私は全くの素人でありますから、専門の方へお譲りするとする。
 貧困とは自己責任ではなく社会環境の問題である、というのは、Jane Adamsによるセツルメントによっても明らかになってきたものである。今日においても、公的扶助や社会保障をご専門にされる先生方により、さらに深く研究され世に知らしめているといえる。中村剛「福祉思想としての新たな公的責任ー「自己責任論」を超克する福祉思想の形成ー」『社会福祉学』51(3),2010.を参考とされるのがよろしいと言える。今日はあまりにも自由な時代である。人は、よい暮らしをするために、熾烈な競争社会を生き抜こうとする。私が思うに、大学では優秀な量産型学生として養成され、大手企業に就職し、東京ならば山手線沿線や内側に住み、30代より前に結婚して子どもをもうけ、その子どもに教育をしてと、これを繰り返すのである。そんなモデルケースはどれくらいいるだろうか。東京に住んでいるものの中には、一昔前に田舎より出稼ぎで上京してきたものの家族もいるだろう。江戸時代においても、地方出身者が集まってきたという歴史もある。故に”東京人”と純粋に呼べるものはどれくらいいるだろうか。
 話が逸れたが、貧困に陥るのは、自己責任ではないといえる。私が思うに日常とは奇跡の連続である。もしその奇跡が起きないなら、今この瞬間に私の心臓は止まり、召天するかぼろぼろになった肉の身体が残るかとなる。そうなるとより貧困となるのである。それは自己責任だろうか。公的責任による救済して、生活を保障されるようになれば、やがて国力となるだろう。
 この話題については、一端筆を置くとするが、引き続き思考を巡らせるとする。

3.故郷という地域

 「田舎より出稼ぎ」と書いたが(別な機会に記事にしたい)、田舎とは一括りにできないと自己批判するところである。ここでは我が故郷について、書き散らしたものがあるので、紹介しようと思う。
 テレビ番組で県民性をクローズアップするようなものがある。方言はテロップを用いても聴き取りづらいものの、それでもその地域に住んでいる方の暖かい気持ちに、触れることが出来ると感じるところである。
 さて、この項目では「県民性」なるものについて考えるとする。具体的には青森県についてである。青森県は中央に八甲田連峰や山が3度噴火してできた十和田湖がある。これにより日本海側と太平洋側で気候が異なる。地方としてはおおかた3つに分けられる。日本海側にある津軽はりんごや稲作が主要な作物であり、津軽藩の城下町である弘前を中心に発展している。太平洋側にあるのは南部であり、南部藩開拓した十和田市や、八戸藩の城下町である八戸がある。津軽海峡と陸奥湾、太平洋と挟まれているが下北であり、会津藩が落ち延びて開拓した斗南藩があった、海上自衛隊の警備府がある大湊や、津軽海峡にある大間、陸奥湾沿いの横浜町、そして原子燃料サイクル施設がある六カ所である。余談だが、会津藩が戊辰戦争に敗れ領地を没収されたとき、今で言うところの十和田や三戸、七戸、そして下北と藩士が移り住んできたという。農民の所に学もある藩士が移住したこともあり、商売を始めたり地主になるなどしていたという。農民と学びある藩士では文化文明においても大きな違いだったと考えられる。これについては別の機会で深めようと思う。
 話は変わるが、私は最近長野に出かける用事がある。私の知り合いにも長野出身はいるが、長野のどこにいったのかと尋ねられることがある。そう、長野もまた複雑に文化が分かれていのである。興味深いのは、統一できず県が分裂する危機があったとき、県民のこころをひとつにまとめのが県歌「信濃の国」であるという。県民なら誰もが唱和出来るのだというのだから、どれほど素晴らしいものかと考えるばかりである。いやはや、この文章を打ちながら涙が出そうである。戦後である1948年長野県議会で県内の分離について話し合われていたとき、聴衆から「信濃の歌」の大合唱となったという。どんな思いで「信濃の歌」を唱和したのだろうか、涙をこらえきれなくなってきた。
 さて、涙涙の長野県であるが、青森県はそうもいかない。津軽と南部は、野辺地を境に何度も戦いを繰り広げていた。津軽から攻め込まれ南部が七戸藩と共同で防衛するという構図である。大人しい南部に対して津軽は「じょっぱり(頑固者の意)」であるといえる。(筆者体感)また津軽には「弥三郎節」というものがあり、これは津軽の嫁いびりの苛烈さを歌ったものである。とくに南部から津軽へ嫁にいったとあれば、いびり倒されるという。(筆者聞き取りより)この文章を打ちながら、義憤に駆られる思いだ。
 このように、青森県というものは一括りで語られるものではない。実のところ津軽も南部も一括りに出来ないのである。紙面の都合上、次回に持ち越すとする。

4.次回に向けて

 さて、色々と書き散らしたので、これくらいで筆を置こうと思う。
 4月と言えば新生活であり、新生活というのは人生の選択肢中で生まれた結果であるともいえる。これだけ厳しい世の中であって、今回記事にしたとおりの生活をしていると、僅かな環境の変化で貧困となる可能性をはらんでいる。貧困とは自己責任ではなく、社会の責任であるということは、もはや自明のことである。


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