どくしょかんそうぶん

ノルウェイの森を読んでいる。

実家の、父の本棚にあったものを引っ越す時か帰省のついでかに持って帰ってきたんだと思う。たぶん。と書いてるうちに、自分で買ったものなんじゃないかって気もしてきた。

記憶というのはいい加減で、不思議なものだなと思う。昔のことになればなるほど薄れていく、古いものから捨てていくっていう単純な仕組みでも良かったはずなのに、ヒトの脳はそうできていない。昨日の昼ごはんに何を食べたか思い出せないなんてざらにあるが、そこそこの知人の顔は1ヶ月以上顔を合わせてなくともそう忘れない。思い出すトリガーも様々。色だったり、音だったり、匂いだったりする。思い出し易さも様々。風景はだけ思い出せても何を話したか全く思い出せないことも、その逆もあったり色々。不思議で、不便で、便利で、面白いなと思う。

別にこういう話を書きたかったわけではないのに、話が逸れていった。記憶の不思議さについてはこの本でも触れられていたので、それに引っ張られたのか。或いは元々感じていたものが本によって引っ張り出されたのか。どちらか分からないし、どっちでもいい。


本を読むときに「引っかかる」ことが偶にある。話の流れに及ぼす影響としてはそれほど…って箇所が気になって、そこから思考が広がってしまう。物語の本筋とはおそらく関係のない方向に。

こんな風に落ちついて手紙を書けるのも久しぶりのことです。七月にあなたに出した手紙は身をしぼるような思いで書いたのですが(正直言って、何を書いたのか全然思いだせません。ひどい手紙じゃなかったかしら?)今回はすごく落ちついて書いています。
ノルウェイの森 村上春樹

これを読んだとき、「手紙っていうのは自分の書いた文章が手元に残らない通信手段なのだ」という、至極当たり前のことが引っかかった。今のコミュニケーションといえば、LINEにせよメールにせよ、送信したものが手元に残る。何か間違ったことやまずいことをを言ったかなと思ったら、読み返せる。訂正できる。場合によっては送信を取り消せたりする。コピーでも取らない限り、手紙はそうじゃない。送った後でその文面は訂正できないし、おそらく多くの場合誤りに気が付けない。例えばメールとかLINEとか、そういうのがある日突然なくなったとして、手紙という通信手段に我々は戻れるんだろうか。誤りを訂正できない、誤りに気が付けない手段に。

こんな風に、一度本の中身に引っかかってこういう思考が広がってしまうと、頭の中の思考と目の前の本の文字と、2つの日本語を同時に処理する羽目になり、頭がパンクしてしまう(私はいわゆる聖徳太子的な、同時に2つの文脈を処理するのがそこそこ苦手だ)。

ノルウェイの森。今時点で、上下巻のうち上巻しか読めていない。下巻はこれから。
最後まで読んでから感想などを書き始めるのが普通に思えるけど、今書いた「引っかかり」からの思考を1回書いてしまわないと続きが読めないなと思った。


でも、物語の最後を見届けてもいないのに「読書感想文」と言うのは少し抵抗がある。ちょうど半分読み終えたところだけに「読書間奏文」だ、なんてことを思いついたけど、それをタイトルにするのはさすがに狙い過ぎていて嫌だなと思ったのだ。

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