説明する義務(街とその不確かな壁)

読書ノート No.13
『街とその不確かな壁』
著者:村上春樹
出版社:新潮社
読了日:9月28日


最初に断っておくと、この記事は長くなる。本の感想とはかけ離れたものも書く。というか本と関係のない部分の方が多い。
今年読んだ本の感想を書いていくシリーズに一応この記事も入れたのだけれど、明らかにこの記事だけ毛色が異なる。そもそも今年の読書を振り返ろうと思いつく前から下書きにはあった記事である。

この1年「エンタメ」とか「作品」とか「コンテンツ」というものについてうだうだ考えていたこと、頭の中にあったことの大放出祭りと思ってもらえればいい。年末の大感謝セールか、はたまた大掃除か、そんな感覚で。

あまりに長いので初めてこの機能を使う。

このとおり、さっそく件の本とは全く関係のない映画の話から始めてみる。


君たちはどう生きるか

今年話題になった映画に、今更ながら触れてみる。

1か5か。平均点は3。

映画「君たちはどう生きるか」に対する世間の評価について。映画レビューサイトにおいて最低評価の1を付ける人、逆に最高評価の5を付ける人に二分され、平均して評価が3になるような現象が起きていた(公開当初そんな感じだったなぁというだけなので、今どうなっているかは知らないけれど)。この現象については、まあ理由を考えれば納得かなと思っている。

まず1を付けた人の大半は、「何が言いたいのかよく分からない」「意味が分からない」という感想を持った人たちだろう。
実際この映画はよく分からない。何が起きたかくらいは把握できるが、なぜ起きたかやそれが何を意味するかといったことはまるで説明不足。というより説明する気がない、説明するべきものがそもそもはっきりしていないといった具合だ。言葉の使い方が難しいところだが、個人的にはこの作品は「アート作品」という分類をすべきかなと思う。何を意味するかを説明することより、「作りたいもの(作るべきと思うもの?)を作る」ことを優先したという点で。

そんな作品を、「ジブリの最新作」として世に出せば、「何だこれは」となり評価1をクリックする人が続出するのも頷ける。今までのジブリ映画といえばある程度子どもが観ても分かるような、エンタメ映画として機能していた側面があると思う。そういうものを観るような心の準備、トトロやポニョやナウシカを観るような準備(それこそ何の予告編もなかったこの映画に「ナウシカの続編じゃないか」と予想した人もいたという)をして行ってこれを出されたら、そりゃあびっくりして、混乱するに決まっている。

一方、この映画に最高評価の5を付ける人もいた。この高評価をしたのは、いわゆる「(従来の)ジブリ映画」としてこの作品を観たわけではない人たちだと思う。無理矢理カテゴライズするなら(適切かは分からないが)「アート」の領域にある作品として。説明不足の点もあって、多少繋がりを欠いていても、何かしら観る者の琴線に触れるものがあればよい。そういう作品として観れば、5/5という評価も頷ける気がしてくる。

ただここで1つ穿った見方をすると、この映画に満点評価をつけたり絶賛するレビューを投稿した人間の中には、「この作品の良さが分かる私でありたい」という欲求のようなものが動機となっているものが少なからずいるのではないかと思える(もしかすると本人も気付かぬうちに)。つまり「これを評価できる私」が好き、という人。こういった心理が悪いものだとは思わないしむしろ自然なことだと思う。私も無意識のうちに持っていることもきっとある、そういう心理だと思う。
こういう深層心理だとかバイアスという言葉で表せそうなものを完全に取り除くことはおそらく不可能だ。あとから振り返ってあの時背伸びしてたんだなと気付いて赤面するくらいがきっとちょうど良く、きっと正しい。

説明せずに説明する力

うだうだ分析気取りのことをしてるけどじゃあお前の評価とか感想はどうなんだよというセルフツッコミに最後に答えておくと、「採点不能、もしくはやや評価低め」といったところ。

採点不能というのは、先程だらだらと書いた通りこの映画を「どう観るか」によって評価が変わりすぎるから。従来のジブリ映画として観るかそうしないか。どういう立場を取るかで変動しすぎるので、採点不能とするのが妥当だと思った。

やや評価低めという結論になった点については、私がジブリ映画、もっと言えばアニメ映画に求めるものが何かというのがポイントになる。
さっきから「説明する」とか「説明不足」という言葉をよく使っているが、私はアニメ映画に対して「説明する」ことをしてほしいと思っている。より正確に言えば「説明せずに説明する」ことを求めている。

物語を伝える際に用いる情報として、「セリフ」と「その他」に分けるとする。分かりやすいのが小説で、「セリフ」と「地の文」という分類になる。アニメやドラマにおいては、この「地の文」をどう表現するかにポイントがあると思う。地の文をそのまま読み上げる、つまりナレーションという方法があるが、これが多すぎるのはあまりよろしくない。だからそれ以外のモノで頑張る。直接的な視覚情報(文字、記号など)、間接的な視覚情報(人の表情や比喩的なモチーフ)、効果音や音楽などなど。ここに作り手の工夫が見えるのが好きだ。
要するにナレーションといういかにもな「説明」を用いずに、地の文の機能である「説明」をこなしてしまうこと。「説明せずに説明する」というのはこのような意味であり、私はアニメ作品にそれを求めている。

「君たちはどう生きるか」の冒頭に近い部分。登場人物の表情だけで「この人に対して心を開いていない」ということを見事に表現した場面があった。素晴らしいと思った。そしてそれが、私の中でこの映画への評価が最大値だった瞬間だった。


ところが、さんざん触れた通りこの作品は全体として「説明不足」である。「説明することを諦めてしまっている」と表現した方が正しいかもしれない。
「自然に説明をこなす技術があるのになんでそこを諦めちゃったんだろう」、「結局諦めちゃったんだな…」
私が抱いた感想はこんなところである。

無論、アニメ映画の監督に「説明せずに説明」をこなす義務はないし、これは私が勝手に期待しているだけのこと。身勝手な考え、感想、戯言であることは付け加える必要がある。


街とその不確かな壁

話は変わって、ようやくこの本の話。

村上春樹著、街とその不確かな壁。
黒い表紙に白文字の、でっかい分厚い本である。

進みの遅さは悪じゃない

この本の読破には結構時間がかかった。栞を挟んで放置していた期間も含めたら1〜2ヶ月はかかっていた気がする。なかなか進まないことに少し焦りというか、「本を読む力が落ちたかなぁ」という落胆のようなものを感じたりもした。

そんな時、お笑い芸人ピースの又吉直樹さんが、ラジオで面白いことを言っているのを耳にした。
本を読むスピードが遅いのが悩み、というお悩みに対して、「進みが遅いのは必ずしも悪いことじゃない。そういう時は本が遅く読ませたがってる」という趣旨の回答。
全661ページある黒表紙の本のやっと半分にたどり着いたかどうかくらいだった私は、この又吉さんの言葉にすごく納得したし勇気をもらった。
不思議なもので、それ以降すらすら読めてしまい気付けば物語は終わっていた。

本は敷居として機能する

「街とその不確かな壁」の話と「君たちはどう生きるか」の話を同じ記事でしようと考えたのは、この物語もやはり「説明不足の物語」であると感じたからだ。膨大な文字数になっている編集中のこの記事を見るに、同じ記事に収めようとしたことを後悔しつつもあるけれど。

この小説についても、何がなぜ起き、どのような意味を持つかを100%理解できたとはいえない。しかし、小説においては映画のように「説明してくれ」というようなクレームを付けようとは思わない。なぜだろうか。

一つには、本という媒体自体が一種の敷居、ハードルとして機能する側面があるからなのではと思う。そもそも読書を習慣としている人という時点でやや人が絞られ、さらにこの本のような分厚さのものを手に取る人はおそらく限られる。このような高い敷居にも関わらず読もうとした読者に対して説明不足の物語をぶつけることに関しては、私はそこまで違和感を感じない。

「君たちはどう生きるか」については、ジブリ映画という文脈がある時点で大衆向けかのような、敷居の低いような印象を与えることを避けられない。その上で説明不足の物語を出してきた。その点が、私が感じている違和感なのかもしれない。

※ここでは「敷居が高い、低い」という言葉を「とっつきにくい、とっつき易い」という意味で用いた。これを誤用とするかは辞書によって違ったりするとか。

あとがきという名の釈明

もう一つこの本について、あとがきが興味深かったという話も書いておきたい。正直私は本のあとがきや解説があまり好きではない、というかどのような位置付けで読めばいいかイマイチ分からないのだが、この本のあとがきは「自分の小説に「あとがき」みたいなものをつけることを元々好まない」という書き出しで始まる変わり種だった。あとがきを好まない理由が「多かれ少なかれ何かの釈明のように感じられるから」だというのにも納得というか共感した。しかしその上で「この作品についてはある程度の説明が求められるだろう」と述べている。

ここから「筆者は説明不足を自覚しているのだ」ということが明示された時点で、個人的には十分だった。説明不足だと書き手が言ってるなら、こっちが100%理解することを諦めても良いと思える。もしくは自由な解釈で説明不足分の余白を埋めていいという許しにも聞こえてくる。
私にとっては、あとがきは「説明不足を自覚している」ということを述べたその3行で十分と思えた。加えて言うなら、あとがきのそれ以降の部分(執筆経緯などが書かれていた)を読んでも、内容理解の助けになることはまるでなかった。

説明不足の作品

考察と解答が歓迎されるご時世

ここまで、観たり読んだりした作品を「説明不足」という共通点で無理矢理に括って話を展開してきた。ここまできたらついでということでもう少し話を広げてみたい。「説明」とか「解釈」といったところを軸にして。
ここまでの話も大概とっ散らかっているが更に酷いことになる気がするので先にこの節の結論を言ってしまうと、「程々の考察の余地と明確な模範解答が存在するような作品」を最近よく目にするなぁという話である。

代表例はテレビドラマ。
一人暮らしを始めてから週一で決まった時間にドラマを観るとかいう習慣を失ってしまったので最近のものは全く追えていないのだが、「VIVANT」などそこそこ流行っていた(?)ドラマに関して考察記事のようなものをたくさん見かけた印象がある。そしてその考察が「正解」か「間違い」かが、最終回で明らかになるというシステム。大衆が楽しむエンタメとして、今流行りの形なのだろう。

もし良い感じの視聴率をキープしていたドラマが、待ちに待った最終回に未消化の伏線を説明不足に終わらせてしまったらどうなるんだろう、と想像してみる。想像するまでもなく大炎上だろう。大衆がこぞって考察をし、答えを求めるドラマという作品には「説明不足」は向かない。

一方、(あくまで私が個人的に)「説明不足」が許される領域だと思うもの、それは歌詞である。
世の中にはよく意味が分からない歌詞がたくさん存在する。例を挙げるでもない、挙げたらキリのないほどに。「わけわからんけどなんかいい」とか、「意味はよく分からないけどこの部分は好き」が許される、よくあるもの。それが歌詞だと思う。

ただ、それも変わってきてるなと感じる。歌詞にも「解釈の余地」と同時に「正解」が求められている感じがちょっとする。

特にネット発の音楽。歌と同時に小説が存在するというのが1つのあるあるになってきている。古くはカゲプロ、最近だとYOASOBIの夜に駆けるとか(最近か?)、物語が先にあり合わせに行った特殊例だとヨルシカ×新潮文庫のコラボとか。

歌詞と同時に小説があると、歌詞への解釈の正解が小説の内容一つに定まってしまう印象がある。一つに定まるは言い過ぎにしても、解釈の幅が狭まってしまう感じがちょっとする。
上で挙げた作品を貶したいわけではなく、歌詞というものに何を求めるかという話だ。一人一人が自由にしていい解釈の余白がある方を取るか、解釈の答え合わせをしたいか。歌詞については私は前者だというだけの話。世間で人気の出ている曲については後者のものも増えてきたなぁという印象があるというだけの話。もちろん印象に過ぎないのだけれど。

ドラマの話と歌詞の話を合わせると、ここ最近は「考察の余地とその回答を求めるご時世」にあると言えるのかなと雑に思う。それに関して良いとも悪いとも思わないが、そんなご時世の中出てきた「君たちはどう生きるか」という「説明不足の作品」はある意味特殊例なのかもしれないし、それに対する世間の反応はやっぱり面白いものだったなと改めて思う。

一体何が言いたかったのか

だらだら書いてきた結果、結局何が言いたかったのか自分でもはっきりしない。自分が最初言いたかったはずのことにブレを感じ、書いては消しを何度もしている。

とりあえずの結論としては、私が作品に求めるものは「媒体によって大きく変わる」ということだ。

(特に大衆向けだよという顔をした)映画
→説明をしてくれ

小説
→説明不足でもそんなに気にしない

大衆向けテレビドラマ
→個人的には拘り無し、というかそもそも観ていない

歌詞
→説明不足、解釈の余白が残っててほしい。

私の感覚はこんな感じで、ある作品がこれに合致しないとき、私はぶつぶつ文句を言う。世間の感覚とずれているとき、「そっかぁ…」とか言いながら不満に思ったりする。しかし「世間と違う自分」を満更でもなく思うかのようなダサい心理も同時に抱く。それに対しての嫌悪感もまた抱く。この辺が私という人間の面倒くさいところである。


…一体これのどこが読書ノートなのか。
いつも通り気に入った文章を引用して、せめてもの体裁を整える。

「どうしてあんなものを夢中になって読んだのだろう?と首を捻ってしまうような書物を必死に読破し、雑多な情報を頭に詰め込んでいったものだった。自分にとって何が役立つ知識で、何が用のない知識か、それを選びとる技術や能力をまだ身につけていなかったから。

街とその不確かな壁

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