名著を読む その2 (ライ麦畑でつかまえて)

読書ノート No.3
『ライ麦畑でつかまえて』
著者:J.D.サリンジャー 野崎孝訳
出版社:白泉ブックス
読了日:1月10日


PSYCHO-PASSというアニメが好きだ。最も好きなアニメの一つと言っていい。
このアニメの好きなところを挙げていけばそれはそれで1本の記事にできるくらい、それなりに大きな影響を受けたと思っている。

このアニメ、書籍からの引用がとても多いのが特徴である。「それなりに大きな影響を受けた」というのは、もちろんこのアニメ自体から受けたものもあるけど、この作品を通して知った本を読んだこと、そしてその本の内容まで含まれている。

例えばジョージ・オーウェルの『1984年』、フィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』はPSYCHO-PASSきっかけで読んだ本だ。どちらもある種の(当時からみたところの)近未来ディストピアものとして、似たカテゴリーの本として勝手に括っている本たち。

PSYCHO-PASSと本の話をしたついでに、槙島聖護というキャラのセリフを紹介しておく。このキャラはPSYCHO-PASS1期のラスボスと呼べる立ち位置のキャラであり、私が知っている中で最高の悪役である。

紙の本を買いなよ。電子書籍は味気ない。本はね、ただ文字を読むんじゃない。自分の感覚を調整するためのツールでもある。調子の悪い時に本の内容が頭に入ってこないことがある。そういう時は、何が読書の邪魔をしているか考える。調子が悪い時でもスラスラと内容が入ってくる本もある。何故そうなのか考える。精神的な調律、チューニングみたいなものかな。調律する際大事なのは、紙に指で触れている感覚や、本をペラペラめくった時、瞬間的に脳の神経を刺激するものだ。

槙島聖護
PSYCHO-PASS1期15話『硫黄降る街』より

電子書籍云々の話はそれはそれで長くなりそうなので、またの機会にするとして。

この槙島聖護が出てくるPSYCHO-PASS1期の最終話のとあるシーンは、『ライ麦畑で捕まえて』をオマージュしているとか意識しているとか言われることがある。(私が知る限り)公式な見解というわけではないはずだけど。
私もそのシーンを観たとき『ライ麦畑で捕まえて』というタイトルを連想した(元々タイトルは知っており名著として認識していたので)。そしてそういえば読んだことがないことに思い当たり、脳内の「いつか読むべき名著たち」の引き出しに入れた。この本がめでたくその引き出しから脱出したのが、今年の1月だったというわけだ。


『ライ麦畑でつかまえて』を一言で表すなら「若さ」だと思う。若さゆえのエネルギーと、それを制御するのが下手なこと。ゆえに色んなものに色んな人にぶつかって、たくさん怪我をする。そういうのが(多少過激な表現も含め)書かれている。

この小説を、主人公の目を通した社会風刺と見る向きもあるらしいけど、そこまで高尚な解釈はできなかった。それよりも、若い時分に誰もが持つ…と決めつけるのはよくないが、少なくとも私は多かれ少なかれ持っていた気がする、若者ならではの尖った部分をあからさまに肥大させたような主人公の話、といった方がしっくりくる。私にとっては。主人公の行動はかなり極端なものばかりなので、共感できない部分もたくさんある。でもその一部は、絶対値は置いといてベクトルとして、分かる部分もある気がするのだ。

今回は野崎孝訳の『ライ麦畑でつかまえて』を手に取ったけど、村上春樹訳のバージョンも気になっている(タイトルが違って『キャッチャーインザライ』)。それ以外にもいくつかタイトル違いの翻訳版があるらしいのでそっちも気になる。さらにいえば原文(つまり英語)で読みたいなとも思っている。基本的に口語体で書かれている本著のような文章は、おそらく訳者によってニュアンスが変わる余地が大いにあると思うし、本当のニュアンスは原文を読まないと拾いきれないのではとも思う。洋書はハードルが高いので来年以降の、気の長い目標としてまた引き出しに入れておく。

僕は血まみれになった自分の身体が、物見高い馬鹿どもに見られるかと思うと、それがどうにもいやだったんだ。

ライ麦畑でつかまえて

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