先生

高校の時、とても好きな国語の先生がいた。

その先生の現代文の授業は10分間の読書から始まる。教科書以外の本を。本を忘れた人は仕方ないから教科書を。もちろん漫画はダメ。図鑑はどうなのとか言い出したらキリはないけど、そこは国語の授業らしい本ってことで空気を読んで。みたいなオリエンテーションを聞いた気がする。
もちろんこの時間の分授業は削られ、やや駆け足で解説が進むのだが、それより高校生の僕らに読書をさせる、読む時間を与えることが大事だったのだろう。たぶん。
その10分間、教壇で先生も文庫本を読んでいた。
その姿は、不思議ととても絵になった。

定期試験になると担任でも教科担任でもない先生が入れ替わり立ち替わり試験監督にくる、というのは私の学校だけではないと思う。件の国語の先生が試験監督に来たとき、このときも教壇で文庫本を読んでいた。(今更言っても仕方ないけれどあれはルール的に良かったんだろうか?)
ただその姿も、不思議ととても絵になった。

夏目漱石の「こころ」は今も高校2年の教科書に載っているのだろうか。
この小説はとにかく長く、フルバージョンで掲載なんてすればそれだけで教科書が終わりかねない(?)ので、当然数ヶ所抜粋して掲載されていた。
そういうわけで、教科書だけでは今ひとつ話が繋がらなくなる。注釈で最低限の説明はあったけど、最低限は所詮最低限だ。
先生(「こころ」の先生でなく件の国語の先生)はこの抜粋によるギャップを、持ち前の軽快なトークと、イッセー尾方主演の東芝日曜劇場(ドラマ)を観せるという工夫により埋めてくれた。1991年のドラマで画質も演技も何もかも渋かった。Kのキャラが原作に忠実で可笑しかった。その辺を先生は軽快にいじり笑いにしつつ授業を進めてくれた。飽きない、面白い、分かりやすい授業だったのだが、「この先生と、授業の冒頭で『ベクトルは宇宙人です』と言い放ち教室中を混乱に陥れたあのおじいちゃん数学教師とで給料変わんないのかぁ…」とか考えていた私は当時から性格が良い方ではなかったのだろう。

昔の話が続いたが、月日は過ぎて、今。
バイトの立場ではあるけれど、私は一応「先生」と呼ばれている。
しかし。

「無茶苦茶忙しいかと言われたらそうでもないけれどやらなければいけないことはあるので余裕はない感」が続いているここ最近において、中学生数人の自習を監視して1時間に1度あるかないかの質問に答えるだけというのは、いくら賃金が発生しているとはいえなかなかに苦行だ。
暇つぶしにと本を持って行った。試験中に教壇で文庫本を開く先生の姿を久しぶりに思い出していた。

ところが、先生と私とで違う点がいくつか。
読みかけだったのが文庫本ではなく、単行本。勤務中に本を読むことは当然アウトなので、適当なテキストを読んでいるふりをして内側に単行本を隠し、読む。文庫本に比べて隠し難い。読みにくい。

本を読んでいる私の姿は、どう考えても絵にならない。

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