残響としての小説

れみーにょさんの舞台を見てきました。れみーにょさんは、菜乃華れみさんで、食堂にたまーに出てこられるハイテンション激面白女優さんですね。

まあ、彼女の舞台、前後半別の短編の舞台で、れみーにょさんは、前半のバスケットボールダイヤリーズという作品をやられていました。後半も、モブ的に、おばけかゾンビのような、おもしろいことをやっていたので、むしろ、これが面白すぎて。

さて。バスケットボールダイヤリーズはハーフタイムの出来事を繋いでいく、断片的な作品です。ストーリーは、本当に、ハーフタイムの時間だけを切り取っている。断片のつなぎ合わせでああいう物語りの流れを見せる、というのはおもしろいなぁ、と思いました。

しかし、よく考えると、小説も断片ですね。断片が書かれ、間が空いて、断片が書かれ、間が空く。エピソードが残響のように、次のエピソードにつながっていく。小説は、間の芸術なのかもしれない。つまり、和音のようにエピソードが語られる、そして、その余韻が語られない空白を埋めていく、そして次のエピソードが語られて、語られなかった空白を(無意識に)繋いでいくわけです。

空白には、無数のエピソードがあるはずだけど語られません。岡田斗司夫が語っていましたが、鳥山明はドラゴンボールの裏の設定を一杯考えていて、修業期間に各々どういう修業をしていたのか全て考えているけど、それを全て描いていないのだとか。人物の背景があるけれど、それを書かないことで、エピソードの深みが増す。しかし、その深み。低音。これが、さらに深い残響となっていく。

武満徹は「音、沈黙と渡り合えるほどに」という言葉を残しています。エピソードと語られない時間。その対比が、小説なのではないでしょうか。

この議論をもっと進めていくと、「小説はいかに語らないでいるか」が問題になるように思います。

ここから先は

0字

私の個人的な身辺雑記

¥100 / 月
このメンバーシップの詳細

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?