その夜のやさしさ ~アイドルについて~

櫻木ねこさんが「アイドルに求めてるものって何?」という問いかけをしていた。アイドルに求めるものって何もないなぁ。というのが正直な感想だ。

求めるもの、ではないが、アイドルの定義を僕なりに考えてみる。

アイドルは歌って踊る。そうでないアイドルもいるかもしれないが、ひとまず、それは定義に入れておく。ひとつ、枠を無理矢理作ってしまう。そうでなければ、無限に検討する範囲が増えていくからです。

みんなで作る物語』で、僕は「アイドルはまなざされるのが仕事だ。」と書いた。誰かに見られること、それ自体がアイドルの仕事であり、彼/彼女自身を売っている。だから、アイドルは理想を求められるのであり、見られることで夢を見させる、夢物語の主人公なのだ。そう書いた。

当時はそこまで考えてなかったけれど、これはフーコー的なのではないか、通田。『現代思想入門』では、フーコーは「社会の脱構築である」としていて、「支配を受けている我々は、実はただ受け身なのではなく、むしろ「支配されることを積極的に望んでしまう」ような構造がある」とされています。「権力は、押しつけられるだけではなく、下からそれを支える構造もあ」ると。

アイドルをある種の権威として考えるならば、アイドルは権威があるからアイドルであるという見方もできるけれど、下から支える構造、つまりファンがいるからアイドルでいられる構造もあるのだと。

僕は、アイドルの権威性を巫女のようなものだと考えている。アイドルのライブ盆踊り説というものをまじめに考えている。

アイドルは、曲とダンス、歌によってある種の儀式の場を作る。ファンはそこで祈りを捧げる。アイドルへの愛を叫ぶ。この構造が、盆踊りの太鼓と周りを回って踊る人たちと重なる。その意味で、アイドルのライブは祭りであり、盆踊りだ。

祭りであるため、日常の中のではない。特別なひと時。非日常である。アイドルは、非日常性を有している。というより、そうだからこそ、アイドルとして成立する。巫女は神のものであり、手出しをできないものだ。しかし、まあ、手を出してはいけないものほど手を出したくなるものだ。『伊勢物語』では、伊勢神宮の巫女に手を出して左遷されるという話がある。この辺にいわゆるガチ恋の心理が隠されているのではないかと考えている。

祭りは神に捧げられている。では、アイドルのライブは何だろうか。天照大神は、太陽神の巫女が神としてあがめられるようになった、という説があるそうだ。神を崇めていて、その儀式を執り行う巫女が、むしろ崇められる、そういう、二重の構造になっている。

実は、これは神話だけではない。日本の統治構造は、平安の昔から、天皇という絶対的な存在がいて、その下に実質的な権力者がいる、という二重の構造になっていた。天皇は実権があるようでない。実際に政を動かすのは、そして権威者として崇められるのは、時の権力者であった。平清盛、武家政権、明治政府、そして現代も。天皇は象徴的に存在し、実質的な権力は彼らが握っていた。

アイドルのライブで崇められているもの、神なるもの、それは、効率化された社会から失われたものなのではないだろうか。妖怪やお化けを街の明かりが追いやってきた。効率化した社会は、我々の世界の、神秘的なものを追いやってきた。それは、もはや神と呼んでいいものだろう。本居宣長は神の定義を「尋常よのつねならざるすぐれたることありて、可畏かしこき物を迦微かみとは云ふなり」としている。すぐれたることとは、善い事や悪い事、悪しきものや奇妙なもの、すべてひっくるめていう。いいことであっても悪いことであっても、人智を超えたよく分からないもの、それが神なのである。

ハイになって、何だか分からない、気持ちいい状態になる、そこにアイドルのライブの醍醐味があるのではないか。だからこそ、その超越した状態、場のみんなが作り出した異様な熱気、空間、それが神のようなもの、聖なるものとして捉えられる。

私達は、聖なるものに触れるために、アイドルのライブへ行くのである。

アイドルは宗教と似ているといわれることもあるが、確かに、宗教と聖なるものは似ている。しかし、ジャン・リュック=ナンシーによれば、決定的に異なっているそうだ。宗教はre(再び)+ligare(結ぶ)であるが、聖なるもの、Sacredは「分離されたもの」「切り離されたもの」であり、正反対なのだ聖なるものは、隔たりのあるものなのだ。

そこまで書いて、アイドルとしてのかなこさんに興味が湧かない理由がやっと分かってきた。かなこさんはメイド喫茶で長く付き合いがあった。だから非日常性がない。日常の中の、めったにないもの、という感じ。だから、僕の定義ではアイドルたりえない。アイドルと同棲してる男子大学生というTikTokがあるけど、あれは、その極端なところだと思う。どーでもいい相手、日常。

コンカフェからアイドルになった人を見に行く時は、どこか、発表会を見に行く感覚がある。アイドルをアイドルとして見に行くのとは感覚が違う。これは日常性-非日常性の違いだ。知り合いがAVに出てたら抜けない、みたいな。

みんなで作る物語』では、アイドルの相対的完全性についても述べた。アイドルは誰かにとっての理想であり、完全なものだが、それは絶対的なものではなく、相対的なものである。アイドルはアイドル自身の権力と、ファンによる下支えの構造からできている。だから、支える側の認識によって、権力となりうるし、権力とはならない、という状況が起こりうる。どこかの会社の社長は、その会社の中では権力者だが、例えば親会社や元請けの中では権力者ではないし、家族の中で虐げられている場合だってある。つまり、誰かの理想=非日常性と誰かの日常性が共存しうる。誰かにとってはアイドルだけど、誰かにとってはアイドルではない、という場面が起こりうる。僕にとっては、アイドルとして出会ったさあやさんのような人がアイドルになる。だから、僕は、(僕にとって)本当のアイドルであるさあやさんに夢中である、と言い方ができる。

ここまでを定義として書くとすれば、アイドルはファンによって下支えされた権力である、という点と、アイドルは非日常性を有している、ということでしょう。

したがって、僕が考えているアイドルの定義は以下の3つになります。1つは、歌って踊ること。歌って踊らない人たちはアイドルとは呼ばないことにする。このあたりは世間的なイメージがそうだろう、という僕の主観的な要素もある。

そして、2つ目に、ファンによって下支えされた権力であること。アイドルは彼/彼女自身が見られることが仕事であり、逆に、見てくれる人がいるから、それが仕事として成立する。その、権力と下支えの構造にあるわけです。そして、これがアイドルの相対的完全性につながってくる。

最後に、3つ目として、非日常性を有していることです。日常の、効率的な社会から切り離された、聖なる存在であること。アイドルとファンには、一定の距離がある。巫女と祈る者のような。だからこそ、『推すことについて』で書いたような、アイドルとファンの距離感があるのだと思う。ライブという場で、聖なる体験をする。

たぶん、それは、僕たちが過去に忘れてきた原始の何かなのだと思う。科学が夜を塗りつぶした。その夜のやさしさ。自然への愛。そんな夢を見ている。

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