そして、宇宙となる ~アイドルのライブを見ること~

ずっと、JPOPを小馬鹿にしていて、アイドルはさらに小馬鹿にしていた。あんなものは芸術じゃない、という肥大した厨二病が、僕の目も耳も曇らせていた。

知り合いがやっているからと、アイドルの現場に行くようになって、だんだんとアイドルの曲がいい、と言えるようになった。大学時代以降、ジャズや武満を経て、だいぶ、耳が浄化された気がする。

だんだんと、自分と無関係な(知り合いがやっているアイドルではない)アイドルを見るようになった。校庭カメラガール3をかっこいいと思い、Astromateをかっこいいと思い、ひとさいをかっこいいと思い。ただ、ずっとひとりで、後ろの方で見ているだけだった。

徐々に、僕の見方も定まってきた。舞台を観たり、テクスト分析を少しかじったり、岡田斗司夫のYouTubeで「映像作品て、こうやって読み解いていくんだ!」ということを知ったりして、その横展開として、アイドルのライブを見ている。

『じゃんぴんぐフェスティバル』は、夏祭りをテーマにしていて、日本的な情緒をロックな曲の中に配置している。振付にも盆踊りや阿波踊りのようなフリといった、ダンスにおける記号的、演出的モチーフによって、親和性を保っている。ペンタトニックなメロディで、エレクトリックなサウンドと太鼓の和的な音を仲介している。
あと、最近個人的に考えている、アイドルのライブ盆踊り論にかなり近いので、嬉しく思う。
何かと言うと、神に近いものとしてのアイドル(「願いを叶えてやろう」、という人智の超越性)を祀る(曲では祭るとなっているが)こと、祀る人としてのファン(「拝んでや」、などの歌詞がある)、の構造は、盆踊りにおける太鼓の先導と囲って踊る人、の構造だよな、と。そして、本当に神として奉られているのは、盆踊りでは祖先の霊だったりするので、アイドルは巫女ではないか、と考えている。
さて、では、アイドルのライブでは、神として祀られているのなんでしょうか?
『あっち向いて恋』で、パンチをする。あれを、じゃんぴんぐフェスティバルからの引用である、もしくは、同じモチーフを共有している(日本的な動作、記号的モチーフとして)と考えてみる。あっち向いてホイも、日本的な遊びだから、このモチーフの共有には、曲を超えた(作家の言語としての)意味がある、とも言える。
こう考えてみると、深い話になりますね。
おそらく、こうしたモチーフの共有は考えてないとは思いますが、こういうことを(妄想的に)考えると、楽しいのよね、と。

まあ、だから、ライブを見に行くのに向いてないのだと思う。悲しいことに。
そもそも、そんな見方をしていて、本当にアイドルを好きなんだろうか?と思うわけです。
かわいいだけじゃダメなんですか?と。

黛実さんや、らむさん、コルダの関係者に挨拶せねば、ということで特典会にも頑張って突撃して、なんとか行けるようになり、遂にはひとさいなんかの、初めましてでの特典会にも行くようになった。オタクとして、またひとつ進歩してしまった。後ろでぼーっと見ているだけだったはずなのに。

マブダチに現場で会って、それはそれで感動だったんだけど、彼女の推してるグループのライブに行った。Utage!。白を基調としたドレス、かわいい衣装、担当カラーのラインが入っている。笑顔がかわいくて、動きもかっこよくて、歌も良かった。

何曲目か。アップテンポのカッコいい曲。最後のサビに入る前「みんなクラップ!」と煽る。彼女たちとともにクラップをする会場。左の方では円陣を組んで精一杯にコールをしている。飛び跳ねている人たち。柵を飛び越えそうな勢いで、最前で跳ねている。ぐちゃぐちゃに入り混じったカオスを、音楽がひとつにまとめ上げている。
明るいコードの中にアイドルの歌声が響く。明るく、力強く、精一杯に、世界を満たす。四つ打ちのバスドラムが、ドンドンドンドンと心臓を揺らしていく。会場は一体となって、もはや宇宙であった。
僕は宇宙に包まれて、子どもが初めての体験に目を大きく輝かせるように、表現し難い感動を、感動なんて陳腐さではなく、心の底まで包まれていた。僕はライブの一部であり、ライブそのものであった。言語を失って、感性だけが宙に浮いていた。

本当に良いものを観たら、言葉なんて出なくなる、というのが岡田斗司夫の言っていたことだけど、まさにそうだと思う。茫然としていた。

このためにライブに行くのだ、と思う。
命そのものとなる。生きていることを実感するために。ステージの彼女たちに愛を送るのである。

ああ、だから、僕はアイドルのライブの見方を変えなければならない。もっと、頭を空っぽにしなければならない。

言語化は世界を認識することでもあり、世界をぶつ切りにすることでもあり、世界の解像度を下げることでもある。
意味について考えすぎてはいけない。全て「意味化」することは、非効率な、何でもないものを排除していく。しかし、この非効率こそ、人生において大切なのだ。

そこには遊びがある。

遊びこそ、文化的な、人間的な、精神的な豊かさなのだから。

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私の個人的な身辺雑記

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