知らない誰か

K氏が部屋に戻ると、知らない誰かがいた。K氏の席で熱心にパソコンを操作している。K氏は画面をのぞき込む。一心不乱に仕事をしている。ちょうどいい。だれだか知らないが、サボれるのでちょうどいい。K氏はスマホでSNSを見始めた。

夕暮れのオレンジの日差しに、K氏は目を覚ました。あいつはどうしたか、と思って見ると、まだ熱心に仕事をしている。その働いている姿を見て、何となくムカムカする感じがしたが、まあ、やってくれるならいいや、とK氏は家路につくことにした。

帰り道の途中で、気になっていた居酒屋に入った。古めかしい雰囲気の扉を開けると、タイムスリップしたかのような木のテーブルが並んでいる。カウンターに座っている初老の男性がめんどくさそうにこちらを見る。どうやら店主らしい。奥に「おーい!お客さん!」と声を掛ける。若い女性が出てきて、前掛けで手をふきながら、注文を取りに来る。

ビールといくつかのつまみを頼む。

何組かお客さんがいて、ずいぶんと盛り上がっている。女性の店員さんが下げ物をしたり、お客さんから注文を取っている。店主は、しばらく新聞を読んでいて、はあ、とため息をついて、ポンと新聞をカウンターに置いて、調理を始める。

どうやら、店主と女性の店員だけでやっているようだった。女性が中に外に、いそがしくしている。店主の緩慢な動きに、もっとちゃんと働け、と思う。料理が出来たようで、店主が女性の方を見る。女性がいろいろやっていて忙しそうなのを見て、仕方ないなぁ、という具合に、K氏のテーブルに料理を持ってくる。

「お客さん見ない顔だね。初めて?」
そうだとK氏が答えると「ふーん、そう」とだけ言ってカウンターに戻る。

なんだか、K氏は勤労意欲のない店主にイライラしていた。イライラしたまま、すぐに店を出てしまった。

家に帰って、引きっぱなしの布団にばたんと倒れ込んで眠る。そして、夢を見た。

今、僕は、会社にいたあいつになっている。パソコンに向かっている自分を見ている。自分はパソコンで遊んでいた。僕は、包丁を振りかぶって、自分に突き立てる。

はっとして目覚める。K氏は汗だくになりながら、あたりを見回す。読んで放った雑誌やチラシ、ゴミ袋にカップ麺のカラが入っていて、低いテーブルにはおとといのビールの缶が置いてある。雑然とした部屋。ああ、片付けないと。急に散らかっているのが気になって、朝っぱらから掃除をした。

ごみを捨てて、仕事へ向かう。太陽の光がまぶしい。日光に頭が痛くなるいつもと違って、すがすがしく感じる。たくさん寝たのもあるだろう。だが、それだけではない、とK氏は思った。お天道様が背中を押してくれている。自分が生きているのは、この生命の源であるお天道様へのご奉公なのだ。なぜかK氏はそう思い、納得する。

K氏は「やるぞ!」と思いきりジャンプして、朗らかに、にこやかに、会社へ向かって行く。

どんなことも、バリバリ頑張れる。そんな気がした。

K氏は見違えたように熱心に働いて、家事もきちんとこなすようになった。生き生きと生きていた。同僚も、人が変わったかのように話した。

半年ほどして、K氏は幻聴が聴こえるようになった。最初は、たまに、誰かが呼んでいる気がする、という程度だったが、だんだんと、何かをしゃべっているような感じがしてきて、時にそれは念仏のようでもあった。それらはだんだんとK氏の活力を奪っていくようだった。

K氏は声に気を取られて、包丁で指を切ってしまった。深く切ってしまった。どうしよう、血が出てるし、ぱっくりと切れている。急いで病院へ行く。

「とりあえず、傷を洗って下さい。」

看護師が傷を見て、どうでもよさそうな反応をした。K氏は言われるままに、傷口を洗う。「もっとちゃんと洗って下さい。」と怒られる。なんで、怪我をして病院に来たのに、こんなにぞんざいに扱われるのだろうか。「はい、ギュッと止血して。こう。」と傷口を握るように言われる。痛かったが我慢して、抑える。

そのうち、診察の番になった。医者は、傷口を見て、「ああ、もうふさがってるね」と言った。一応、ガーゼ貼っとくから、キレイにしてね、と言って、ガーゼをテープで張った。医師も看護師もなんとなくへらへらしていて、楽しそうに雑談をしている。K氏は、処置されている自分だけがただただ騒ぎすぎているだけのように思え、なんだか、パニック気味に病院に駆け込んだのがばかばかしくなってきた。

追い出すように病院を出て、電車でSNSを見る。重傷患者が来た時に、医者が大変だ!という雰囲気を出すと、患者も大変なんだ!と思って、そのままショックで死んでしまうことがある、という話が乗っている。

もしかして、医者や看護師は、自分が慌てているから、冷静に、大した傷ではないということを示すために、どうでもよさそうな態度を取ったのではないか。

その日から、K氏の幻聴は聴こえなくなって、元の活力が戻ってきた。いや、戻り過ぎて、部屋の掃除はたまに市内で汚くなるときもあるし、仕事中のサボりも再発するときもたまに出るようになった。

でも、K氏は、これが自分のペースなんだな、と思った。太陽を見上げ、ありがとうございます、とこころの中でお礼を言った。

K氏は、まぶしさの中に、微笑みを見た気がした。

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