事前規制としてのKAM

KAMというのは、監査が事前規制的社会に組み込まれたことの証左なのでは?という話です。

『法の世界からみた「会計監査」 弁護士と会計士の分かり合えないミゾを考える』(山口利昭、同文館出版、平成25年)の中で、期待のギャップと絡めて、弁護士も会計士も事前規制的社会に組み込まれていくのでは、と書かれています。

ただ、ここで整理しなければならないのは、会計士に今後期待される役割ということだと思います。これまでの期待ギャップに込められた意味は、先にも述べた通り、会計監査制度の趣旨からして、会計士は基本的に法的責任を問われない、という事後規制(司法判断)の世界で問題になってきました。しかし、これからはゲートキーパー(そもそも粉飾を予防して投資家が被害を受けないためにはどうすべきか、という事前規制の世界、いわば行政規制の代替機能)としての役割を期待されています。金商法一九三条の三が新設された意味も、そのような趣旨で捉えられています。弁護士には自治権がありますので、それほど強く要請されることはありませんが、会計士の場合には監督官庁がありますので、なおさら強い要請があります。そのような要請があるにもかかわらず、これまでの期待ギャップの概念をそのまま維持する、ということは、おそらくさらなる行政目的を達成するため(つまり、粉飾が発生した後にペナルティを課す方向ではなく、粉飾そのものを抑止する目的を達成するため)ますます厳格な会計士規制が強制権をもって発動されることになるものと思います。

期待のギャップとは、会計士の職務と世間の期待のギャップを言います。山口先生は裁判に負けないことに関心があった時代には良かったのでしょうが、会計士の品質(世間の評価)が問題になる時代には、期待のギャップはそぐわないのでは、としています。そして、事前規制的社会に組み込まれるのであれば、会計士も発言することが求められるのではないか、とも述べています。

また、会計士の方々は「沈黙こそ金」であるかのように、ご自身の監査業務の内容を話すこともありません。これは会計士の守秘義務に由来するところが大きいでしょう。また、監査対象の企業行動を見つめる会計監査人についても、いくら職業的懐疑心を抱けといっても、実際には「粉飾などとは無縁なまじめな企業が」ほとんどです。企業が沈黙しているからといって、すぐに粉飾が疑われるわけではありません。「黙っていることは、何かやましいことがあるからではないか」といったイメージは持ち合わせていないはずです。
しかし弁護士の世界では「沈黙は黒」です。こちらからの主張に対して黙っている相手方はいうべき利益はきちんとしなければクロだと評価されます。昨今の企業コンプライアンスの発想からすれば、マスコミや株主から「会計監査人はおかしいのでは」と騒がれれば、これにきちんと反論しなければ、おかしいことを認めているものと受け取られます。そうなると、たとえ裁判に勝訴するものであっても、訴えを提起される可能性は高まります。このあたりの会計士の感覚と世間の感覚のズレこそ、会計士の方々に理解いただかなねばならないものと思います。社会の批判が高まることが、会計監査人への訴訟提起の引き金になります。

一般企業では、消費者が危ない商品を避けられるように、企業の自律的行動を評価するようになり、企業側もこれを情報提供をすることが求められていきます。そして、このような、情報はマスコミやネットなどで共有されていき、レピュテーション(企業の社会的評価)となります。企業はレピュテーションを守るために積極的に発言をするようになっていきます。
公認会計士も、レピュテーションの概念が生じるようになっていきます。「沈黙は黒」であり、監査人として、品質の説明をすることが求められるようになっていきます。そのような事前規制の中での説明として、例えば、監査法人にもガバナンスコードが設定(参考HP)され、それに従い品質管理体制を公表しています。
そして、このような、説明のひとつとして、KAMが導入されているのではないでしょうか。

もともと、KAMの導入の経緯として、「合格/不合格の二者択一の監査意見を表明していること」「型通りであること」「専門的用語を多用していること」「監査手続や監査判断の水準が記載されていないこと」などが問題点として挙げられていました。要は、消費者たる投資家(本来はそれだけではないのですが)が理解可能で利用可能な情報の提供を求めているということです。このうち、監査の判断についての重要な部分の説明を行うようになったのがKAMです。

考えてみると、監査制度や考え方も、社会の状況に応じて変わっていったように思われます。

現在、60~70歳くらいの会計士から聞いた話ですが、昔は粉飾がばれなければよい、という感覚でいたそうです。悪い時に損を繰り越して、良くなったら解消する、高度成長期は全体として良くなっていった時代なので、そういうこともできたのでしょう。バブル崩壊からそうした繰延べがし切れなくなったのではないでしょうか。

監査調書でいえば、かつては裁判を受けたときにどのように対応するかという観点からの監査調書でしたが、近年は公認会計士協会の品質管理レビューや公認会計士監査審査会の検査のための監査調書という観点が強くなっている気がします。そして、その検査の指摘によって被監査会社への要求も大きくなっている面があります。例えば、会計上の見積りについては、一定の率を定めていただけでよかったものが、その率が妥当性の説明を求めるなどです。過去の経験と照らして妥当かバックテストを行うことで、その率が妥当でないと考えられるならば、その率の改定を行うかどうか検討しなければなりません。

このような規制は、ソフトローとして機能していることになるのでしょう。山口先生は、事前規制的社会において、何の対策も講じていない製品を国民から遠ざけるための情報開示として、ソフトロー・レピュテーションリスクが重要になると書かれています。

しかし事前規制的発想からするならば、事故や事件が起こってからでないと責任追及ができない、というのでは遅すぎます。自己や事件が起こらないために企業がなにをしているのか、何も対策を講じていない企業の製品を国民から遠ざけるためにはどうしたらいいのか、せめて国民が自己責任として、これらの製品を遠ざけるための情報は開示されなければならないのではないか、という発想が求められます。そこから、ソフトロー・レピュテーションリスクという概念が注目されるようになります。

このように考えてみると、監査制度においても、ソフトロー・レピュテーションリスクの考え方が徐々に入り込んでいる(会計士がそれを自覚しているかは別として)のではないでしょうか。そして、KAMもその一部として、機能していく事になるのだと思われます。

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