無題

外に出ると、刺すような冷たい風が鼻の奥をツンとさす。ほっぺたがひりつく。マフラーをずり上げて、口元を隠す。息がマフラーにこもって、布団のようなぬくもりとなる。久しぶりの外出だった。5日ぶりだろうか。食べ物も買い置きをいろいろ回して食べて、完全に引き籠った生活をしていた。鍵のある場所が分からなくてずいぶん探してしまった。急ぎ足で電車へと滑り込む。こんなに音があふれているのも久しぶりだ。ちょっとだけ混んでるな、と思う。家族連れやカップルが楽しそうに笑っている。席が空いて、座る。横に来た中国人らしき観光客がカンカンとした声でまくし立てていて、辟易する。暖房が効きすぎていて、コートの中がサウナの様であった。

神社に行ったら、案の定人だかりだった。
「おう。あけおめ。」
大学の同期の飯塚。向こうには林と美玖がいた。
「あけおめ。ひさしぶり。」
「ひどい顔だな。無精ひげで。」
「まあ、めんどうでね。ところで……」
じっと林と美玖の方を見る。不思議そうな目を返す。
「まあ、いいや。」
「なんなのよ。来た瞬間に。」
林がいつものちょっと怒ったような笑ったようなよく分からないテンションで話しかけてくる。
「あんた、だいたい遅れてるのよ。何分待ったと思ってるの?」
「遅れてるって?それはそれは。ずいぶん地球はせっかちだな。」
「何が地球はせっかちよ。わけ分かんない事言うな。」
「そもそも、遅刻というのは現代の近代以降の概念で、言わば、近代病なんだから。」
「また西村の変な話が始まった。」
笑いながら、飯塚が林の肩を叩く。自然に。肩に手を置いて、さっさと行こうぜ、と促した。ゆっくりと雄大に流れていく人の河の中に、僕ら4人はゆっくり飲まれていく。

「正月何してたの?」
「美玖は?」
「寝てた。」
「やっぱり。」
「西村Line見た?」
「見てない。」
「やっぱり。」
「見てよ。」
「今見るよ。」
「今更もういいよ。」
「すまないねぇ、美玖さんや。」
「何それ。」
「いや、おばあちゃんのマネ。」
「西村の?」
「うちのおばあちゃんはそんなこと言わないけど。」
「ふーん。」
スマホを取り出して、Lineを開く。宣伝のアカウントのトークの下の方に、美玖の名前があって、緑色の数字が点滅してた。あけましておめでとうのスタンプがかわいらしく踊っていた。
「おめでとう!」
小躍りする。美玖がちょっと笑った。心の中でガッツポーズをする。
「あ、飯塚も林もおめでとう。今Line見た。」
今かよ、とツッコミが入って、飯塚がもちを10個食った話を聞かされることになった。

30分くらいコミケの入場待ちのような列を耐えて、賽銭を投げて拍手する。「ニレーニハクシュイチレー」という呪文がそこらから聞こえてきて、謎の新興宗教のように不気味だった。神社も宗教だけど。もはや、祝詞ですらない文言を唱えて何の意味があるのか。帰りは比較的スムーズに、ディズニーから帰っていく時のように、流れていた。階段を下りて、飯塚と林と別れて、美玖といつもの喫茶店に行った。

「また書いてないの?」
もらった年賀状を並べだした僕をみて、美玖は呆れたような声でそう言った。もらった年賀状のうち、まだ返してないものを、こうしてこの喫茶店で書くのが毎年の恒例となっている。去年、なぜか美玖もついてきて、書いてるところをずっと見られていた。今年はもう一緒に来る流れになっていた。
「まとめて書いた方が効率がいいから。」
「たしかに。」
「たしかにって納得していいの?」
「だめだわ。」
「パフェでも食べて待ってて。」
「やだよ、寒いじゃん。」
「心はあったまるよ。」
「ばか。」
ちょっと笑いながら、結局パフェを頼んでいた。美玖のこういうノリの良さとつかめなさが、いつもおもしろいなぁ、と思う。
「やっぱり寒いや。」
そう言って、ホットコーヒーをすする。
「でも、心はあったかいだろ?」
「いや、西村が構ってくれないから寒い。」
「人間関係が僕を責め立ててくるから。もうちょっと待ってて。こいつら地獄の底まで追いかけてやる。」
「向こうで何も食べちゃダメだよー。」
「桃なら大丈夫かな。」
「食べずに投げつけろ。」
「いっぺん、死んでみる?」
「手、止まってるよ。」
「はい、書きます。」
ずずずとコーヒーの音が聞こえた。

美玖がパフェを食べ終わって、ホットカフェオレを追加注文して飲み終わる頃には、もう年賀状も書き終わって、最近見たアイドルの話なんかをするようになっていた。あそこのグループのあの曲好きだとか、バズった曲ばっかりやってちょっと辟易するよね、とかそんな話を。
ポーンと柱時計がなる。こんな時間になってしまった。
帰り際。レジでマスターに話しかけられる。
「あのこ、彼女?」
「え?あー、友達です。」
「そうなの?正月早々2人でいるから彼女かと思った。」
「そんなものなんですかね。」
「好意が無かったら、この時期にいまさら年賀状書くバカに付き合わないと思うけどな。」
「うるせえやい。あ、これ年賀状。」
はがきを差し出すと、マスターは「ポストにいれろや。」と言いながら乱暴に賀状を奪い取った。
「ありがとう。また来てな。」
「はい。じゃあ、また。」
軽い挨拶をして、外に出る。美玖が足踏みしながら待っている。こいつが恋人ね。ちょっと笑いがこぼれた。考えたこともなかったな。
「美玖、彼氏とかいないの?」
きょとんとした目でこっちを見て、バカ、と言った。ゲラゲラ笑いながら、またね、と言って解散した。

家に帰ると、正月に食べ散らかしたカップ麺の容器をゴミ袋に突っ込んだやつが玄関を占拠していて、無理矢理またぎながら入っていく。小さなテーブルの周りに本がいっぱい積んである。勉強をしながら年を越した。そんなことをしてるから、年賀状も書かないし、LINEも見ないんだよ、と言われるけれど、年末年始くらいしかまとまった時間は取れないから、こうして勉強していた。毎日見ろよと言われたから、帰ってきてLINEを見る。林から連絡が来ていた。美玖とどっか行くのか?と聞かれたので、喫茶店で別れたと書いて返した。ごはんでも一緒に食べればよかったのにと来て、たしかに、それくらいしてもよかったな、と思った。テーブルに放置していたカップをとって、洗面所でガチャガチャ洗って、水道水を入れてぐびりと飲む。冬の水道水は、冷たくてもったりした味がする。林に、家だけど今から誘ってみるわ、と返したら、いまさら誘うなアホ!と返ってきた。冗談の通じない女だ。

勉強して、眠くなってそのまま布団に潜り込んで、いつの間にか夜中になっていた。ツイッターを見たら、アイドルの解散のニュースとそれに対するコメントが載っていた。リプには、たくさんの悲鳴のようなコメントが並んでいて、切ない気持ちになる。泡沫のようにかつ消えかつ結び、アイドルは現れて消えていく。そんな泡の中をオタクは漂って、弄ばれている。本という次から次へ出版されていく海の中で無限に湧いてくる文字の泡沫にもがいてももがいても呼吸が出来なくなっている僕のようだ。夜は不安にさせる。海の底のように闇が圧力で僕を押し潰そうとする。全く。とんだ十字架を背負っちまったぜ。腹が減ってるな、と思って、近所のコンビニに行って、適当にあんぱんとコーヒーを買って戻ったら5時前だった。もうすぐ、夜明けになる。世界は希望に満ちあふれる。光の祭典。エロスの高悦を鳥たちが歌うのだ。ピーヒャラピーヒャラと。この辺りはカラスかスズメくらいしかいないから、そんな鳴き声も聞こえない。部屋。世界から隔絶された小さな空間。夜中のお化けも出てこないサンクチュアリ。世の中から切断されて、誰とも接続しない。鎖国。いや。鎖部屋。縛られて、もはや囚われ。それでも。泡沫にもがいて息ができなくなるよりはマシなのだ、そう思って、本の山を積んでは崩す。永劫の悲しみを繰り返して。

電話の音で目が覚める。スマホを取ると美玖。
「どうした?」
「起きてる?」
「起きてるよ。」
「昨日、年賀状に付き合ったから、一緒に本屋行ってくれない?」
「え?1人で行けば?」
「何か選んでよ。」
「じゃあ、『現代会計理論入門』」
「そんな本読めないよ。」
「じゃあ、『貿易戦争の終焉』とか」
「分かんない。」
「分かんないから読むんだよ。」
「分かりたいんだけど。」
「はい。すみません。何時にどこでしょうか。」
「SHIBUYA TSUTAYA前で待ち合わせね」
「それは曲名」
「渋谷で5時」
「それも曲名」
「え?曲あるの?」
「知らなかったの?」
「知らなかった。」
「そう。じゃあ、SHIBUYA TSUTAYA前で待ち合わせね。」
「渋谷で5時ね。」
「分かった。ところで、渋谷のTSUTAYAってどこにあるの?」
「呪文教えてあげる。」
「何?」
「OK Google」

そんな会話をしたものの、結局、真昼間の新宿紀伊國屋になった。新宿紀伊國屋の会計コーナーで待ち合わせ。僕の興味のある場所がそこだから。というのと、混んでるところで探すのは大変だから、分かりやすいところへ、という配慮のつもりだったのだが、美玖は見事に新宿の迷宮を彷徨う亡霊となった。たどり着けないんだけど、というLINEに祈りのスタンプを送る。怒りのマークがぽこぽこぽことついた。小田急線の改札にいると言われた。小田急線と言われても分からない。いくつもあるし。バスタは?食べない。パスタじゃねえよ。バスだ!バスだ!じゃねえよ、余裕あるな。どうやらバスが走ってるらしい。どこだよ。
美玖は西口にいたらしい。都営新宿線の改札で、何とか合流できた。せっかく西口に来たから、納豆ラーメン食べに行かない?と聞いたら怒られた。

「で、どういうのが好きなの?」
「何でもいいんだけど、読みやすいやつ。」
「この『簿記会計の基礎』とか、わりと平易で」
「会計から離れて…」
「会計がお前を洗脳しようとしてるのさ。」
「脱洗脳!」
「洗脳してやる〜!」
「悪霊退散!悪霊退散!」
「煩悩やで〜」
「オーノー!」
「Bon know」
「で、どういうのが好きなの?」
「この『簿記会計の基礎』とか、わりと平易で」
「会計から離れて…」
「会計がお前を洗脳しようとしてるのさ。」
「脱洗脳!」
「洗脳してやる〜!」
「洗脳お化けだ」
「会計をやれ〜。」
「レジの人?」
「特打!特打!」
「なんてスピード」
「で、どういうのが好きなの?」
「この『簿記会計の基礎』とか、わりと平易で」
「会計から離れて…」
「小説?自己啓発?」
「自己啓発までは行かなくてもいいけど。なんか勉強になりそうなもの。」
「じゃあ会計だ。」
「会計は難しいから。」
「そう」
「そう」

1時間くらいかけて、ユング心理学の紹介のような軽い本と軽いエッセイ本を美玖に買わせて、自分は気になっていた新書を4、5冊買って、喫茶店へ行った。電車でトコトコと、昨日行った喫茶店まで行った。マスターに挨拶をして、窓際の4人掛けの席に座って、しょうもない話をした。そういえば、何も食べてなくてお腹が空いていて、ナポリタンを食べた。美玖もナポリタンを食べた。喫茶店のナポリタンは柱時計だと思う。ずっとそこにあって、時を刻んでいる。

だんだん美玖と喫茶店によく来るようになった。マスターとも馴染みの客として話したりする。店は明るくて、焦茶の古びた木材が昭和の味わいを醸し出していて、落ち着きがある。ガヤガヤとした、チェーンの喫茶店とは違う、落ち着きがある。静かに時が刻まれていく。その雄大な流れを。

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