かっこ悪さの三段活用
(https://twitter.com/sasakitoshinao/status/1503533444785401857 より引用)
反権力が格好いいのか、格好悪いのか、という点について。
最初に結論を述べると、「反権力」が格好いいわけではないんですよね。
格好いいのは
自分より強い者に不利を承知で信念をもって対峙すること、その覚悟。
です。
創作とかでも定番の設定でしょう。
自分より弱い誰かを守るため、自分の信念を守るため、勇気を振り絞って強大な敵に挑む。正に王道。
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かつてその「強い者」は国家という公権力であったり、抑圧的な古い慣習だった。
そして反権力とかリベラリズムというのは、それに対峙する存在だった時もあったわけです。だから「反権力」は格好良かった。
でも今はどうか。
日本は、言論の自由が保障され、政府批判もデモもやり放題。言論界隈はリベラル勢力が制圧しています。
政府批判をしても逮捕される心配もない。
SNSのアカウントとかの発言の場を強制閉鎖されることもない。
職を追われることもない。
デモをやって警察に殴られる事もない。
巨大な権力の闇と対峙する新聞記者!という触れ込みで、露骨に最高権力者を当てこする映画が権威ある映画賞を受賞する。
私たちは弁えない!とか言って政府与党の重鎮を追い落とすことさえできる。
デモをしても政府や政治家を批判しても、何の実害もない。
決して本邦の公権力は自分たちに反撃してこない。某国で行われているような弾圧は起こらない。
「反権力」勢力はそれを理解しています。無自覚にですが。
例えば、本当に日本が言論弾圧国家であると思っている人は、気軽にSNSにそれを書いたりはしませんよ。というか怖くてできないはずです。
本当の弾圧なんて起こらないと確信している。
だから彼らは実にカジュアルに「反権力」仕草ができるのです。
これのどこに、強者と対峙する覚悟があるでしょうか。
安全が保障された場所から反撃してこない相手に好きなことを言っているだけです。
今の「反権力」には、自分より強い者に対して不利を承知で対峙するという格好良さは微塵もありません。
絶対に叩いたりしてこない優しい親に対して、クソババア!とかイキッて暴言を吐いている反抗期の子供のようなものです。
実に格好悪い。
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そして「反権力」を標榜する勢力にこの格好悪さの自覚は全くありません。
彼らは政府や公権力が自分たちを弾圧することはないと確信していますが、それはあくまで無自覚なものです。
ガチの「弾圧」が起きないことは内心では確信しているので、安心してカジュアルに権力の弾圧を批判しますが、ふわっとした表層意識では言論弾圧があると本気で思っている。
彼らの自己認識は未だに「巨大な権力に敢然と立ち向かう孤高の市民」のままなのです。そしてそのように振舞う。
実態は親に暴言を吐く反抗期の子供なのに。
まさしく裸の王様。
そして、その自覚がないから自分たちを例えばロシアや香港、中国で権力と対峙する「反権力」勢力と重ねようとする。
自分たちは同じく巨大な権力に対峙する同胞である、と。
でもその実態は。
言論の自由が保障され、暴力を振われることも逮捕されることもない、安全な場所で「反権力」ごっこをしている人が、ガチで言論が弾圧され発言一つで身の危険がある場所にいる人の「反権力」の覚悟だけを剽窃しようとしているわけです。
強大な敵に信念をもって挑むという構図を失った本邦の反権力は格好悪いです。そして、そのことに自覚が無いのがまた格好悪い。
反権力が格好悪いわけではありません。
本邦の「反権力」勢力が格好悪いのです。
そこは間違えないで置きたいですね。
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余談ですが、創作とかで出てくる「強大な敵」は総じて悪と紐づけられることが多いですよね。邪悪な大魔王とか、侵略的な軍事国家とか、強大な権力を持つ貴族とか、強欲な企業とか。
まあ、物語としては強大な敵に果敢に挑むという格好良さに加えて、「悪」と戦うという格好良さを追加できるので、これも王道の構成ではあります。
「反権力」勢力が国や権力とかを、対峙する敵としてだけではなく「悪」という属性として扱うことが多いのは、多分この構図の延長線上にあるんでしょうね。
権力=悪と戦う自分は正義の味方、という構図。
……そういうヒロイックな二元論は物語の中だけにしてほしいと思います。多分、世界はもう少し複雑ですから。
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