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螺旋をおりたら (1)

湿度のない流れが止まり、遠忌(おんき)の歌を率いて落ちた。鳩尾に強く押し込まれるのは、人の膝だろう。ならば、
「動くな」
否応なくその言に従う身をもって、鼻先の暗闇に目をこらす。
古い寝台のきしみ。
外気と砂を混ぜて張る、冷気。
首筋に感じる一筋の金属端は、おそらく、丹念に研がれた短剣だろう。唐突なこの状況を、何より饒舌に語る。
対照的に、柔らかさを湛えて耳に届く、祈祷の声。年に一度のこれを聞くために窓を開け放ち、知らず寝落ちたのだった。日頃は身近に感じていた祭事でも、こんなときは他人事の極みであり、救いではない。
他者の息づかいを感じようにも、黒い口布の向こうに押し隠れたまま静かに、そして澄んでいる。
寝込みを襲われるとは、いつの間にヤキが回ったものか。
「おい」
しかし、我慢の限界を越えた本能がこともなく声になった。腹に力を込めて、息を吸う。
「その傷、時間が経てばそのぶん、完治が遠くなる。分かっているんだろ」
「動くな」
「死にたいなら、ここから出ろ。葬儀屋くらい紹介してやるぞ」
投げやり気味に、ため息を抜いた。

秋水覧獅(しゅうすい・らんじ)は医者だ。山間の診療所に、専属医師として常駐している。
崖があり、沢があり、真ん中に大きな穴も空いているとなると、閑古鳥と戯れる時間も多かれど、時に緊迫した事態がもたらされることで、その職の重さを思い知ることになる。
かつては、医術に関して師事した人物とともにいた。彼に、留守にする間を頼むと言われ、頷いた覚えはあった。しかしその後は、いわば消息を絶った状態。もう何年経つのか。惚れた女に寄り添うとか、裏側の社会勢力に荷担するとか、十分に可能性を秘めるような、謎も多い人物だった。
なし崩しで帰還を待つ身となり、一応は職として落ち着いた場に、深夜の急患は珍事でない。

「なあ、見せてみろよ。俺は犬でも治せるぜ」
腹上にのしかかった体は、重心を変えることなく、ただ覧獅を見下ろし、剣を構えている。頭部から顔の下半分を覆う黒布、肩から垂れる薄いマント、どれも冴えきった沈黙を助長する中、唯一、鋭く光る二つの目玉だけが、熱を帯びているようだ。まだ大丈夫だ、と念じずにはいられないほどの、血のにおい。人体を駆け巡るための液体が、外気に触れ、不本意に死んでいく。
「……なあ、聞こえるか?」
遠く流れる、暦の歌。その近くには、揺れる護摩の炎があるだろうと思う。覧獅にとっては、どれも馴染みのもの。弔いを目的とする五日間の序章である。
「祭りの音は、魂を連れていく。俺は、乗せたくない。お前もだよな?」
「……はい」
のどの奥からこぼれた、微かな声だった。成立した対話はそれだけだったが、拘束の全てが消えたと同時に、
「え、おい、子供かよ」
ぐったりとした重みが、視界を覆い降りてきた。

裂傷レベル4。
縫合が有効だろうが、肩から肘へ、腱にまで及ぶ深さだ。左利きでなければいいが、と思う。青白い頬は失血によるもので、鎮痛剤が回る頃には、幼さの宿る笑顔が想像できた。
衣服は、実に簡素なものだ。襟のない長袖シャツと、裾を折り捲った綿のズボン、どちらも小柄な体には少々余るサイズ。砂にまみれ、更に血を吸った後とあっては、元の色彩を推測することなど意味がない。
「お前がやったのか?」
黙って床に座りこんでいるほうを見やる。怪我人を背負い、ここまで走り通したのだろう。傷だらけの足裏は、当然、覧獅の寝具にも印を残していた.。「いや、お前がこいつを傷付けたとは思っていないさ」
この優しき年長者は、処置のために照明をつけた瞬間に、赤黒く濡れた自身の上半身を初めて顧みたらしい。驚愕を飲み込み損ね、両目を潤ませた。覧獅はそれを見ぬ振りをして、兄弟ならば血を分けてやれと命じたのだった。
「一応の、応急処置がしてあったからな。あれは、それなりの知識がないと、な」
処置室の入り口ドアにもたれる位置にいるのは、内外への警戒の意。手元に剣を置き、目玉だけが発言者の方角を認める。
「名前は……いや、お前でなく、怪我人の名を知りたい」
覧獅の問いに、答えるものを持たないかのような無反応が返ってくる。理由もあるのだろう、覧獅は少し笑ってみせた。
「こいつの、戻りかけの意識がさまよう時に、呼びかけるためさ。今、この体はからっぽだ。痛みを遮断するということは、それを感じる部分を、一時的に切り離す状態だからな。戻れる体が用意できたところで、戻る覚悟を促す。それが、名を呼ぶってことだ」
全てが理解できた素振りはしなかったはずが、不意に口布を外した。覧獅が凝視する中、眼光から想像した風体は、あっけなく裏切られた。
「……ナキリのものだったか」
合点がいく自分に、舌打ちをした。