征太郎を待つ
ほどなく、彼はやって来た。
手招きをして、遠慮なく入れと伝えるが、しかし成人した姿の彼は、神妙な顔つきで深く頭を下げたのだった。
「ありがとうございます、すぐにでもあなたに礼をしたくて」
その後の一切を眺め、言動に偽りのないところは知っている。次に目が合うのを待たずに、
「早くお入り。冬ってのは、寒いんだよ」
ふすまを閉めるよう促すと、顔を上げ、安心したように笑った。
卓に着かせ、まずは熱い茶をすすめる。初めてではない役振りだ。
「おかえり」
「はい、ただいま戻りました」
儀式を終えた黒い正装が、よく似合っている。袴の裾を片手でさばいて座るのも、それは若く瑞々しい所作である。同時に、最初にここで目覚めた時の、恐怖と好奇心の入り交じった目は、とても可愛らしいものだったと思い起こした。
「遅くなりました、神之門征太郎と申します」
「大丈夫、わかってるよ。俺がこっちに引っぱったんだから。道央は、どうだった?」
対面に問い、違えた名を改めて返すと、征太郎は素早くうなずいた。
「とても元気で、落ち着いています……が、正直、わたしのほうが戸惑っています」
「ああ、病中の顔が長かったものな」
「これから先、また臥せるようなことは、もうないのですか?」
回復を願っていたはずが、底辺近くにて突然姿をくらまし、また突然に健常体として舞い降りたわけだから、つながらない事軸に様々な思いもあろう。何より、研究の日々に埋もれたその根元が、見た目にはきれいに抹消されている。そこが今一番の心配ごとだと言うかように、征太郎は真っ直ぐ聞いてきた。
「ない。いや、望むのなら別だがな」
知る限りのことを口にするや、征太郎は目を見開いて、この言葉が意味する世界を咀嚼している。そして、十分にほぐれた内側から、次の質疑を繰り出した。
「……我々はそれほどに、自由ですか」
力なく、まるで絶望したかの言い様だ。こちらが失笑してしまう。
「さっきはそう聞かなかったのか」
「いえ、なんだか、漠然として」
「何か、疑問が?」
春が唱えたであろう我々の役割を、新参の彼らなりに大きく理解した程度で、再び反芻させる。
儀式では、互いの干渉範囲が明確に伝えられるはずだ。
我々が四季として居り、彼らは雨として作用する。それらは全て自然現象であるから、ゆがまずに運行されるうちには何も為すべき事を持たない。ただ、流れゆく全てを見届け、小さな願いを聞き、時には、救うこともできる。
確かに漠然としているが、他に何があると聞かれても、さし当たった答えに窮するところ。
「まあ、お前にとっては、道央が主だからな、どこまでも従えということだ」
「神の道に、ですか」
「そう、道徳にね。なにせ、時間は山とある。そうだろ?」
はいと答えたのは、困ったような、それでもどこか嬉しそうな顔に見えた。
本質は、収縮。だから、次の場面を信じない者には恐れられ、疎まれる。確かな伸長は、春にある。故に冬とは、そういうものなのだ。
この黒い一室に窓がない理由をそこに逃がし、今後築かれる彼らの社のことを話しながら、共に酒を飲んだ。征太郎は、やはり美しい箸使いで、肴を口にした。彼のために、ここに美味いものを用意することこそ快楽であると思えた。
「四季全員にああも順当に出会えるとは、俺も思わなかったぞ」
「そうなのですか」
秋は明らかに迎えに出てきたのだし、夏はずっと背後に付いていた。春に至っては、ここから俺と眺めていたわけだが、重要書式などはさらりと仕上げ、終始にやにやしていた。
「まあ、雨というものは、どの時季にも必要だ。しかしな、俺は、道央にひと月会わなかった。ふふ、分かるか」
杯の向こうに、しかし視線はやれなかった。僅かに目を伏せ、ため息を抜くように微笑んだ。
「それは、会うことを拒んだということですか」
「ああ、そういうことだ」
征太郎にも、そのひと月の意味するものは理解されたようだ。ささやかな吐息のような笑みが聞こえた。
「お前は医者だからな、もう少し、現世の役に立ってからでよかったのだ。でも、いつまでも雨天では、次の耕作に障る。夏は夏で、毎日めそめそと暑苦しいし」
「ええ、気の毒に思うほどでした」
自らが原因の涙だったと知り得た顔は優しく、擁護すらしそうな口跡である。
神とは、見る者によって姿を変えるという。桃色の霞をまとった天女とされ、また、豊満な肉体を持つ聖女とされ、もしくは、悟りの中に薄目を開く老人とされて、下界との一線を明確に引く。
しかし、夏と呼ばれるこの神に限り、印象を揺らがすことは少ない。色黒で彫りが深く、どちらかと言えば笑わぬ顔。饒舌な春が薄っぺらに見えるほどだ。
「知っているか、この国には、全てを超越する神は、ないんだ」
「はい、どなたも、修行の御身とされます。終着の域はまだ先と」
「そう。だから、言語の中、日の行いの中に霊は宿る。が、我らと同じく、各々の守備範囲はたいして広くはない。だからこそ、心が動く。いや、心を持つことを許されているんだと、俺は思うんだ」
征太郎は、小さく頷いた。これまでの教えには違わない部分であろうが、神本人が言うことで、自らの立場が理解できるものだ。
「春がねちねちと嫌味言って、夏はがっくり落ち込んで、秋は秋でなぜだか機嫌がよくて、俺は、お前さんをどうもてなすか、台所に立ちっぱなしさ。下界は雨でじゃぶじゃぶしてるってのにな、気楽な神さんたちだろ」
心地よく回った酔いのせいか、少々余計なことまで口から出た。征太郎は、賞賛の目で、改めて卓の上を見渡している。そして、真正面に俺を見た。
「心とは、すなわち生命です」
医学者という前職のもと、明朗に言い切った。
「心とは、変幻自在で、とてもしたたかな、愛おしいものです。わたしにとっては、あなたが教えてくれたものです」
「ははは、そうか」
「はい、大事にしてゆきますので」
互いに照れたような沈黙があり、それから、
「あの、炊事など、わたしにも出来るでしょうか」
「教えてやるよ。道央の好物はなんだ?」
「冬さまが、神之門の血筋に庇護をかけ、征太郎をお産みになったと聞きました。医者として働き、たくさんの人助けをするように、特別な頭脳をくださったのだと」
「あの一族には、昔から、何かに秀でた者が出る。いちいちに天上からの賜りがあったかどうかは定かでないがな、確かに、征太郎は、俺が目をかけた。天寿を全うしたあかつきには、こちらへ招くつもりでいた」
「僕はどうお詫びをしたらよいのでしょうか。この雨を、なんとしたら止められますか。どうしたら、征太郎を、現世に留められますか」
「なに、今でも、五十年先でも、俺にはたいして変わりのないことさ。こうして、お前と差し向かうことができるように、征太郎とも語らうことができる。俺の望みは、それだけだ」
「でも、冬さま、それでも」
「もとより、お前から奪おうとは思わない。それを征太郎が望まないからな。さあ、もうお行き。じきに雨は止むよ」
道央の魂を間近に感得した時から、引退し損ねたとは考えないことにした。
同時代のうちに、対になる魂を持つこと自体が奇跡なのだから、天界といえど関与することは好ましくない。
もうしばらく、この国の冬を見届けるのが、我が使命。
次に来る美しい季節を、精一杯支えようではないか。
「お邪魔しまーす。ほら、葡萄持ってきたよ。今年は特にいい出来だよ」
「僕は、桜の枝を少々失敬してきたぞ」
「すまぬ、これを」
「わあ、とうもろこし、こんなに。あ、道央も持ってるの?」
「なあ夏、どう考えても四人と客二人だろ。いつも穫りすぎなんだよ、お前は」
騒がしい夕餉も、まだ続くようだ。