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霧ヶ峰「ころぼっくる・ひゅって」の夜に

雨上がりの夜、静かな住宅街を歩いていたら、雨の名残りの重く感じる大気の中に、甘やかな香りが漂ってきた。住宅の庭や垣根に植えられたキンモクセイの花の香である。もういつのまにかにそんな季節になったのだ。

「書き留めよ  議論したことを  風の中に吹き散らすな」
という言葉をガリレオ・ガリレイが残したという。

議論したわけではないが、頭によぎった数々の想念を、ここ数カ月、私は何ら書き留めることなく、ほとんど風の中に散乱させてしまった。例えばウグイスの囀りから様々に連想が広がり、それを書きつけようと思いながら、身辺が私の年齢にしては忙し過ぎたことと、真夏の過酷な暑さとで体力が奪われ、書く気力が萎えて休止、そのままになってしまった。今、それらを拾い集めてみようとしても、その時の気のはいった新鮮さなど失うか薄れ去っていよう。ここは散らしてしまった鳥のさえずり関連からの想いはいったん留め置き、先日新聞で色川大吉さんの訃報を知り、それから様々によみがえってきた遠くの思い出を記したい。

近代民衆史、民衆思想史研究などで大きな仕事をされた色川さん。各新聞では自由民権の研究者で五日市憲法の発見者、自分史の提唱者といった紹介をしている。私は、色川さんにお会いして直接お話を伺ったのは数少ないが、氏の著作によって近代、そして幕末や明治維新という時代と現代の社会を捉える視点を明瞭に、そして深ませてくれたのだ。
その色川さんを、本やマスコミなどで知る優れた歴史家、思想家・評論家という遠い存在から、もっと身近に感じるようになった発端は、信州霧ヶ峰・車山の山小屋「ころぼっくる・ひゅって」の創立者、故・手塚宗求(むねやす)さんとの出会いにある。
手塚さんは「山の文人」である。山の生活に根を据え、そこからの様々な思いの断片を十数冊に及ぶ本として著した。そのどれにも、一過性の旅人の目ではなく、詩情豊かな中にずっしり重い山の生活者の困難と楽しみ、そして喜びと哀しみが滲み出ている。そんな手塚さんが、夜、ストーブの前でポツリと語る言葉や話が好きで、私はあまり他のお客が来そうもない時期や天候をわざと選んで訪れたものである。
色川さんの訃報に接したとき、記憶は「ころぼっくる」の山小屋へと向かって行ったので、先ずは手塚さんとの出会いから記したい。

霧ヶ峰・車山の肩にある「ころぼっくる・ひゅって」に初めて泊ったのは、もう半世紀も前のことになってしまった。その頃の私は、大学闘争のことや幼児からの耳の病気が重くなっての難聴・失聴などで気持ちがすさんでいた。大学も途中で数ヵ月休学し、聴力がやや快復して戻ってみたが、そこには私の居場所などなかった。そして荒ぶる気持ちのままに、谷川岳の一ノ倉沢や幽ノ沢、北穂高の瀧谷、北岳のバットレスなど岩壁への登攀に、それも多くは単独で、まるで滑落死を願うかのように挑んでいった。また何日も一人で冬山に籠ったりもした。そんな気持ちからの山への向かい方は、好きな山に対する冒瀆行為でしかないと思いながら……。でもなかなか落ちたり凍死などしないまま、私は下界に戻っても無為の日々を送っていた。
しばらくそんな状態を続けたのち、ようやく「人の中に入って行こう。生きよう」と思い始め、たまたま霧ヶ峰に向かったのだった。(そのあたりのことはこのnoteにも「画面をうずめる青い花々と霧ヶ峰のマツムシソウの群落」と題して少し書いたので読んでいただけたらと思う)。

初めは行き当たりばったりの旅の途中であった。そこに出会って見たものは、やわらかに、なだらかに、波うつように起伏の連なる草原で、淡い青紫のマツムシソウの大群落やリンドウやハンゴンソウなどが咲き乱れ、それら大地をすっぽり覆い込むような大空が、より蒼色の濃さを増して果てもないほどに広がっていた。その風景のやさしさ、大らかさ。つい何日か前まで格闘していた暗く冷たい岩の感触、見上げても三方を囲む岩峰で狭く区切られた空、それらの陰鬱で拒絶的な、そして絶望的な谷底からの景色とは、何と大きく異なることだったろう。私は、一切の思考が停止され、長いこと、ただただこの高原の中に立ち尽くしていた。

そしてゆっくり動き出したその先に小さな山小屋があり、そこへ泊ることにした(当時の山小屋は特に事前予約しなくてもよかった)。小屋には華やかに明るい女子大生4人組がいて、ストーブの前で談笑し歌い合う彼女らの中に、小屋の主人と共に私も引き込まれた。そして私は「シャロン チャベリン シャロン チャベリン」と繰り返すイスラエルの民謡だという短い美しい歌を教わり、一緒に声を出して歌ったりした。
翌日彼女らは「シャローン シャローン」と手を振りつつ山を下っていき、私は逆に彼女らが来た白樺湖へと向かい、旅を続けていった。その間、頭の中には「いつかまた会おう いつかどこかで」というシャロムの歌が何度も繰り返し鳴っていた。そしてあのランプの山小屋、その主人がなんとも懐かしく好ましく感じ、また必ず訪れようと決めていた。

早くもその年、すでに晩秋というより初冬に入りだしたある日、どうしてもあの山小屋に行きたくなり、アパートを飛び出した。中央線の電車を茅野で降り、乗ったバスの終点の強清水から車山へと上がってきたときには、辺りはすっかり深い霧に包まれた夕暮れだった。その中にぽっかりと浮かぶ暖かな灯の色を見たとき、突然「シャローム」のメロディーが心に蘇り、私の胸は異様に高鳴った。風も出だして寒いはずなのに体が妙に熱くなったのを、今でも覚えている。
小屋には客が誰もいなく、小屋の主が手紙でも書いていたように思う。入ってきた私に「食事はないよ」と言いながら少し私を見ていて「今日は山の格好してきたね」と言った。あぁ覚えていてくれたんだ、と私は嬉しくなった。前に来たときは靴も服も普段のまま。どこへ行くという当てのない旅だったから、山行きの装いなどしてなかった。小屋主も同宿となった女子大生たちもきっと内心では変な奴、とんでもない無鉄砲な奴と思っていたに相違ない。でも、それについて誰も何も言わなかった。しかしやはり小屋主には印象に残っていたのだ。この小屋に自殺志願者と思われる若者が来たこともあるという。私の様子や格好を見て、初めはその一人かと手塚さんは思ったそうだが、「女の子たちとあんなに楽しそうに歌ったりしているのだから、この人は大丈夫だ」と確信したと、後で聞かされた。

さて、その晩、どんな話からそうなったのか忘れたが、小屋の主人が「私は色川さんの文章が好きだ。文の先生の本を読むような気持で向かうこともある」と語りだした。その時まで私はこの目の前にいる山小屋のおやじさんが手塚宗求(てづかむねやす)という名であり、山の文芸月刊誌「アルプ」にいくつも寄稿しているエッセイストでもあることを知らなかった。山好きには文学的香りの豊かな「アルプ」はよく読まれていたが、その当時の私は、自分のなかにある叙情性の強さが嫌になり、あえてその傾向の本や雑誌を敬遠していた。だからアルプも読まず、山の本としてはロッククライミングの先鋭クライマーの記録やヒマラヤ、ヨーロッパアルプス、あるいは日本の岩壁登攀に関する記事以外は意識して遠ざけていたのだ。
よくこの山小屋に来る人は手塚さんの読者が多いのだが、私もその一人だと思っていたらしく、私が何も知らないとわかると、手塚さんは「どうしてここに来たの」と私をじっと見据えるような怖い目で尋ねた(いや、手塚さんはそんな怖い目をして人を見るようなことはしない。私が自分で「お前は何をしてきたか」とぐさりと心のうちを問われたような思いで、勝手にその目が恐ろしくなったのだ)。
私は初めて自分の名を言い、自分の話をした。すると手塚さんは「君のような山に死にに来るような馬鹿なやつがいて、僕はそんなのが今は嫌いなんだ。でも、もう君は抜けたね。わかります。今見ていて」と仰った。途端に私は気持ちが激して、臆面もなく泣き出し、そしてしばらく涙が止まらなかった。自分でもそれは思いもかけないことだった。

それから手塚さんは自身のことをゆっくりと語ってくれた。ザイルパートナーや知人など山に逝った人たちへの思いや遺族の悲しみなどについて、また実は手塚さんも先鋭的登山やクライマーに憧れていたが、一方で山に包まれた暮らしをしたいという気持ちも強かった、など、その話の多くはその後読んだ手塚さんの数々の本に載せられてもいたが、夜、外の木枯らしの吹きすさぶ音を伴奏にして語る手塚さんの、静かに抑えた声音は今も生き生きと蘇ってくる。あの、ほの揺らぐランプの、やわらかくあたたかい灯影も……

そうして手塚さんは、古くから交流があるという色川さんについても話してくれたのだ。でも当時私は近代史には特別の関心もなく、色川大吉という方の名前も何となく耳にしていただけだった。一時この山小屋の下の方に新たに生活の場として建てた家(手塚さんは下の小屋と呼んでいた)に、色川さんも共同して一部屋つくり、山荘の仕事部屋として使っていたことなどもその時の話に出たが、それらはずっと後になって「山をめぐる人と書物」という2000年に出された手塚さんの本の中に書かれている。

歴史学者だという人の文章をお手本に思うという手塚さんの言葉に、不思議な気がした。なぜなら、色々話を聞いているうち、尾崎喜八、串田孫一など多くの著名な詩人・作家などとも親しく交流されていて、その方々から多くの著作を贈られ読まれていることがわかり、その手塚さんが、文人ではなく学者だという人の文章をも高く評価していることに興味を持った。その旨を手塚さんに言うと、笑いながら「そうか、でも色川先生の本を読んでごらん」と言い「いや、君はそれがわかる人のような気がするよ。ぜひ読んでみて」と付け足してくれた。そして「あれあれ、もう深夜だよ。久しぶりに夜更かししたな。終わりましょう」と言って話を打ち切った。

こうして時折私は手塚さんに会いに霧ヶ峰に行くようになった。もちろん手塚さんの本、色川さんの本や手に入れることのできた論文などを読んでいった。そうして武相困民党の騒擾の場の多摩や神奈川を歩き、秩父事件への多大な関心から秩父通いが始まった。幕末や明治維新、また民衆の精神史・文化、それは金光教や天理教などの幕末創唱宗教への探求までを呼び込んで、それらへの問いを深めることが私にとっての新しい”未踏峰の岩壁“になったのだ。

色川さんのことを思うと、どうしても手塚宗求さんとの一夜のことからになってしまう。このお二人によって私の生き方、思考の転換がなされた恩人なのだ。色川さんは今年9月7日に亡くなり、手塚さんは2012年のやはり9月に亡くなられていた。
手塚さんについても語るべきことが色々あるが、色川さんの話に移りたい。しかし長くなるので次回に載せよう。今度は風の中に吹き散らかしはしない。                                                                                                                     (タイトルの上の写真は1980年代後半に私の妻が撮ったもの)


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