「家では学校の勉強はするな!」という父の思いは
小学校の何年生のときだったろうか。家で教科書を開いていると、父が怒った。
「なぜ家に帰ってまで学校の勉強をしなけりゃいけないんだ」
「宿題なんだもん」
「そんなものやらなくていい!」
少し酔っていたのであろうが目は本気だった。
気性の激しい父は子供たちにとって本当に恐ろしかった。
長男の私はいつも真っ先に叱られ、父は絶対的に君臨していた。
だから私はすぐ教科書を閉じ、父の将棋の相手をした。
父の論理は簡単だった。
学校で1日の大半を「がっこ(学校)の勉強」にあてているのだから、家に帰ったら他のことをするべきだ、というのである。
他のこととは、家の手伝いや、本を読んだり何か工作をしたり、「がっこの勉強」でない勉強をし、また家族の団欒に参加せよ、というのである。
宿題を提出しなきゃならないというのに一切耳を貸さない。
無茶といえばあまりにも一方的であるが、しかし父の「家庭方針」は絶対だった。
小学校の教師をしいていた母(そのころは茶道と華道の先生に転身していたが)はおそらく父に抗議したろうが、受け付けるような父ではない。
だから私は、学校から帰ると、父のまだ帰らぬうちに宿題を済ませ、それから遊びに出なくてはならなかった。
家に帰ったら、すぐにかばんを放り投げて、友達が待つ外に出て行きたかったのに・・・。
以来1度も父のいるときは教科書を絶対に開かなかった。
中学も3年になって、高校受験の勉強をみんながやりだし始めると、さすがに私は心配になって、家でも1時間だけ勉強していいかと父に聞いた。
父は私をじっと見据え、こう言った。
「家でもやらなければならないほどお前は頭が悪いのか。そんなやつは学校の勉強には向いてないのだから、上の学校に行かなくていい!」
このものすごい頑固親父は最期まで自分のスタイルを崩さず、その独自の「家庭方針」のもとに、家族を愛し、仕事を大切にして死んでいった。仕事とは、大工であり時には数奇屋造りという伝統の建築様式の図面引き(設計家)でもあった。その職人気質の「学校の」勉強に対する考えを要約すると次のようになる。
学校の勉強は大切である。だから一所懸命先生の話を聴いて、その場で全部しっかり覚えてこい。気合を込めて授業に臨めば必ずできる。あとで復習して覚えようなどと決して思うな。
したがって宿題などというものをクラスの全員に課するのはよくない。家に帰ってまで学校で習ったことを練習していいのは、どうしても覚えられない者だけだ。そういう人は学校の勉強が合ってないのだから、高校や大学などへいかないで、自分に合った仕事を見つけてその方の勉強にしっかり打ち込むべきだ。
家では学校以外の勉強をせよ。特に本を読め。そして好きなことを見つけてそれをやれ。結局それがお前たちの生涯の勉強だ。
家というのは家族みんなで楽しむものだ。だから家族の団欒には全員揃って参加しなければいけない、などなど・・・・・。
父にはすべてが真剣勝負だったのだ。
明治の終わりごろ山形県の山奥に生まれた父は、貧困から学校には小学校2年までしか行けなかったという。そして様々な仕事につきながら懸命に多くの漢字や言葉を覚え、本を読み、ついに数寄屋建築の技術やその研究が他に認められるまでに至った。
だから「学問くらい大切なものはない」し「教え導いてくれる本や師匠は実にありがたい。感謝の気持ちを忘れるな」とよく口にする。
それだけに、『学校の勉強』をするなら先生の話すことすべてに神経を集中させ、全部覚えて来い、と言うのだ。授業の場は、先生と生徒の真剣勝負だ、ということなのだ。
そんな父に、高校3年になる春、大学へ行きたいと恐る恐る言ってみた。すると「そうか、やっぱりな。不器用なお前には学問が合ってる。それしか使いようがない奴だから」。
そしてようやく家の手伝いなどを終えた後に受験のための勉強が許された。
このあまりにも世離れした父の学習や家庭のあり方への考えは、今思うと、根底にとても大事なものを含んでいる。古く、また子どもへの一方的な押し付けという側面はあるにしても、学ぶということへの心構え、家庭の団欒ということの大切さなど、改めて考えさせられる。実情に合うとか合わないとかの問題ではなく、原理的に失ってはならないものなのだ。
このごろの世相を思い、我が家をも思い、ますますそのことが大切に思えてならない。
(下の写真は父が手慰みに作った茶杓)
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