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なんで悩んでしまうんだろう

安宅和人さんの「イシューからはじめよ」

何回も読んできたが、私がVoicyでリスナー登録しているプロダクトマネージャーのshinさんが紹介していたので、あらためて読み返している。

その中で、よく比較されるテーマではあるが、「悩む」と「考える」の違いについて触れられていた。

「悩む」というのは「答えが出ない」という前提に立っており、いくらやっても徒労感しか残らない行為だ。僕はパーソナルな問題、つまり恋人や家族や友人といった「もはや答えが出る・出ないというよりも、向かい合い続けること自体に価値がある」という類の問題を別にすれば、悩むことには一切意味がないと思っている。

「イシューからはじめよ」安宅和人

私の中では「悩む」というのは、同じところでグルグルと考え続け、前進しない状態だと定義していたが、答えを出す意思はある状態だと思っていた。安宅和人さんの定義では「答えが出ない」という前提に立っているという定義をしているが、確かに悩んでいる時というのは、半分くらい「答えが出ない」と思っているケースはあるかもしれないなと思う。
(でもがんばって答えを出そうと思っているけどグルグル回っている時もあるから、この定義に完全にしっくりきているわけではないが)

では、私たちはなんでこんなに悩んでしまうのだろうか。
私が思うに、悩む時というのは解決に向けて考えるための枠組みか情報が足りていない時である。

考えるための枠組みが足りていない

これはつまり、何を考えればいいかわからないという状態だ。思考停止や混乱に極めて近い状態だろう。たとえばゴルフをやったことがない人が、どのドライバーがいいかを選ばないといけない時に、比べる観点として何があるのかがわからなければ悩んでしまうだろう。(あるいは悩むこともせずにデザインだけでエイヤと買ってしまうかもしれない)

考えるための情報が足りない

枠組みは分かっていたとしても、そこに入れる情報がないという状態だ。たとえば、不動産を買う時に、ローンを変動金利にするべきか固定金利にするべきかは、将来的に金利が上がるかどうかという情報や他の人がどちらを選んでいるのかという情報がなければ、ただ悩むだけだろう。(ただこの時も私は少し悩んでエイヤで決めてしまうだろう。私は勢いに任せて重要な判断をしがちらしい。。)


こう考えると、枠組みの豊富さと情報収集能力が高い人は、あまり悩むことはないのではないかと思う。ただプライベートな意思決定には感情的な要素も多いので、「客観的に判断すれぼこっちなのだがなんかイヤ!」みたいなことがよく起こるので、やっぱり悩みは尽きないのである。

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