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見送る背中から、見据えた道

人生は、出会いと別れの連続だ。

そんな言葉をきいたとき、はじめましてだけでいいのになって感じた。
さよならの別れが、物理的なキョリだったり、ココロのはなれることを意味するのならなおのこと。そのキョリに感じる寂しさを知っているから。

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ここ数年、見送る側にたっている。
仲間として、友人として。

見送るまえと見送ったあとで、会うことが叶う人もいる。どちらも知っているからこそ、よりはっきりとする変化。

次に向かっていこうとする姿も、次の場所で懸命な姿も。おどろくくらい、格好いい。

新しいことをするのって、勇気がいる。いつもを変えていくのだもの。楽しみなことだってあるけれど。慣れないことだって、ややこしいなってことだってある。心も身体にも、大きなパワーが必要になる。

見送られる側のひとが、自分のことでいっぱいいっぱいで申し訳ないって聞くこともある。それは、そうだよ。誰だって、今まで少なからず経験しているもの。

だからこそ、その姿は、やっぱり格好よくうつるんだろうな。

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見送る側にたって、寂しさをたくさん感じた。
がんばってねって背中をおしたいのに、引き止めたくなっちゃう。

わたしの場合は、見送られる側にたっても寂しさを感じてしまいそうだけど。いや、ちがうな。見送られる側の人が寂しさを感じていないわけはなくて。期待だけじゃなく、不安なこともたくさんあるはず。

だから、寂しさはお互いさまだよね。
そうだったら、いいな。

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それにね、見送りつづけている中で、見送った人たちからは寂しさだけじゃなかった。同時に、もらったものもあったんだ。

見送る背中をみて、問いかけていた。
見送る人のちょっと遠くを見ているような眼差し、期待と不安のいりまじる雰囲気から、自然とうまれてきた問いかけ。

その問いかけは、いつもは日々の生活のなかで流されてしまいがちだけど、ココロの奥底でずっと聞きたかった言葉だ。

わたしは、どうしたい?

その背中を、眼差しを、雰囲気を、変化を。
わたしはどう感じている?

寂しさのなかに隠れていた感情こそ、本心だった。

その問いかけのおかげで、わたし自身もつぎを見据えられたんだ。未来という漠然としたものを、自分の歩んでいく道として。

***

人生は、出会いと別れの連続だ。

その言葉にうなづけるようになったのは、出会ってきた人のおかげだ。出会っただけじゃなくて、次を見据えて前に進もうとして、見送られる側になってくれたからだ。見送る側にたたせてくれた人のおかげ。

だからね、見送られる人もそのソワソワした感じのままでいてほしい。だって、それは見送る側のきっかけになるのだから。

こう考えると、やっぱり出会いって素敵。

手向けの花には、この言葉を添えるね。
ありがとう。

いつも読んでくださり、ありがとうございます♡