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11/9 かてぃんラボより「なぜ音楽に感動するのか」について考えてみた


昨日11/9のかてぃんラボ、テーマは「音楽と数学」だったのだが、話はもう少し哲学的な方へ。


そこでかてぃん氏から問われた「なぜ音楽を美しいと思うか、なぜ音楽に感動するのか?」について。
即答できない大きな課題だったので、ラボ直後から今朝にかけて色々思い浮かんだことを書き出してみた。


まず、私の中で音楽に感じる美しさと感動にはいくつか種類がある。

「数学的」を感じる音楽の美とそこに感じる感動

一概に「数学的」と言っても、現代音楽におけるそれとバロック音楽におけるそれは私の中では捉え方が異なる。

例えば、私は学生時代にスティーブ・ライヒのSix Marimbasの生演奏を聴いてものすごく感動し、異様に好きになった。

ミニマルフレーズの繰り返しは数学的にピシッとハマった美しさに思える。
曖昧さやムダを削ぎ落とした無機質の美。
直線的で洗練されたモダン建築の美を目にした時の気持ち良さに近い。

それこそルーパーのような機材やPCを使えば簡単に演奏できるだろうし、機械に演奏させてもグルーヴは生まれると思うのだが、それにも関わらず、この曲が人力でパフォーマンスされた時の感動というのがある。僅かに狂えばなし崩し的に全て壊れるだろう危険をはらんでいることが容易に想像できるから。
その凄まじい集中力と、無事演奏し終えた時の達成感(?)のようなものは聞いてて感動に値する。
でもこの感動は演奏者への情に付随するもので、音楽そのものに感動してるのとは別の話かもしれない。

いずれにしても、この曲のパフォーマンスから感じるのは、流れるプールで生まれる渦のようなパワーに煽動されるような高揚感で、心が震えるという意味では感動しているのだが、ショパンを聴いた時の感動とは全く種類が異なる。


これに比べると、バロック音楽は数学的とは言っても、もう少し有機的というか、感情・情緒が伴うように感じている(あくまで個人的感覚だが)。

例えば、イスラム建築で見られるモザイクタイル装飾や、仏教の曼荼羅などもものすごい緻密な幾何学模様で、これこそまさに数学的な美しさではないかと思うのだが、神へ捧げるという意図のもと、人の念のようなものがそこには介在しているように思う。
バロック音楽もそれに近い気がしていて、そういう意味で、計算された緻密な美しさの中にも有機的なものを感じている。

私がバッハを聴いて感動する時は、歴史的宗教建築物の中に入った時の感動に近い。言葉にするのが難しいが、なにか天界に通じるものを感じられる瞬間があるというか。。
だから数学的とは言っても、これは先のライヒの曲を聴いた時とは違う感動だし、これまたショパンを聴いた時とも違う。


書かれた曲そのものに感動を呼ぶ要素がある音楽

私の好きなベートーヴェン、ブラームス、ショパンは書かれたものそのものがすでに感情的、情緒的で美しいと思っている。
乱暴な言い方をすれば、ある意味演奏者が誰であっても、ある程度の感動が得られるだけ曲そのものに人を感動させる何かがあると思っている。
ただそれ故に、多くの人々がそれらに惚れ込み、研究し尽くし、演奏し尽くし、今もまだ現在進行形だ。
星の数ほどある過去の演奏や現代の演奏の中から自分にピッタリと合う演奏を探すのが非常に困難だから、まず自分が「この人の演奏が好き!」というのに出会える事自体が素晴らしい感動であるし、この場合はその人の演奏こそが自分にとってのその曲の美ともなり得る。


即興などで偶発的に出会う感動

ジャズの即興演奏などで、何が出てくるかわからない中で、そう来たか!と偶発的に出会う、気持ちの良いショックも感動だ。
意表をつかれているのにも関わらず、自分の中のセンサーに引っかかって、これまで自分でも知らなかった新たな発見がある感覚。
あるいは、即興が予想以上にものすごいグルーヴを生んで、なにか「神懸かってたよね」って感じるようなモノが発生した時とか。
(書で例えると、思わぬ良い"かすれ"が出たとか、"にじみ"が出たとか、墨の飛沫の飛び具合が絶妙だったとかそういうやつ。それらのために何枚も何枚も書いたりするので、これだ!ってものが出た瞬間に感動する。)


自分の思い描く理想の音色が聴けた時の感動

どこまでもピュアな音に心震わされる瞬間ってのもあって、鳥肌立つような感動がある。(←ピュアの定義が曖昧だし人それぞれの感覚によるものが大きいけど)


人柄の滲み出る音への感動

例えば、全く楽器ができない人がある曲に強烈に恋に落ちて、その曲だけでもどうしても弾けるようになりたい!とひたむきに頑張って、弾けるようになった…、みたいな人の演奏。
応援したくなる気持ちにさせられるのも一理あるが、秀でた技術がないからこそ如実に人柄が現れる音に感動させられる。
私は小さい頃から「個性がない」と言われ続けて悩み続けたので、そうした演奏者の訥々とした、でもとてつもなく人柄が滲みでるような音に嫉妬すら感じることもあった。


大規模ロックコンサートで得る感動

アリーナやドームクラスの会場で体感するライブでのうねりと一体化する感動はもはやエクスタシーに近い。
これは音楽だけの力ではなく、光の演出、大きなセットなども全て込みの効果であるには違いないが。
私的にはこれが一番宗教的だと思っている。
ただ、アーティストに心酔して崇拝するみたいな感覚で音楽を聴いたのは2〜30代までだった気がする。
特に若い頃の私は、怒りのパワーが生きる原動力みたいになっていたから、共鳴できる音楽のある場所で心の鬱憤や怒りを全て発散し、自分まで強くなったような気持ちにさせてもらってていた感じだったし、大きなセットと最先端技術を使った演出はまさに夢の国へと現実逃避させてくれた。
いつからかそういう風に音楽を聴くことはなくなったのは、自分の中の根本的な問題解決に繋がらないことがわかったからかも。
でも思春期のめちゃくちゃ辛い時期を乗り越えられたのは、間違いなく当時愛したバンド(私の場合はラルクでした)のおかげで、崇拝、依存…そんな感じに近かったと思う。


少し話が逸れるけど、
かてぃんさんは演奏していく上で、科学的根拠に頼りがちだと言っていた。自分の中の説得力が欲しいから、表現する上での拠り所になっている…と。
これはめちゃくちゃわかる。。
自分の感覚だけに頼るのはとても怖いから、できる限りの知識を身につけて、自信に変えて発信していく…すごくわかるし、必要なことだとも思う。特にすでに有名だったり地位のある人の場合は、迂闊なことができないと思うし。
でも、いずれはそこから離れて、自分の感覚のみを信じて行くのも悪くないんじゃないかな…と私は思ってて。
というのは、根拠のあるもの、理論で証明されるようなことは、それこそAIに取って変わられるものになって行くかもしれないと思うんで、そういうのが届かない、その人の内側に蠢いているもの…それこそが何にも邪魔されずに唯一無二になり得る、アートになるんじゃないかと思ったりもするんで。。(単純に私がそういう部分に興味があるってのも大きいけど…笑)


色々な種類の感動の根底に繋がるものはあるのか

上記の通り、私の中で音楽に抱く感動にはいろいろな種類がある。
でもきっと根底には何か共通しているものがあるのかもしれない。(ある程度のリスクを背負っているのが感じられると感動を呼ぶ、というのは一理ありそうな気がする。)

結局は自分の波長と合うものを引き寄せて共鳴しているんだと思う(合わないものはそもそも入ってこない)から、多かれ少なかれどの要素も自分の中にあるものなんだと思う。


音楽になぜ感動するか…?
の答えになってないかもしれないけど。。。




考えるきっかけをありがとう…

それにしても、、
有料会員向けだからとはいえ、普通なら敬遠しがちだろう話題を、こちらを信用して投げかけてくれるかてぃんさんが心底大好きだ…と思うし、こちらに考えるきっかけを与えてくれるのもすごく嬉しい。
友達や知人とここまでの話なかなかしないから…。

それに、言語化することで自分でも知らなかった自分自身が出てきたりするし、かてぃんさんの数学的思考に少し触れることで、私一人だとふわふわと宙に浮いてる曖昧な何かの輪郭を少しはっきりさせることができて、"今此処"に引き戻し、留まらせてくれる感じがする。
ありがたい、大切な存在です、本当に。。

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