第51回「あるいは、恋について」

あけましておめでとうございます。

昨年の元旦、あけおめ、と言ってくれる友人などに対し、おつかれさまです。と返しまくっていたら非常に不評というか、反感を買いました。

今年はというと、年末年始大コロナで病床にありました。これが祟りということなんでしょうか。
自室に隔離されていたので、紅白も、ゆく年くる年も、年始のお笑い番組もなにも見れていません。ラヴィット!と河野太郎さんの切り抜きを見て年を越しました。

そして始まる、ニーマルニーサン、良い年になりますよう。

第51回、新年一発目。今年も目指せ、50本。

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曲先、詞先、とは音楽を作るときの言葉です。曲が先にあって、歌詞を合わせていくか、詞からインスピレーションを得て曲を作っていくか。

タイトルが先にあるか、内容が先にあるか。題先、話先、とでも言いましょうか。
第50回、そして今回は特に、タイトルが先に思い浮かびました。

『鎌倉殿の13人』で和歌、短歌に興味を持ったことで、派生して詩などにも触れるようになり、より言葉一つ一つにフォーカスした視点を持つようになったこの頃。ニュアンスやイメージを、明確かつ正確に伝える必要はないのだと、どこか救われた気がしました。

そこで、感情を言葉にすることの意味、意義を見つけました。

要するに、そもそも不明瞭なものだから、それを言葉にすることで形を得る。あるいは、不明瞭だからこそ、確固たる言葉で伝えなくとも成り立つ。

大学卒業を控え、己を振り返る日々です。
入学時の私は、何を思っていたか。その時の私が、今の私を見たらどう思うか。

才能というものを信じていました。それは賭けのような、神頼み的な無責任さと、だからこそ免罪符としての側面を有しています。あるかどうかわからない。まして数字で測れない。だからあると思えば、あるし。都合の悪い時はないことにすればいい。

しかし今、才能はあると確信しています。それが天から与えられた先天性のものなのか、あるいは生活の中で培われた力なのかは関係ありません。生まれたときの境遇は、それこそ天から与えられる最初で最後のものです。

才能とは、特定のゴールまでにかかる歩幅のことである。
いつかのnoteでも言ったと思います。それが私の結論でした。

私は、自分の才能に恋をしているのかもしれません。秘する、自覚もできていない力。眠っているのだと、根拠もなく。
自分の都合よく解釈をし、メンタルを前向きに保つのは、恋愛における片思いのメンタリティと近いと考えています。

これからの自分、これまでの自分。それを考えて、沸き上がる感情はひどくぼんやりとした、不鮮明なものでした。

ただ、私の視線の先、目指す理想像は、他人ではなく、自分でした。
これはおそらく、私が他人との違いを強く感じるからこそ。リスペクトもあれど、同時に疎外感や違う人間であるという感覚もある。だから他人にはなれない。目指す理想像には成りえない。私は彼に、彼女のように、なれない。

理想の自分がどんなものかすら、明確ではないけれど。だからこそ言葉にできる。要するに才能のある、自分であると。
できない自分は、まだ才能が目覚めていないだけだと。

そんなことを、盲目的に信じ続けられるほど私は純粋ではありません。
だからこそこうして言葉にして、記録として残しておく。
形にする。

これは私のためのアンカーであって。
あるいは、恋についての日記です。

…第51回 了

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えらくブログ的かつ、詩的な感じになってしまったように思えます。
書き方が変わりました。いいのか悪いのかはわかりませんが、以前より滑らかに自分の頭のなかを文字に流し込めています。

ダメですね、これ。冷静さを欠くな。

ちなみに明日のGⅢ2戦は、どちらもテイエムに賭けます。
テイエムサウスダン、テイエムスパーダ。

それ以外だとしたら、レディバグ、レモンポップ。ナムラクレア、ウインマーベルですね。

申し訳程度の競馬要素で、申し訳ありません。

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