小説『深海とシュノーケルの猫』

この小説は文学フリマ東京35に出展した閉鎖工房の合同誌、『困格』から筆者の作品だけ抜き出したものです。

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 私の居場所は都会から離れた小さな漁村にあった。夕波村。そこには疎らではあるけれど家が数件並んでいて、その中の縄文時代のくすんだ青銅器みたいな屋根の色をしている私の家や村の人が朝から働いている漁港があった。この漁港は歪んだランドルト環のように入り組んでいて、遠くの波の上下がわずかな揺らぎを生み出してコンクリートの下の空洞を打つ小さな音がかろうじて聞こえるだけの静寂に包まれている。朝には漁船のエンジンの音が響き渡っているけれど、昼下がりにはのんびりとしている村の人々によく会った。その静けさのように村の人々は穏やかで優しい人ばかりだった。
 私が通う高校の生徒の半分は原動機付自転車で通学するような人が多かった。けれども私は家が近かったので、毎日坂道を上るという苦労はあったけれど自転車に乗って通学した。丘の上にある高校から坂道をゆっくりと降りてくるときに感じる潮風が心地よかった。
 漁港では猫が飼われている。三毛猫のみけ、と呼ばれていた。誰かが飼っているわけではなかったけれど、人懐っこく賢い猫だ。首筋にはくすんだ赤色の首輪がつけられていた。それには小さなリボンの飾りがあり、金色にメッキされた金具が取り付けられていた。そのため誰かが飼っている迷い猫なのか? とよく祖父は言っていたけれど、私たちの村にも、隣の村にも三毛猫を飼っているという人はなかった。
 みけが漁港に現れるようになったとき、隣村のしらすという猫がいなくなっていて『知らないか』とおじいさんがやってきていたこともあった。また、その村に住んでいる有紀にそっちで見てない? と聞かれた。けれどもスマートフォンで撮影したみけの姿を見て別人だ、と言っていた。私はしらすのことを知らないけれど、窯でゆでたしらすみたいな色をしていると有紀は言っていた。お互い、自分の家で生き物を飼ったことはなかったので、独り立ちしたら猫を飼うんだー、とよく話をしていた。
 高校が終わった後の時間に漁港にある小さな料理店の人からもらったおやつをみけがおいしそうに食べているのを眺めているのが好きだった。そのために、高校から村に降りてくる坂道を少し急いで帰っていった。
「今日も元気に食べてるね」
 とみけに言うとすこし毛づくろいをしてお店の前でぼんやりとしているようだった。

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 私は高校二年生に進級した。都会の高校ほど人がいるわけではないけれど、一学年四十何名いるのでクラス分けが行われた。『今年も有紀と同じクラスだね』、とお互いに喜んでいた。高校二年になれば、進路指導も行われる。おばあちゃんがやっている農業を受け継ぐために農業大学に進学する、とか都会の大学で本に関する授業を受けてみたいという気持ちもあったが、現時点では決めることができなかった。
 四月の最後の週になってだんだんと暖かくなってくるころには高校二年生として受けなければならない授業を何個も受けて少し帰りが遅くなっていた。そういうとき、みけは決まって漁港の一番沖に飛び出した堤防の上に寝ていた。
 私が近づいていくとみけは起き上がって私のほうに歩いてきた。コンクリートの上に乗っている砂を軽く払って私が座るとみけも近くに丸くなったあとに優しく撫でると気持ちよさそうにしていた。
 人間以外は人間の話す言葉の意味までは理解することはできないけれど、みけに自分の悩んでいることを打ち明けると、なんとなく心が落ち着くような気がした。今日も、これからどうやって大人になっていくのか、ということをみけに話した。みけは寝ることなく、けれどもたまに眠そうにあくびをして私の話を聞いていた。
「じゃあ、今日もありがとうね」
 とその場を立ち去ろうとすると、後ろから私のことを追い抜いて先に漁船が停泊しているほうに戻っていった。

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 そして五月になった。『五月の最初の連休は熱くなるでしょう』とニュースの気象予報士が解説していた。今日はいい天気になりそうって有紀に連絡する。今日は二人で買い物に出かける予定だった。髪を整え、服を選んで居間に出ると、母親にみけが亡くなったという事を告げられた。
 母が言うには、みけは昨日まではおやつをおいしそうに食べていたという。夕方、いつもなら堤防からゆっくり歩いて水揚げ場に戻ってくるみけが帰ってこないことを不審に思った人が堤防まで歩いていくと、静かに眠るように息を引き取っていたのだという。
 私は非常に悲しい気持ちになったけれど、有紀との約束を無碍にすることができなかったのでそのことを黙ってその日は一日を過ごした。その日が終わってしまえば、しばらくは有紀に会うことはなかったから、せめてその日は楽しそうにしていなきゃ、と思った。
 その翌日にはみけの遺体はある村の住人がもっている土地に埋葬され、村のみんなが手を合わせにその土地に出向いた。住民の誰かが裏山の大きな石を持ってきて、そこに亡くなった日とみけの名前を彫っていた。私もまた、とても気分が落ち込んでいたが、最後まで苦しむ様子もなく静かに亡くなっていた、ということが救いになっていた。

 連休が明けて、学校に行くと有紀は「またしらすがいなくなったの。そっちのほうで見てない?」と聞いてきた。私は「見てないなぁ。しらすってどんな子なの?」と返事をした。そうするとスマートフォンの画面に写っているしらすの写真を見せてくれた。
 しらすもまたどこにでも普通にいそうな猫だった。みけと違っているのはこちらはしっかりと飼い主がいることで、首元にはみけの首輪と似ているけれど少し違う首輪がつけられている。いわゆる『さばとら』猫だった。
「見たことないなぁ。でも、見かけたら連絡するね」
 と私は返事して予鈴のチャイムが鳴った。
 六日ぶりに村に降りる坂道を下ってみると、初夏の陽気に照らされた木が笑っているように聞こえ、静かではあるけれど心地よい音楽が流れているような気がした。小さな料理店の前をいつも通り通ろうとすると、そこの女将さんが店の軒の下で何やら困ったようにしゃがんでいた。
「どうしたんですか?」
「それがね、この子がなんだか迷ったようでうちの前で座っていたの」
 その目線の先を追うと『さばとら』の猫が一匹座っていた。
「そうなんですか」
 どこにでもいそうなその猫は先ほど見た『さばとら』のしらすによく似ていて、首元にも赤色の首輪をつけていた。
「友達が探している猫にちょっと似ているので連絡してみますね」
「お願いねぇ」、と女将さんが言うのを見て、連絡先から有紀の名前を探して電話をかける。
「もしもし? 有紀?」
『もしもし、どうしたの?』
「しらすって見つかった? 私のところにさっき見た猫と似てる猫がいてもしかして、と思ったんだけど」
『ああ、しらすね。さっきおばあちゃんのところに行ったら見つかったって。その猫も迷子かな? そっちでは誰か猫飼ってる人いないの?』
「うちのほうは誰も飼ってないんだ」
『じゃあ、また違うところから来た猫なのかもしれないね。私のほうもしらすのおばあちゃんのほかには誰も飼ってないの』
「そうなんだ、わかった。ありがとう。聞きたかったのはそれだけ」
『力になれなくてごめんね』
「気にしないで。また明日学校で」
 電話を切るとその猫を撫でている女将さんが「どうだった?」と訊いたので私は首を横に振った。

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 最初にみけがこの村にやってきたのはこんな感じだった。みけは最初どこからか現れて、いつの間にか漁港のみんなに親しくしていた。叔父から紹介されたときにはすでに人に慣れていたようでひっかかれることもなく撫でることができたことを思い出した。

 港の先の堤防に座って本を読む。外洋から小さく波の音が聞こえてくるここをお気に入りの場所にしていたみけの気持ちもわかるような気持ちになった。
 いつか、猫は死ぬときに人から離れていくという話を聞いたことがある。その行動はまわりの人たちを悲しませないためだったのかもしれない。それは獣医学的に矛盾しているのだと、偉い先生は言っていたけれど、そういう『気遣い』を信じなければなんとなく、寂しい気持ちになりそうだった。猫に人間の言葉が通じないのと同じように、人間には猫のコミュニケーションを問題なく理解する能力はないから、みけが私になにを感じてくれていたのか、それは最後まで分からないままだった。
 その時、遠くからコンクリートと爪が当たる音が徐々に近づいてくるのがわかった。先ほど女将さんのところにいた『さばとら』の猫だった。その猫は私の目の前を通り過ぎて、海から上がるために設置された階段の近くで海の中を見ているようだった。
「そこは危ないよー」と私は言う。けれども、『さばとら』の猫は堤防から飛び出して海に飛び込んでいくようだった。
「危ない!」
 私は本を置いて猫を追い、海に落ちた。五月のまだ冷たい海が顔にあたって、静かな村の中で水面が揺れるように静かに音が響いたような気がした。

 気が付くと、私は海の中へ続いている階段の途中の段に座っていた。何かが可笑しいと思って、上を見るとガラスのような水面が見えた。
「もしかして、海の中?」
 私は焦って両手両足を使って上の水面を目指そうとした。けれども、手も空を描き、脚も今立っている地面から離れることはなかった。不思議なことはそれだけではなかった。呼吸ができる。海の匂いが少しする空気を吸い込んでも苦しい感じは全くしない。
「どうしよう、怒られちゃうかな」
 どこからか声が聞こえる。周りを見渡してみても、人の姿はない。私の後ろには階段が見え、前には子供が遊ぶおもちゃのような大きさの小さな小屋があった。でも、靴になにかが当たる感覚があったので下を見ると、先ほど海に飛び込んだ『さばとら』の猫がうろちょろしていた。
「あれ?」
『さばとら』の猫はこちらに気づいたようで目線が合った。
「ごめんなさい! あなたを巻き込んでしまったみたいで」
 声の主は『さばとら』の猫だった。私は思わず意表を突かれてしまった。目線が低くなって、その猫に近い目線になる。さっきまでは全く気付いていなかったけれど、その猫もみけと同じ飾りの首輪をつけていた。驚いて何も言えずにいると、階段の下のほうから違う声が聞こえてくるようだった。「騒がしいですね、どうしたんですか?」
 ゆっくりと階段を上がる音が聞こえてきて、姿を見せたのはみけだった。赤いリボンがつけられた首輪をしているし、三毛猫で、その柄も記憶にあるみけそのものだった。その猫と目線が合う。
「やっぱり、私の知っている人間さんですね」
『さばとら』の猫に続いてみけまで言葉を発してきたので私はさらに混乱した。
「まあ、まず私が人間さんの言葉を使っているのもおかしな話ですね。驚かせてすみません。その説明は後ほどさせていただきます」
 みけは小さくため息をついたように見えた。普通の猫から感じるようなことではなく、人間のような振舞い方をして、ますます混乱していく。
「それにしても、この方のような生きている人間さんが入ることは普通出来ないはずなんですが」
「それなんですけど、隊長」
『さばとら』の猫はこうなった経緯を説明した。説明するのがそれほど上手ではなく、そもそも人間の言葉に慣れていないようだった。それに対してみけが質問をして、何が起こったのかを順番に確認していった。混乱している私もそれを頼りに思考の整理を試みた。
 それを簡略にまとめるとこんな感じだった。

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・『さばとら』の猫はみけの代わりに『外』に『任務』を遂行しにいった(この場合の『外』は現実の夕波村のことだと思う)。
・それが終わってから、足早に『うち』に帰ろうとしていた(この猫が住んでいる『家』のことを言っているのか、この世界そのものを『内』と言っているのかはわからなかった)。
・そのとき助けようと私がして、一緒に海に落ちた。
・海に落ちたときに、本来なら生きた人間が通れないはずの、海につながるトンネルのようなものを私が通ってしまったということ(みけが言ったことを信じるのならば生きた人間はそのトンネルを通り抜けることはできない)。

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 それを聞き終わったみけはその猫に「いわしさん、ここに『戻る』時は人がいなくなった時だって何回も説明したじゃないですか。それに、周りをよく見渡さないと危ない目に遭うって確認したじゃないですか。それで、私が与えた課題はちゃんとこなしてきたんですよね」
「それはもちろん、そうです。『外』に出てしばらく歩いたところにある料理店の女の人に交流を図ることはできました」
「それならいいですが」
 みけは言葉を詰まらせて、こちらを見た。
「それでは、この方は私のほうで何とかしておくので、あなたは早く始末書を書いてください。それが終わったら帰っていいですよ。始末書はいつものところにあるので書き終わったら私の机の上に置いておいてください」
「はい、ごめんなさい。隊長」
 そう言って、いわしさんは帰っていった。

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 なんとか、呼吸が落ち着いてくると、私がいるこの空間が普通とは異なっていることを飲み込むことができた。その様子を見たのか、みけは小さな小屋の前まで私に手招きした。それに従って、私は小屋まで歩いた。
 小屋の中はとても簡素な作りになっていた。外見からは想像できないほど中は広かった。まるで、私が小屋に入った途端人間サイズの小屋にまで膨らんだような感じだった。
 壁側には人間用には見えない机と椅子が並んでいる。部屋の真ん中にはその机より広い机が置かれ、何枚かの書類と筆記用具らしいものが置かれていた。壁にはシュノーケルにある空気の管とそれ専用のゴーグルが二つ置かれていた。『ミケ』と名前が入ったものと『イワシ』と名前が入ったものだった。よく見ると、『ミケ』と名前が入っているほうは年季の入ったもののようだった。
 みけは椅子に座った。目の前の机にはみけが生きていたときに着けていた、ボロボロの首輪に似たものが置かれていた。
「まず、ごめんなさい。貴女をここに導いてしまって。でもありがとうございました。貴女と、皆さんにお世話になったことは今でも忘れません」
「それなら良かった。でも、なんでみけがそんなことになっているの?」
 みけは尻尾を何度か振ってなにか考えているようだった。
「もう貴女にこの世界や私のことを誤魔化すのは難しそうなので、ある程度説明しておこうと思います」
 一拍開く。「私はこの世界の、『深海』と呼ばれる世界の王立団で働いています。正式な名前は長いので、貴女の呼びやすいように私のことを呼んでください」
 王立団、ということは王様がいるんだ、となんとなく理解してしまう自分がいる。
「じゃあ、みけ、って呼ばせてもらうね」
「わかりました。『深海』に住むものたちにもそう呼ばれているのでありがたいです」
 私の不思議に笑っているであろう表情をみけは小さく微笑んだ、そういう風に感じられた。
「『深海』の街は夕波村の西三キロメートルほど離れた場所にあります。夕波村の沖は西側に流れている潮の流れがあります。その潮の流れが外洋の流れに繋がりますが、合流しなかった西への流れはやがて西の果てにたどり着きます。そこは、潮も、時の流れも、すべて停滞しています。そこに王様が街を作ったのが始まりです」
 みけは上を見上げる。私もつられて上を見る。先ほどと変わらず、海面を覗き込んでいる私がいるだけだった。
「停滞している、と言っても貴女が現世で感じる一瞬よりさらに短い時間の間にこちらでは『普通』のように時間が流れています。つまり、貴女も私も瞬間の間にいて、そこからでは現世は止まっているように見えるのです」
 こんこん、とドアをノックする音が聞こえる。扉を開けて入ってきた猫はみけに手紙を手渡していた。とても器用な猫だ、と余計な考えばかりが回っている。
「ですが、停滞しているからこそ、現世からだんだんと引きはがされてしまいます。そこで、私やしらすが現世に赴くことで『深海』と現世を繋いでいるのです。そうでもしなければ流されて取り返しのつかないことになりますからね」
 手紙を読み終わったみけは二つ折りの紙を丁寧にたたみ小さな机の上に置いた。
「今、王立団の団長からこのことを報告するよう、伝令が届きました。貴女も来てほしいと指令が来ています。お手数ですが来ていただけますか?」
 みけが立ち上がる。私はその背中を追った。外に出てみると、やはり小屋は小さかった。なめらかな石を切り出してつくったのだろうブロックを積み重ねて作っているようで、触れるとひんやりとしていた。
「それでは、ここから少し歩きます」
 踊り場から先に続いている階段をみけの背中を追って下っていく。その途中頭上に浮いている空のような海面を見ていると、だんだんと夜の空のような深い青色とは違う暗闇に引き込まれていくようだった。けれども、階段には小さく火が揺らぐランプが置かれている。その周りには小さい巻貝のような白い斑点が見えたけれど、これはどうやらカスミソウのようだった。どうしてこんなところに咲いているんだろう、と考えた。
 だんだんと、脚が地面に引っ張られるような感覚があった。靴底のクッションはもうとっくに固く、冷たくなっている。みけはテンポよく先に進んでいたけれど、私が足を止めるとすぐに振り返って、こちらを待っているようだった。
「そろそろ休憩にしましょうか」
 そうみけは言った。
「みけは、私たちの、夕波村のみんなのことをどんなふうに感じていたの?」
「皆さん、優しい方々でした。私に居場所と食事を与えてくれ、何より村の一員として扱っていただけたのが本当に嬉しかったです」
「そうなんだ。みんな、みけのことが好きだったんだよ」
「そう言われると、ちょっと恥ずかしいですね。何も言わないまま、夕波村を去ってしまったことを今でも悔やんでいます。でも、猫である私が現世でできることは簡単なコミュニケーションだけです」
「今はこうして上手に話すことができているのに?」
 お互い、小さく笑った。
「そうですね。不思議なものです。こうして、貴女にまた会えたことも」
 涼しい風がぼんやりと流れている。階段のすぐそばに並んでいるカスミソウが小さく揺れるのを二人で見ていると、またみけは話し始めた。
 「私は貴女たち人間の皆さんの好意をいいように利用していました。それに罪悪感を覚えたとき、私の地上での寿命がやってきました。『深海』の止まった時間の流れに慣れてしまった私はもっと長い時間生きることができるんじゃないか、って思っていました。でも、本来猫は貴女のような人間の皆さんと比較すれば非常に短い時間の間でしか生きることができません。だから、それを皆さんに謝罪することも、感謝を伝えることもできずに私は深海に戻ってきてしまいました。」
「こんなこと言うのは酷いかもしれないけど」
 なんとなく、言うのにいったん躊躇する。
「多分、みんなそんなこと気にしないと思うよ。夕波村に来るのがみけの仕事だったわけじゃなかったと思うよ。みんなに優しく、撫でさせてくれたから。少しぐらい、わがまま言ったって誰も気にしないよ」
「そう言ってもらって、すこし心が軽くなりました」
 みけは立ち上がる。それを見て、私も立ち上がる。進む方向の上に見えている水が少しずつ明るくなっていた。
「それでは、そろそろ行きましょうか。ここから街はそれほど遠くありませんし、階段も緩やかになります」
 再び、みけと私は街に向かって歩き始めた。扉のようなものが遠くに見えた。私が通るには小さいように見える。
 それから数分歩くと、先ほどの小屋と同じような石材で作られている城壁の目の前にたどり着いた。その壁にはツタのような模様が彫られた線が一本ある。よく見てみると、そのツタの途中にはカスミソウに似た何かの花の模様も彫られていたけれど、その花が実際にどんな花なのかはわからなかった。道はその壁の真ん中に取り付けられた扉の向こうに続いていた。遠くに見えたその扉はエメラルドグリーンに煤けていてみけの体格では十分すぎるほど大きく、また私の身長を軽く超えて背が高いものだった。扉を引っ張る持ち手の部分は非常に大きく、猫が使うには大きすぎる気がした。
「それでは、街の中に入ります」
 扉がゆっくりと開けられていく。

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 街の中は、なんだか物悲しい雰囲気に満ちていた。いわしさんや伝令を届けた猫のような猫がほかにもっといるのかと思えば、ヴェールに包まれた球体のような生物が歩いていた。そのヴェールは白く、少し透けているように見え、おばけのような見た目をしていた。時折、その中の何匹かがそのヴェールについている目でこちらのほうを興味ありげに見ていた。
「ねえ、みけ。この人たちって、お化けなの?」
 私は恐る恐る聞く。
「簡単に言ってしまえば、そうですね。それに近いものではありますが、お化けとはちょっと違うのです。でも、住人さんは悪い方たちではありません」
「でも、みけやいわしさんはちゃんと猫の姿をしてたよね」
「私やいわしさんは夕波村を行き来する必要がありますからね」
 みけは再び歩き始める。壁沿いに時計回りに歩いていくと、巻貝のように入り口が広く、奥に進んでいくとだんだんと狭くなっていく階段の目の前にたどり着いた。その階段のゆく道を目で追うと、街のなかでもひときわ高い建物の中に続いている。階段は人間が歩くような大きさの段差に整えられ、白塗りのタイルが綺麗に並べられている。その階段を起用に上っていくみけの背中を追って城の中に入っていった。
 城のなかは長い廊下が続いていた。わずかに曲線を描いている廊下は先が見えない。壁に城壁に彫られていたのと同じ花の模様が入っている。宴会やその他の会合に使われるような部屋につながる扉は一つもなかった。昼のように明るい、と言うには明るいものではなかったけれど、決して不安を覚えるような暗さではなかった。歩いていくうちに突き当りにたどり着く。そこには二枚の扉があった。みけはその扉を三回ノックする。中から返事が返ってくることはなかった。
「失礼します。地上よりやってこられたお客様をお連れしました」
 みけが扉を開ける。小さく開けた隙間の中から部屋の中に入ると、小さなステージが設けられた部屋に出た。ステージは幕が閉められていて、中に何があるのかはわからなかった。周りを軽く見まわす。高い天井と床の間にキャットウォークが設置されていた。
「王立団係留係隊長のミケ・ケネディー・サターフィールドです。こちらの方がこの度『深海』にやってきた方です」
 みけが深く頭を下げる。少し間が空く。
「ようこそ、この街へ。まず、貴女にはこの度の失敗を謝りたいと思います」
 布と布が擦れる音が聞こえて、一拍の休止があって、また布と布が擦れる音が幕の向こう側から聞こえた。
「訳あって姿を見せることはできないけれど、それは貴女のように生きている人間を見ることは私にとって自分の姿が反射しない鏡を覗くのと同じように都合が良いことではないのです」
 自分の姿が反射しない鏡、という表現がなぜか、しっくりときた。
「『深海』から地上に戻る手立てを今彼の部下に行わせています。ですが、『深海』の時間であと一日は準備が必要です。その間、貴女にはこの街で待っていただく必要があります。なので、今日の夜休む場所を用意させていただきます。後ほどサターフィールド隊長に案内させるので、ゆっくり休んでいってください。街も、自由に歩いてください。貴女がこの街で見るものは貴女にとって不思議なものばかりで、無意味なものかもしれないけれど、見る価値はあると思います」
 また、空白が空く。この人が話すことは小説の地の文を読み聞かされているようだった。
「それではサターフィールド隊長。彼女にご案内を。それが終わり次第報告書を提出してください」
「かしこまりました」
 みけは丁重にお辞儀をし、「それではこちらに」と言って部屋の扉へと向かった。扉が閉まる直前に王様のいる部屋を見返す。ゆっくりと上がっていく幕の下に王様の白い足が見えた。

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 『巻貝』の中から外に出る。街の中で一番の高台のここから街を見下ろすと、住人たちがまばらに街の中を歩いていた。無機質で背の低い建物が並んでいる。半球体の天井の頂点から金平糖のように光る照明がぶら下がっていて、街全体をぼんやりと照らしている。
「なんだか、寂しい街だね」
「そうなのかもしれません。でも、この街もにぎわっているんです。ただ停滞しているだけで」
 『深海』はずっと静かだったので、耳を傾けることをすっかり忘れていた。鳴っている音を慎重に聞いてみると、なにやら楽しげな音楽が聞こえてくる。
「みけって、音楽聴くの?」
 みけは少し考えた。
「普段はあまり。でも、嫌いではありません。静かな波打ち際で仕事をする私にはあまりなじみがないんです。それに、ここで聴かれる音楽は現世の音楽の何倍もつまらないんです。だから、夕方になる音楽がとても好きでした。それにあんまりうるさいと眠りにつくのも大変ですから」
 猫も、音楽を聴くんだな、と思った。でも、こんなに人間らしく生きるみけのことではもう驚くこともなく、簡単に受け入れた。私は鼻歌を歌う。そのメロディに合わせて、みけが小さくリズムに乗っていたような気がした。
「懐かしいですね。もうずっと前のことに感じられます」
「この曲は私も好きなんだ。いつも聞いているから気づかないけど、いい曲だと思う」
 みけは頷いて、こちらのほうを見た。
「それでは、街の案内をさせていただきます」
 私はみけの歩くその後ろをついていった。
 街中は奇妙なものだった。ヨーロッパの伝統的な街並みとも、日本の街並みとも異なる街並みはファンタジー物の物語に登場させるならばすごく寂しいものだった。けれども、それぞれの商店には看板が掛けられていて、それが何屋さんなのかは分かった。
「ここは料理屋、ここは銀行」
 こんなに小さい街の中で社会が形成されていることに驚きながらどんな店が多いのか数えてみる。
「ここは薬屋。ここもそうだ、ここも」
「薬屋さん、多いですよね。ここの住人の皆さんは肉体を持たないので、食べ物は必要とされません。なにか食べたいものがあれば食べる人もいますが少数派ですね。薬屋さんは残りの大多数の人々のためにあるんです。
 ここに住んでいる皆さんはただ存在しているわけではありません。今も生きているのです。『深海』は停滞した世界だと、先ほど説明させていただきました。生きるという事は常に何かを更新し続ける営みだと言えると思います。音楽を鳴らし続けるためにオルゴールのネジを回していくのと同じです。現世では意識してネジを回さなくても都度ネジは巻き直されます。ですが、ここではだんだんと停滞していってしまうのです。だから、人々は処方箋に従った薬を薬屋さんに求めるのです」
 相槌を打つ。ヴェールを纏った小さな住人たちがお店に次々と入っていく。
「これから、王室に薬を提供している、私の友人たちのお店に向かいたいと思います。今日、貴女に止まっていただく場所もその近くです」
 そのお店は壁のすぐ前に三軒連続して並んでいた。
「まずこちらが、とらさんのお店です。『物語』にまつわる薬を売っています」
 店内のカウンターの向こう側には本棚が置かれているのが見えた。店の扉を開けて中に入る。
「こんにちは。とらさん」
 そう言うと、奥から新しい猫が現れて、カウンターの上に顔を出した。『茶とら』の猫だった。首元には、三毛がつけているものと色は異なるがほとんど同じようなデザインの首輪がつけられていた。
「こんにちは。みけさん。そちらの方は?」
「しらすが連れてきてしまった旅人さんです。それの報告に城に向かったら、案内をお願いされて」
「そうなんだ。初めまして、人間さん。とらと申します」
「とらさん初めまして、ここではどんなものを売っているんですか?」
「ここでは本を売っています。一番新しいもので特に人気なものですと、『心』ですかね」 カウンターの上に出された本の表紙を見てすこし驚く。現代文の資料集にも掲載されている夏目漱石の『こころ』だった。
「実は『深海』では新しく、良い本を手に入れることがすごく難しいのです。生きている本が入ってくるのは非常に稀で、入ってきたとしてもそのすべてが亡くなられた人が書かれた作品であることが多いのです。例えば、夏目漱石が亡くなったのは一九一六年のことです。あれほど偉大な文学者の死が『深海』に伝わるまでに開いた期間はとても長いものでした。それから、この『心』が流れ着くまでにさらにこちらでは何十年も経ってしまっているのです」
 それは大変だ、と相槌をうつ。
「とらさんは私の大先生でもあります。係留係として昔は働いていたんですよ」
 とみけが小さく私に言った。壁にはみけと同じような意匠を施されている首輪が入れられた額が飾られていた。その隣には古びた海中用のゴーグルが飾られていた。
「ところで、教えてほしいのですが、川端康成さんはまだ生きているのでしょうか」
 ととらさんが訊くのに、私は「川端康成はもう亡くなってしまっている人だよ」と答えた。
「そうですか」
 とらさんは寂しそうに、そう答えた。「私が地上で仕事をしたのはずっと昔のことでしたから。仕方のないことですね」
「簡単に地上に出ることはできないんだね」
 私はそう訊く。
「そうです。私たちの中で地上に出ることができるのは王様に決められた係留係だけで、そうした係留係には専用の道具が王様から貸し出されるんです。貴女の世界の言葉を借りるならシュノーケル、に近いものなのかもしれません」
 みけはそう言った。
「それに、今地上に出ることができたとしても、私はここから離れないでしょうね。ここの静かな雰囲気や、穏やかさが好きなんです」
 そう、とらさんは付け加えた。

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「それでは、とらさん、私たちはこれで。ありがとうございました」
 みけはそう、とらさんに言って頭を下げていた。
「こちらこそありがとう。人間さん、また来たときは貴女の話を聞かせてほしいのですが」
「その時はぜひ。私の話は夏目漱石ほど面白くはないんですけど良かったら」
 私は少しだけ作った笑顔でそう答えた。
 次に並んでいた店からは音楽が流れていた。
「きじさん、こんにちは」
 次も、また名前のような『きじとら』猫が現れた。この猫とらさんと同じ首輪をつけていた。
「みけさん、こんにちは。お仕事お疲れ様。そちらの方は?」
「いわしさんが連れてきてしまった旅人さんで、今王様の指令で街を案内して回っています」
 私は頷く。
「そりゃあ、大変だねぇ。旅人さん、一曲聞いていかない?」
 頷くと、どこからか取り出したレコード盤を蓄音機において、それを回し始めた。確かに、みけの言う通り、退屈な音楽だった。曲が終わると、しばらく黙り込んでしまった。
「旅人さんにとってはつまらない音楽だったんだろうね」
「いえ、退屈だったわけでは」
 きじさんは、はははと笑った。
「私も同じ意見なんだよ。そこにいるみけさんだって同じことを言うはずだ。それでも聞かれているのは、住人たちに必要とされているからなんだ。私は上に行ったことはないけど、みけさんが教えてくれる音楽はすごく良いんだろうな、って思う。私もみけさんやいわしさんみたいに地上に出てみたいな、って思う」
「それなら、みけさんが好きな曲を歌ってみましょうか? 少し、寂しく感じるかもしれませんけど」
 蓄音機の回転がゆっくりと止まる。
「ぜひ、聞かせてください」

 夕波村にいたころのみけは堤防の端のほうで一日を過ごしていた。丸くなって、眠っているときもあれば、立ち上がって海の向こうを見ているときもあった。夕波村では朝六時、昼十二時、夕方六時に音楽が流れた。時間の経過を感じさせるような、温かい音楽だった。
 私はそのメロディを歌った。みけも、きじさんも心地よさそうに聞いていた。
「すこし、店の中が明るくなったような感じがするね。いい曲だし、とてもお歌が上手なのね」
「ありがとうございます」
 猫に褒められるという、経験も珍しいものだ。
「この街では誰も歌わないからね。蓄音機を持ち出して、再生するほかに音楽を聴く方法はなかったから新鮮でした」
「そういえば、現世にいるとき、貴女はよく歌を聞かせてくれていましたね」
 そうみけに言われ、三毛の目の前で歌ったことを思い出してみた。
「あれは、合唱コンクールがあったから」
 それを見ていたきじさんは笑って、
「みけさんはその方に良くしてもらったんですね」
 と言った。二人して、少しうれしそうに照れた。

ーーーーーー

「それではこれで」
 と言ってきじさんの店を後にした私たちは、次の薬屋に向かった。けれども、店の看板や店内は暗いままで、『出かけています』と看板がかかっていた。
「しろさんいないみたいですね。それでは、このお店は諦めて、今日泊っていただくところにご案内します」
 三人の猫の店がある通りの離れた場所にその建物はあった。ほかの無機質なものと比較すれば、モダンシンプルなものだった。
「私たちの王様はすぐに、こういうものを作る力を持っているそうです。もとは住人になるためにやってこられた方を出迎えるための館でした」
 扉を抜けて、雰囲気の良いマンションにあるようなエントランスを通り過ぎ階段を上った先の個室に案内された。部屋は一人で泊まるのには十分なほど広かった。
「こんないいところで泊まっても大丈夫なんでしょうか」
「貴女はこの街のお客様なんですから、これぐらいさせてください」
 ベッドに腰掛ける。自分の部屋にあるそれよりも柔らかいものだった。
「ねえ、みけ。一応確認なんだけど地上の、向こうの私のほうはまだ時間が止まっているんだよね」
「そのようです。先ほどいわしさんにも確認してもらいました」
「それなら安心だね」
 私はみけに手招きして、座っているすぐ横のベッドをぽんぽんと静かに叩いた。
「おいで」
 というと、みけはすぐに側にきて丸くなった。その背中をさする。その毛並みと、手に伝わる温かさがとても懐かしかった。みけも、気持ちよさそうにあくびをした。

「夕食は後ほど係の者が持ってきます。ご入浴は部屋にある浴室を使ってください」
「ありがとう」
「それでは明日また会いましょう」
 そう言ってみけは部屋から出ていった。私は立ち上がって、自分の手を見つめてみる。軽く頬をつねっても痛いだけだった。部屋に取り付けられた窓の外を覗いても、『巻貝』の上から見た街並みを逆にしただけにしか見えなかった。下を覗いてみる。なにやら台車をひた列が城まで続いている。それを誘導しているのは白い毛並みの猫だった。首元にはとらさんやきじさんと同じ青色の首輪がつけられていた。あれがしろさんなんだろうと思った。
 そのとき、扉をたたく音が聞こえた。
「失礼します。お食事をお持ちしました」
 その声に「どうぞ」と答える。器用にワゴンを押す猫が入ってきた。
「食べ終わりましたら、ワゴンごと部屋の外に出していただいても大丈夫でしょうか」
「わかりました。そうします」
 そういうとその猫は振り返って部屋を出ていこうとしていた。
「ちょっと待って」
 と私がその猫を呼びとめると、猫はこちらに振り返った。
「下にいるのがもしかしてしろさんですか?」
「そうです。王様のためにお城に薬を運んでいるんです。王様に指定されたお店の皆さんは朝と夕方にお城に薬を持っていくことになっています」
「そうなんだ、ありがとう。呼び止めて」
「いえいえ」、と言って、扉は閉まった。
 食事は地上のそれとあまり変わらなかった。人間が作ったのではないかと思ったけれど、みけがこの街に『人間』はいないと言った以上はたぶんいないんだろう。それでも人間が食べるためにこの料理は作られているように感じた。

ーーーーーー

 食事が終わったあと、お風呂に入った。用意されていたパジャマを着て、それからベッドに入って天井を見上げる。今日はいろんなことが起こりすぎていて、夢の中に囚われてしまったんじゃないか、と思った。そんなこともあってか、私の意識はすぐに暗い世界に溶け込んでいった。

 夢を見た。みけがまだいたころの夕波村のことだった。夏の猛暑日のことだった。小料理屋さんの女将さんがホースで水をばらまくところにみけは水を浴びに行くほどの暑さだった。『深海』よりもずっと遠くまで続いている空が頭上にあった。
 太陽が水平線に落ちていく時、私とみけは港の堤防の先にいた。いつかは、みけと別れる日が来ることを理解していた。なんだか、寂しい気持ちになって、そのきらめく水面をずっと見つめていた。その様子を見ていたのか、みけは私を尻尾で軽く撫でたような気がした。

ーーーーーー

 目が覚める。まず目に飛び込んできたのは昨日から泊っている部屋の天井だった。起き上がると、しわを伸ばされ綺麗になったシャツと制服が置いてあった。顔を洗い、寝るときに着ていたパジャマを脱ぎ制服に着替え窓の外を眺めてみる。昨日とそれほど変わらない街並みがあった。
 部屋の扉がノックされる。「どうぞ」、と言うとみけがなかに入ってきた。「おはようございます」とみけが言うのを私は「おはよう」と答えた。
「ゆっくり休めましたか?」
「うん、気持ちよく寝られたよ」
「それはよかったです」
 相変わらず、みけは人間が話すように器用に言葉を操っていた。
「王様に朝になったら来てほしいと言われているので、また来ていただけますか?」
 そう言われて頷き、私はみけの後ろについて部屋を出た。外に出ると、なにやら騒がしい雰囲気に街が包まれていた。遠くからいわしさんが走ってくるのが見える。その慌てている様子は明らかに何かが起こったことを表していた。
「いったい、どうしたんですか」
 はあ、はあ、と息を吐きだすいわしさんが顔を上げる。
「王様が、殺されてしまったんです」

ーーーーーー

 城の裏口から登っても、巻貝の階段を上った先にある廊下の入り口でその二つの通用口は合流する。城の中の一直線に続いている廊下を急ぐ。王様がいる部屋の扉を開ける。ステージのそこには血を流している影が横たわっていた。
「王様、どうしてこんなことに」
 横には三匹の猫、とらさん、きじさん、しろさんがいた。
「私が朝、地上に出るという報告をしにこの部屋にやってきたら、倒れていたんです。その時には、まだ城の鍵はかけられていたままでした」
 いわしさんはそう言う。
「ということは、街にいる住民たちがやったというわけではないんですね。まあ、彼らがするとは思えないんですけど」
 とらさんも言う。
「そうだね」
 しろさんが付け加える。「鍵がかかっていた、というとリボン持ちの今ここにいる猫だけですね」
「旅人さんに説明すると、王様から指定されて薬を搬入してくるお店の店主だけにこの部屋の鍵が渡されているんです。それが、この首輪です。だから、外されて誰かがカギを奪おうとすればすぐにわかります。ところで、毎日朝と夕方に薬は運び入れますが?」
 きじさんはそう言った。
「旅人さんを宿に送ったことを王様に報告したのを最後に、王様に会った方はいません。もちろん、その時に私は鍵を閉めました」
 みけさんがそういうと、みんなすっかり黙ってしまう。
「ということは、この五匹の中に犯人がいるんだね」
 私はよくドラマで聴くような、そんなセリフを言ってしまう。

 王様の死体は彼らではなく、みけの部下や昨日宿屋にやってきた猫が片付けることになった。私たちは巻貝のような長い廊下を歩いた。この中に犯人がいることを考えると、暗い気持ちにもなる。廊下を抜け、外に出る。巻貝の上から見た街中には住人の姿が見えなかった。
「もう避難が始まっているんですね」
 としらすさん。
「この街の主である王様が亡くなったんです。あと一日もすればここは元の深海に戻ってしまうでしょう。それまでにどこかに逃げなければすべて沈んでしまいます」
 とらさんは、不安そうな顔で言う。
「城の地下にはさらに深い底へ続く道があります。沈んでしまって水中を漂うことより、もっと深くに潜ることを選ぶんです」
「でも、貴女には帰るべき場所があります。まずは貴女を現世にお送りしないと」
 みけがそう言う。けれども、それに対して不満そうに、
「でもみけさんがいなかったら話もできませんよね」
 としろさんは言った。
「それに、まだ時間はあります」
 天井の照明はまだ少し暗いままぼんやりと光っていた。

 誰もいなくなった広場に丸く並んで座る。残っていたのは猫の姿をした『深海』の住人だけだった。
「皆さんはご存知だと思いますが、私の家はこの街のはずれにあります。仕事が終わればいつもそこに帰っているんです。昨日の夜も同じでした。門番にそのことを聞きに行けば、私が門を通ったことはわかるはずです」
 門番にみけ以外の猫は注目した。「そうです。みけさんは、昨日の夜ここの門を出ていきました。いつも通りです」
「そういえば、王様は何でなくなっていたの?」
 ときじさんは訊いた。
「頭に打傷がありましたので、それが原因かと思います。王様の服には黄色の毛が付いていました。このなかで黄色の毛が生えているのはとらさんとみけさんですね」
 そう、淡々と答えた猫がいた。
「そうなると、何かで殴ったのかな。例えば、本とか」
 どこかから声が聞こえる。とらさんは焦った様子だった。
「間違っても、私じゃありません。昨日は私の本を王様に褒めてもらったのです。その時、王様は私の背を撫でてくれました。その時に毛が付いたと思います。それに、私の本はそれほど重くありません。お城にある本を合わせれば王様を殺してしまうほどの重さになるでしょうが、そんなものは私たちには持ち上げることができません」
「それもそうか」
 と、周りの猫は考えていた。
「しろさんときじさん、いわしさんは何をしていたのでしょうか」
 みけが話を進める。
「私は昨日薬の納入をしていました。数も多かったので台車を使って。王様の部屋に飾ってある絵を入れ替える作業もしましたが、その時にはなにか異常に感じたことはありませんでした」
 そうしろさんが言ったとき、地面が大きく揺れ街中の建物のガラスが割れる音がした。揺れが収まる。
「揺れも落ち着いたことですし、話を再開しますね。私は昨日みけさんたちが来てからすぐに店を閉じて薬をお城に搬入してきました。しろさんが絵を運んでいるのも見ましたし、途中とらさんと会ったときは嬉しそうにしてました」
 しろさんと、とらさんが頷く。二人が肯定するということは
「自分はみけさんに始末書を書いた後、街にすぐ帰りました。それから、地上の生活に必要な準備と復習をしていました。夕方の納入の時間以降は外に出ていません」
 少しの沈黙が流れる。集まった猫の中から手を挙げて一匹の猫が出てくる。昨日配膳をしてくれた猫だった。
「私が食器を片付けるためにワゴンを押してお城の厨房に行く時、鍵を開けているような、影が見えました」
「旅人さんに料理を持って行ったのはあなただったのね」
 きじさんがそう言う。
「そうです、おいしい料理をありがとうございました」
 私がそう言うと、小さく「ありがとうございます」と言った。
「あと、私、気になることがあって。王様は頭を強く打って亡くなったんですよね。王様の部屋にはキャットウォーク、人が一人歩けるぐらいのスペースがあったんです。そこから落ちたのではないのでしょうか」
 私がそう言うと周囲がざわついた。
「旅人さん、あれはたとえ王様が落ちたとしても、あまり高くないのでそこまで致命傷にならないと思います」
 と、しろさんは言った。その時、暗いガラスのような天井の頂点に向かって、大きな白いひび割れが走ったかと思うと、さっきのものよりも大きな揺れが私たちを襲った。少し、風が吹くと、揺れは収まった。天井の上に広がっている波も大きく揺れているように見えた。
「旅人さん、もう行かないと戻れなくなってしまいます」
 みけが立ち上がる。
「シュノーケルは用意できましたか?」
 メカニックなのか、溶接用のマスクを頭に着けた猫は頭を振った。
「それなら、あれを使うしかないですね」
 みけがそう言うと、いわしさんはひどく驚いた様子で「そのシュノーケルは!」と叫んだ。みけはそれを手で静止した。
「私は旅人さんを送ってきます。それが終わったら必ず戻ってきます。もし、私が帰ってこなかったら、いわしさんの首輪を使って、私のことを探してください。これには王様が私を探せるように取り付けた印がありますから、逃げたとしても追いかけることができるはずです」
「あなたがそこまで言うなら私はあなたを信じましょう。旅人さん、また会いましょう」
 ときじさんは言う。周りのみんなもそれに頷いたようだった。

 昨日街に下ってきた階段を急いで上っていく。途中、小さな揺れが何度も私たちを襲ったけれど、それを気にせずひたすらに上って行った。
「『深海』が沈んでしまったらみけや他の猫たちはどうなっちゃうの?」
 みけはこちらに振り向くことなく、「私たちは形のない幽霊のようなものです。それに、海の中に住んでいるんです。水に沈んだとしても、大丈夫ですよ」と答えた。カスミソウとランタンが両端に並んでいる地面を見た。そして、何分も歩いた後、最初にみけやいわしさんと会った小屋までやってきた。
 小さな扉をくぐって、小屋の中に入る。みけは、私に椅子を用意してから、自分の椅子に座って、机の上の首輪を一度手にとって、また机に置いた。
「ごめんなさい、私は貴女に大事なことを隠して、ここまで案内しました」
 私は黙って、みけの顔を見る。
「実は王様は私が殺してしまいました。私は最初からこの『深海』にいたわけではありません。最初は貴女と同じように現世で生きていたのです。私を産んだ母は、私を置いて、私の代わりに自分だけ車に轢かれて死んでしまいました。そのあと、置いていかれた私は生きる場所を自分で見つけることができずに、弱って死んでしまいました。
 そんな私を助けてくれたのが王様です。『君は、これからこの止まった世界で生きていくんだ』と言われ、母親のように育ててくれました。それから、係留係になって、貴女に会って、『深海』をあの場所に留めておくために、王様のために王立団に入って仕事をしていました。
 第二の自分の寿命の終わりが迫ってきたときも、最後まで貴女は優しくしてくれました。そうして、寿命が終わった時、また『深海』に戻りました。一度係留係として現世を生きた猫は引退して、次の係留係にその仕事を任せます。私はとらさんに仕事を任されましたし、いわしさんに仕事を任せました。
 でも、この暗い『深海』の空から貴女が落ちてきたとき、私はとても驚きました。もう会うことができないと思っていた貴女が、こちらに降りてきたんですから、私はつい、うれしくなってしまいました。街まで先導したのも、街を案内したのも、係留係の隊長として仕事をしただけなのに、現世で生きていた時の記憶が蘇ってきたのです。
 けれども、貴女のような生きている人間がこの『深海』に来てしまったことで、この街には不運が吹き込んできてしまったのです。この世界も、王様も、すべて停滞しているものです。けれども生きている、停滞していない貴女が『深海』に来てしまったせいで、止まっていた時間が動き始めてしまいました。
 私は普通に現世を生きていた時の記憶や係留係として生きていた時の記憶はありません。王様が私の持っていた記憶を少しだけ返してくれるから覚えているだけで、一度死んでしまえば記憶は全部消去されてしまうのです。なので私は貴女の名前を言うことさえもできません。
 そのことと、停滞していることの何が関係しているのか、と思われるかもしれませんが、『深海』で生きているものすべてには寿命があるのです。この身体も、記憶もすべて寿命があります。ですが、停滞していることで、寿命がすべて止まっているのです。けれども、止まっていた時間が流れ始めてしまった。それは、王様にも寿命があるから、なんです。王様が止めていた時間の流れが進んでしまったのです。そう、言いましたが、貴女を責める気はありません。全部、私が悪いのです。
 寿命が再び歩み始めるのが本当に恐ろしいことに感じられました。一度死んでいるのに、死ぬのは怖い、と言うのはおかしいかもしれませんが、貴女との記憶を失いたくなかった私は、王様を高台に招いてから下に突き落としてしまいました。この世界はその場にいるものによって大きさを変えます。この小屋が外見のわりに貴女が入れるほどの大きさになっているのは、大きさが変わったからなんですね。
 王様の部屋の高台はしろさんが絵を変えやすいように設置されたもので、普段は城さんの言う通り、落ちても致命傷になりません。ですが、貴女がやってきたことで部屋の大きさは変わりました。その状態でなら、突き落とせば簡単に人は死んでしまいます」
 私はしばらく何も言えずに、みけの顔を見ているだけだった。
「どうして、そんなことを」
 とだけ、私はかろうじて口にすることができた。みけは、申し訳なさそうに頭を下に向けた。
「私はとんでもないことをしてしまったんだ、と思っています。ずっと謝っても許される行為ではなかったと思います。隠してしまったことも、なにも許されないと思います」
 少し間が空く。
「それでも、私は貴女を地上に送りたかった。そのために、この小屋に来たのです」
 みけは壁に掛けられていた古びたシュノーケルを手に取った。
「この機械は現世と『深海』の間を行き来するためのものです。これを使って、貴女を現世に返してしまったら、そのゴーグルは現実に塗りつぶされて使えないものになり、二度と会うことはできなくなってしまいます。でも、それでいいのでしょう。私はそうするべきだし、貴女に会うべきではないんですから」
 そう言われたとき、私の目からは涙があふれ始めた。
「本当なら、貴女がこちらに来る前に、一度だけ使って、貴女に会いたかったのですが、それは諦めます。どうぞ、外に出てください。現世にお送りします」
 何も言えずに、私はみけの背中を追って外に出た。外の空にはこちらを覗いている私の姿が変わらずあった。
「それでは、本当にお別れです」
 そう言われたとき、地面にしゃがんで私はみけを抱きしめた。
「どうして、そんなことを言うの。私だって――」
 その時、頭の上から先ほどのシュノーケルが被せられた。すると、私の身体が水に浮くような感覚があった。みけから腕がほどかれていく。
「愛する貴女、いつかまた会いましょう」
 そう、みけは言った。その後ろで、歩いてきた道が轟音を立てて海の中に沈んでいくのが見えた。

 気が付くと、海面を覗き込んでいる私に戻っていた。手を伸ばしていた私はそのまま海面に落ちた。五月のまだ冷たい海が顔にあたって、静かな村の中で水面が揺れるように静かに音が響いたような気がしたあと、何もない海中の様子だけが一瞬見えた。
 海から上がるコンクリートの階段を上って、目をこすってもう一度海中を見てみても、そこにはもう何も見えなかった。今、明るく輝く波が沖のほうからやってきて、静かな海面を揺らし、私の脚を濡らした。そこにはいつも通りの時間の流れがあった。
 目から垂れていた水は塩っぽかった。


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