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短編小説『遠望の教会』

 運動靴が校庭の砂を少しだけ巻き上げ、土の香りがほんのり漂う。加藤洋介は最後の一周に突入し、ペースを上げる。裏側の直走路を走っていると、思っているよりずっと長いように彼は感じていた。ようやく一周を終えトラックの内側に逸れると暑そうにシャツを扇いだ。授業終わりの鐘が鳴り、二列に並ぶと洋介の隣に渡辺結が立っていた。しかし、必要のなさを感じて声はかけなかった。

 授業が終われば教室に戻って着替える。長袖の制服に袖を通せば少しだけ暑く感じる、そんな季節だ。しばらくすると、制服に着替えた女子や担任がやってきて学活を始めた。一通り終わって解散になると洋介は美術室に向かう。その途中で部活の顧問である前原先生とすれ違った。
「加藤、今日と明後日は会議があるから五時半までに部活を終わらせるように。渡辺にも伝えてくれ」
 そう言い残し、先生は職員室の方へと歩いていった。そして、洋介は美術室に向かった。
 部活が早く終わる日には大規模な作業ができない。洋介はロッカーから黄色と黒のスケッチブックを取り出して、何となしに教室の隅に置かれていた花を描き始める。その時、ガラガラと音を立てて扉が開き、結が入ってきた。彼女はまだジャージ姿だった。
「今日と明後日は先生が会議あるから、五時半までしか活動できないってさ」
「じゃあ、制服に着替えるよ。いつまでも体操着でいるのも気持ち悪いし」
 制服を入れた手提げ袋を手に取って、どこかに行こうとする結に洋介は「前原先生はいま職員室だから、いないよ」と言った。「ありがとう、洋介」と結は言って、美術準備室の方に入っていった。自分で互いに下の名前で呼ぼうと言った洋介だったが、少し気恥ずかしく感じた。
 しばらくして準備室の扉が開き、制服姿の結が美術室に戻る。鏡の前を通ると彼女はいつも以上に深いため息をつき、手提げ袋を近くの机に置いた。その後、彼女はそれほど大きくないキャンバスを持ち出して下書きをしていた。洋介は自分の作業に集中していた。たまに話すこともあったが、作品に向ける眼差しは真剣そのものだった。時間が流れ、洋介が時計を見ると、五時二十五分を指していた。
「そろそろ時間だし、片付けよう」
 結はそれに頷いた。片付けが終わり、洋介は職員室に向かった。他の部活の生徒も早めに切り上げるようにと言われたのか、多くの生徒が職員室近くにいた。彼は鍵を返してから前原先生に報告をした。先生は満足そうな顔をして「お疲れさま。気をつけて帰るように」と言った。「失礼します」と洋介が立ち去ろうとすると、先生は彼を呼び止めた。
「渡辺とは上手にやれているか」
 その質問に洋介はすぐに答えなかった。なかなか彼は答えられずに口からこぼれたのは「それなりです」という言葉だった。先生は小さく微笑んで、「それなら結構。気遣ってやれよ」と言った。結が数ヶ月前に転校してきた頃に同じことを言われたのをぼんやりと思いだし、洋介は職員室を出た。明るい声が廊下に満ち溢れている中で待っていた結は洋介に「行こうか」と言った。
 世界は雑音に包まれている。二人の会話は道を流れる車の音でかき消されてしまう。高校の目の間にあるバス停を通り過ぎる。
「洋介は良かったの? 駅まで着いてきて。普段ならバスで帰ってるでしょ」
「いつもは一緒に帰らないし、たまにはいいかなって。それに駅からも家の方に行くバスも出てるし、それほど遠回りではないかな」
 結は「嬉しいね」と答え、それから他愛のない話が続いた。しばらく歩き、国道の大きな橋に差し掛かると、左手に立派な教会が見えた。結は足を止め、その教会を眺めた。
「あの教会は僕の両親が結婚式をした場所なんだ。それが僕の憧れの場所の一つ。それともう一つ、向こうの方にお城みたいな建物があってさ。随分と立派な佇まいをしているから、小さい頃の僕はそれをお城だと勘違いしてたんだ」
 洋介は、彼女の話をただ聞くことにした。いつもは踏み込んだ話をしたがらない彼女が話すのは彼に対しても良いことだった。
「しばらく、というより大きくなって、それが単なる『そういうこと』をするホテルだと知ったとき、僕は酷く落胆したよ。でも、小さかった頃、僕以外の男子や女子も同じようなことを言ってたんだ。そしてみんなが『あの中には王子様とお姫様が住んでるんだ』って言ってた。でも、僕はそれをイメージすることができなかったんだ。僕は王子様にも、お姫様にもなれなかったんだ。僕が普通じゃない、ということに気づいたんだ」
「俺はそのことを悪いことだとは思わないよ。俺は結人のすべては知らないからうまく言うことは出来ないけど、困ったときはいつでも相談に乗るよ」
「ありがとう、洋介」と結は答え、そしてまた駅に向かって歩きはじめた。しばらくして、二人の学校の生徒がよく通っているショッピングセンターの近くを通りかかった。店名の看板が色鮮やかに光っている。
「ごめん。ちょっと寄り道していいかな」
 洋介がそう言ったのを結は頷いて答えた。ショッピングセンターの中はそれなりの人の往来があった。誰もが不思議そうな顔を浮かべることがなく、その中を行く二人は平然と受け入れられているようだった。洋介は前と、隣の結を気にして歩いた。歩いている途中に結は洋介に身長を訊かれた。なぜ、という疑問が結の中にはあったが、なぜかは訊かなかった。そして、入っていったのは洋服屋だった。
 結は陳列された男性服を眺めていた。彼女の目線の先におしゃれに着こなすモデルの写真が貼られている。彼女は洋介に「先に出て待ってる」と言い、彼女は店の外に出て、歩いてゆく人をただ眺めていた。何分か経ち、洋介が店の袋を持って歩いてくる。「結人、待たせてごめん」と言う彼の左手の中に袋が握られていた。

 結の疑問が解消されることは無く、二日が過ぎた。時間は水のように流れ、そしてあらゆる事象を薄めてゆく。結はそれ以上疑問について考えるのをやめた。そして、週に二日の体育の授業が今日もあった。洋介は汗を拭いながら最後の一周に突入した。タイムを見て、先週より少し遅くなっていた。
 学活が終わり美術室に向かう途中、彼は前原先生とまたすれ違った。そうするのも先生なりの配慮の形なのだ、と洋介は考えた。
 今日は少しだけ教室の中が肌寒いと感じた。荷物を置くと重そうにドアが開いた。
「おつかれ、洋介。先生は?」
 片手に制服が入った手提げを持った結が洋介に言う。
「今はいないよ」
「ありがとう」と言い、かばんを置いて準備室のドアノブに手をかけた結を洋介は呼び止めた。
「結人、制服着てみるか?」
 秒針の音が響いた。そして、洋介の意図を結は受け取ると、嬉しそうに頷いた。
 美術準備室に入ると、洋介は満たされた空気を吸い込んだ。彼はネクタイを取り、ワイシャツの袋と使っていなかった制服のスラックスを手渡す。結の小さい手がそれを受け取った。
「一昨日、洋服屋に入ったのはこれを買うためだったの?」
 洋介は頷いた。「じゃあ、俺は出ていくから」彼がドアノブを掴むと、手を掴まれた。他人に握られた左腕が熱いと感じた。その熱さが洋介の身体を巡っていった。「ここにいて」、そう結は小さく言った。
 布擦れの音が聞こえる。この部屋だけ時間や音が止まっているように、洋介には感じられた。心臓の鼓動が痛いほど聞こえていた。そして、その音が頭の中を満たしていった。男子ならば普通のことだ、と強く考え続けようとした。しかし、結の姿は見ることができずにただ下を向いていた。
「終わったよ」、と結は言う。洋介が顔を上げると男子制服を着た結の姿があった。彼女と背景との間に生まれた焦点の合わない揺らぎが、彼の眼から心を貫いて放り出された大きな空間の中で反響した。
「よく似合ってるよ、結人」
 洋介は必死にその言葉を言った。聞こえていたのか、彼にはわからなかった。結はネクタイの結び方を知らなかった。洋介は近づいて、結んでやると彼女の雰囲気や、首筋から滲み出る色に視界が霞んでしまいそうになった。ブレザーのボタンをとめる手はぎこちないものだった。
「本当によく似合ってる。かっこいいよ、結人」
 今度ははっきりと口から言葉が出て、結は、嬉しそうに笑った。

 下校するときは男女指定の制服で帰らなければならなかった。洋介はネクタイを結びなおし、職員室に行った。先生はいつものように何度か頷くと、「気をつけて帰りなさい」とだけ言った。今日は結が職員室の前にいなかった。廊下を歩く途中、彼は彼の中での彼女の姿を思い浮かべた。どう接するべきなのか、という考えが足を前に進める。今は、それすらもまともに考えることができずに、何度か立ち止まった。
 昇降口を出ると夕日の橙色に満たされていた。ふと洋介は振り返る。普段は暗く見える昇降口でさえも、一枚の写真に撮ったように輝いていた。その奥側から軽い足取りで結が歩いてくる。彼女のスカートの裾が揺れた。それがコマ送りのように再生され、洋介の眼に焼きついた。彼だけが時間の中に取り残されていた。
「洋介、待たせた? ごめん」
 結がそう言っても返事はしなかった。
「洋介、大丈夫?」と結が手を洋介の目の前で振ってみせる。止まっていた時間が動き出し、「ああ、ごめん。良いんだ」洋介は今できる一番の作り笑いをした。結はなにが良いのか理解しないまま、歩いてゆく洋介の背中を追いかけた。
 世界は雑音に包まれていた。ローファーを履いた結の足音は国道を流れる車の音でかき消されてしまう。高校の目の間にあるバス停を通り過ぎ、国道の大きな橋に差し掛かる。そのときから車の往来は少なくなったように感じられた。洋介が立ち止まると、結も立ち止まった。二人は橋の外に見える風景を見ていた。
「今日は制服貸してくれてありがとう。僕、着たことがなかったし、そんなことを提案してくれる人なんていなかった。こんなに、考えてくれるのは洋介が初めてだよ」
 その時、風が吹き抜け、彼女の短い髪が揺れる。その姿を洋介は見つめていた。
「結人が喜んでくれたらそれで良いんだ」
 洋介も結もそれ以上は会話を交わさなかった。遠くから鐘の音がすると、結は柵から背を離した。
「僕もいつか、あの教会で結婚式を挙げるのかな」
 そう、彼女が独り言のように漏らしたが、洋介はただ俯いていた。
「それはあまりにも普通のことなんじゃないかって今は思うよ、結人」と彼は言う。
「それもそうかもね」と彼女は答えた。

 今は半ば夕暮れで、雲がいくつか浮いている。大きな川に架けられた橋の上に風が流れ、夕暮れに光る海が河口の先に見える。彼女が見ている遠望の教会に夕陽が差し込む。かすかに漂う潮の香りの中で、二人はただ立ち止まっていることしかできなかった。

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雪村真月名義で、小説家になろう様にも投稿しています。
https://ncode.syosetu.com/n3962gl/

追記 原稿に修正を入れました。文章に変更があります。(21/11/27)


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