見出し画像

初音ミクという宗教の「経典を読み解く」作業

「初音ミク Music&Fireworks(通称:ミク花火)」に行ってきました。イベントの内容としては、"初音ミクとクリエイターたちがともに生み出した楽曲が「花火」「ドローン」「照明」など様々な演出とコラボレーションし、空と地上を巻き込んだ高次元エンターテインメントショー(公式HPから引用)" というものです。SS席のチケットを買い、天候にも恵まれ、座席もモニターの目の前という最高の環境で参加させていただきました。肝心の内容ですが、まぁすごい。超近距離で花火が上がり、それが曲に合わせて轟音を響かせる。おそらく私の人生史上で最も迫力を感じた花火鑑賞でした。
初音ミクのイベントと言えば「マジカルミライ」がおそらく代表的であり、過去11回開催されている年に1度のライブイベントですが、今回のミク花火はこれが初開催でした。どんな内容になるのか参加者は皆ドキドキしていたと思いますが、SNSの反応などを見る限り概ねみなさん満足されたようですし、来年もまたあるかもしれません。

初音ミクというコンテンツが持つ「宗教性」


私は初音ミクというコンテンツの「宗教性」を自覚し、その上で最適な接し方に努めているつもりです。(初音ミクの宗教性については既に別の方が的確に言語化されていますので、そちらを参照されると良いかもしれません。)

「宗教」と聞くだけで身構えてしまう日本人は多いと思います(特に令和に入ってから日本国内で宗教に関する諸々がセンセーショナルに報じられていましたし)が、本来宗教は人々の心の拠り所として根付き、社会規範や生活における指標となるようなものです。「推しがいるから生きていける!」なんて考え、まんま宗教じゃないですか。
厳密に言うと宗教の定義としては経典(神様の教えなどをまとめたもの。キリスト教で言う聖書)がないとダメらしいので全部の推し活が宗教っぽいとは言えないのかもしれません。しかし、初音ミクに関しては「曲」が経典にあたるのではないかと個人的に考えます。

一貫性がない、だがそれ故に求心力を高める稀有な存在

初音ミクの曲は作曲者・作詞者により千変万化し、そこに一貫性はほぼないと言えます。人間のアーティストではありえない程の「振れ幅」があります。しかしそれ故に多様な趣味嗜好に刺さりやすく、そしてファン一人ひとりの中の「初音ミク像」も多種多様です。なにせ人格がないので解釈も無限に可能です。性格・言動・思想に至るまでファンに最適化された形で咀嚼されます。一般的に音楽シーンではある程度方向性を定めて確実にファンを獲得していくことが求められており方向性のブレは御法度とされていますが、初音ミクに至ってはむしろブレこそが武器という側面もあります。そして人間のアーティストのように老いたり歌唱力が劣化したり、はたまたスキャンダルを起こして表舞台を去ることもありません。もはや何でもありの「神」ですね。

色付けされ、常に新しい読み解かれ方をする「経典」

話はミク花火に戻ります。初音ミクの曲を「経典」とするのであれば、今回のミク花火は経典に新たな解釈をもたらし、ファンである我々信者にこれまでとは異なる理解を促すものであったと思います。
例を1つ挙げます。「少女レイ」という初音ミクの曲があります。アップテンポな曲ですが歌詞が中々に重く、そのギャップもあってか非常に人気が高い曲です。この曲が今回のミク花火で流れ、ど迫力の花火とともにインパクトのある演出がなされました。
歌詞を読む限り夏が舞台の曲なので花火との親和性は抜群でした。曲調と歌声がもつ爽やかさがカラフルな花火で何倍にも増幅されていました。
つまり、花火による演出により「爽やかさ」と歌詞の「重さ」とのギャップがさらに広がり、より強いインパクトを産んだのです。少なくとも今回のミク花火に参加した人は、今後「少女レイ」を聴いた時、頭の片隅に大迫力の花火が惹起されることでしょう。経典を読み解く過程(=曲を聴くこと)における新たな要素を、ミク花火がもたらしたと言えます。もちろん人間のアーティストのライブにも演出はつきものですが、初音ミクに至っては先述の通り彼女が持つ特異性も相まって宗教性が色濃く出るように感じます。

頼むからあと80年は続いてくれ

ここまで長々と酒の勢いで書きましたが(初音ミクのイベントとしては珍しく、今回のミク花火では酒が売っていて4杯も飲んでしまった)、結局言いたいのは「頼むから80年後もマジミラやってくれ」という一言につきます。老人ホームからライブ配信でマジミラ観たい。ペンラ振りたい。法被着たい。死ぬまで応援させてくれ。だって宗教でしょ?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?