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「退屈の箱庭」に寄せて(箔塔落)

 本作は、灰谷魚さんの「レモネードに彗星」へのオマージュです。掲載をご快諾くださいました灰谷魚さんに、まずは心より御礼申し上げます。ありがとうございました。そして何より、カクヨムWeb小説短編部門円城塔賞受賞、おめでとうございます。
 この作品の成立の経緯としては、なんと言っても「レモネードに彗星」の解説めいた文章がうまく書けなかった、というのが原点としてあります。どんな言葉をひねりだそうとしても、作中のことばを借りるなら、それこそ《白々しい》ものになってしまう、というか。快刀乱麻を断つような解読ができない小説であることは、「レモネードに彗星」をお読みになった方はおわかりになると思いますが、「退屈の箱庭」は、「レモネードに彗星」の、斬ろうとしても刃のほうがなぜか毀れてしまう、作品のうまく表現できない「胆力」に対するオマージュであり、私なりのひとつの挑戦になるのかな、と思います。

 エイミー・ベンダーの小説に、たしか「私の恋人が逆進化している」という魅力的な書き出しではじまるものがあったかと思いますが、「レモネードに彗星」を読んだとき、なぜかその一文を思い出しました。その理由について考えていたのですが、ああ、時間感覚の違いがそう思わせるのかな、という結論に達しました。そのことについて少し触れておきたいと思います。
 「レモネードに彗星」においては、ふたつの時間感覚が存在しています。肉体がない、という意味で、もう決して進むことのない時間をもっている語り手と、一年に何歳も年を取る=普通より速い時間感覚をもつ叔母。(〈私はどんどん未来に進んでるわけ〉という叔母のセリフがあります。)この両者は、いずれも異例の時間感覚ですが、異例でありながら共通しているものがあります。すなわち、どこか「永遠」という概念に向かっているような感覚があるのです。(あくまで、私の印象でありますが。)
 けれども、この小説は、単純に「永遠」的なるものを描いたものではありません。それこそ「永遠」に真っ向から対立する〈私は千年も生き続けられないし〉という叔母のセリフがあります。別の言い方をするのなら、「永遠」という概念に向かっているように見え、その「永遠」は明らかに破綻している。ひとたびそのような視座に立てば、読者は「記憶のほころび」についての本作におけるきわめて印象的な以下のやりとりを思い出すでしょう。

 叔母は少し考え込むようなそぶりを見せた。
「あったっけ? そんなシーン」
 (引用者略)
「そもそも退屈なシーンが多かった」私はやや攻撃的な気分で言った。「昔の映画って発表する前に何重ものチェックが入るんでしょう? どうして退屈なシーンをカットしないんだろう」
「退屈なシーンのない映画なんて」叔母が穏やかな目をした。「それこそ白々しいじゃない」

「レモネードに彗星」

 これらを踏まえると、ひとつ、「レモネードに彗星」の特徴のひとつが言語化できるのかもしれません。すなわち、「記憶」(「記憶」もまた、「記憶している」時点では「永遠」に近似します)というものの正当性に対する疑義と、「記憶に残らなかったもの」を等閑視することへの疑義です。人は自身を再構成しようとするとき、「記憶」からそれをしようとすることが多いけれども、むしろ「記憶に残らなかったもの」こそ、〈白々し〉くないその人らしさになるのではないか――。あるいは、そこまでの敷衍は、かえって「レモネードに彗星」の魅力を殺ぐかもしれませんし、そもそも仮に私の主張が正しくとも、それだけが「レモネードに彗星」の美点ではないこともまた事実です。けれども、「レモネードに彗星」というテクストを分析する、あるいはひとつの足掛かりくらいにはなるのかな、とも思いましたので、ここに書き記させていただきます。

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