Steely Danのライブ盤をまだ聴いてない

2、3日、更新が飛びました。すぐに体調を心配してくれる心優しいリアル友がおりますが心配ありません。8月に途切らせてしまってからは、すでに毎日書くことにはこだわっていません。もはや気紛れ更新に変わりました。

というのも、やはり時間を使いすぎるのを反省したからです。日記を付けるのに2時間かけたら、1日の1/8を消費したことになります。文章を書き続けることでバカになるのを防ぐ目的、いわば頭脳の体操のつもりでしたが、もう少し負担のない範囲で行いたいです。逆に、より意味のある内容をしっかり記していくべきと思います。誰かの役に立つかどうかは別にして。

と言いつつ今日もくだらない日記にすぎませんけれど、先日購入した3枚のSteely Dan関係のライブ盤、1枚は少し前に出たアンオフィシャルなカットで、もう2枚は近日(9/24)にリリースされた公式盤の話題です。でも恥ずかしながら、実はまだちゃんと聴けていません。

元々、録音された音楽を聴く行為は、しっかりセッティングした2台のモニタースピーカーの軸上に頭部を合わせて座り、眼前に広がる仮想の音楽空間を凝視して、景色の移り変わりを読み取る作業でありますから、それなりの覚悟で、さぁこれからやるぞと構えて始めます。それがどうも、近頃できにくくなっており、なにかと滞りがちです。

流す、というなら一通りかけましたけれど、それでは全然聴いたことになっていないので、得られるものなにひとつありません。今日も結局行えず、明日も1日家を空けるから同様、明後日ならできるかな、というところ。といった風にずるずる時が経過していきます。

そういうことを考えてみると、少なくとも40代くらいまでと今は大きく違っていて、音楽を聴く、本を読む、映画を見る、といった諸々が全然進まないのです。そういったものにのめり込んで今があると言うのに、感覚的には卒業してしまった、あるいは引退してしまったような状態です。良くないですね。

現在の自分は、本来の自分なのか? 休憩、あるいは休養、もしくは意識的な鎖国なのか。元に戻って、好奇心のまま貪るように創作物を味わう日々は戻ってくるのか? そうした習慣から着想を得て、自分の表現を洗練させることへの興味は再び涌くのか、ぜんぜんわからないですね。どうしましょう…。これで朽ちていくならそれでもいい、という考え方が根強くあります。

歳を取ると感覚は死ぬんですかね。そのようなことの象徴が、自身の肉体上には始まっているのだけれど、心は老いてはいけないと思うんです。思うのだけれど、繊細な感性は、無感覚へと性能を落として行っている気がして、それに対する抗いを支持する気持ちすら萎えてきているようです。いやだな。本当にいや。

9月開幕の予定が延期され、いよいよ10月26日のバルティモアからスタートするSteely Danのライブツアーです。本当に大好きだったものへの愛情に陰りが見えてきたことを、やはり認めるべきではないですね。米国まで観に行くことはできませんが、ここに届けられた近年の(年時が明らかにされていませんが、少なくともウォルターの死後行われている)ライブの音源を心して聴かなければと思います。彼等より先に隠居など、絶対になりません。



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