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心臓にジェラシーを飼う

最近上手く勉強に身が入らなくてとても苦しい。

趣味も、純粋な気持ちで楽しむことが出来ない。

焦燥と、疲労と。それと嫉妬心と劣等感がある。


自己肯定感の有無と程近い場所に、嫉妬心がある。

他者と自分を比べ、自分の方が劣っていると実感し(あるいは、思い込み)激しい絶望と、劣等感と、そして嫉妬心を抱く。近頃はこの嫉妬心に悩まされている。


直感で生きてこれたと自負する20数年間は、人並みの生活を手に入れられなくとも局地的に秀でたものを愛でていられた。それはたとえば本を読むことであったり、物語を描くことだった。

しかし開けた社会が近づくにつれ、同世代の人々が気になって仕方ない。特に台頭する同世代を見るたびに、「どうして私はこうはなれないのか」と心臓が疼くのだ。それは甘やかな嫉妬心であり、劣等感である。

私の狭い視野は、人を「ゆたかな人」と捉える。たとえば私が心身の具合を悪くし、臥せっている時に、物語を慈しみ、楽しむ人々、あるいは仕事にせよ学問にせよ、生き生きと努力する人々の今日という日を、あまりに豊かであると羨ましさを覚える。

私には、不登校であったこと、発達障害を持っていること、持病があること、容姿、その他諸々へのコンプレックスがある。特に前者のいくつかについて、私はこのコンプレックスを振り払うすべを未だ得てはいない。「学校に行けなかった」「学生服を着て、学生のような営みを果たせなかった」ことは、その頃を通過することが出来た人々への、かぎりない嫉妬へと変わった。

嫉妬心とは便利なもので、無尽蔵に胎から湧き出ていくものである。私はずいぶん昔から、物事への幸福感の代わりに、負の感情ばかりを孕み、産むようになってしまっている。

「自分は何もしていない」という焦りが、新たな事柄への挑戦を妨げることがある。思うに、継続した努力ができる、ということもまた、才能の一つである。

私は上手く努力することが出来ない。感情のコントロール、あるいは視野の切り替えが上手く行かない。泥土のような疲労感を覚えながら、日が沈んでいくのを観測し、「今日も何もできなかった」と思う。彼ら、あの、ゆたかな人、美しい人々に比べて、私は。

それゆえに、ひとつの物事すら楽しむことが、あるいは学ぶことが困難になっていく。「負けないように」という浅い感情を持って触れる物語を、到底楽しむことは出来ない。それこそ浪費であるような気がして、私の精神はただ費やされるものを恐れるのだ。


この感覚は明らかに近頃発せられたものだ―――少なくとも、きちんと社会参加を果たすようになってからだと思う。近しい年代の人々の、ほんの一握りのものたちが、TVやネットで観測できるようになった。もしくは身近にいる人々の、研究成果や就活の、めざましい成長が恐ろしくて仕方ない。

私は私の限界点を悟りたくはないのに、私の中の私が、私の限界点を置こうとする。この、無為なる嫉妬心によって。


ではあの、暗い部屋で何時間も何時間も、何かを吸収するとか、何かを手に入れるだなんてみじんも考えることなく、ただ夢中になって本を読んでいた頃を取り戻すにはどうしたら良いのだろう。

あの頃は社会から切断された場所にいた。同世代の人々への劣等感を持ちながらも、同じ場所には立てないという諦めがあったのだ。

その頃よりは幸せなのだろうか。今の私は、社会と接続されている。あの頃は社会の一部になりたくて仕方なかった。夢は叶ったのだろうか?それなのに私は今も、社会の一員になりきれない自分を自覚する。

自らの置き場所に悩んでいる。私は嫉妬心を抱き、他者への劣等感を抱きながらも、嫉妬心と劣等感で動けなくなる自分を恥じ入り、攻撃している。将来への不安が増幅する。私と他者を比べ、比べ、ただ比べ続け、自己を見失う。自分の何もかもが嫌だ。努力が出来ず、プライドが高く、将来を恐れ、生きることを苦しむ自分が。
社会規律を守れない私がいる。

精神が追い詰められる心地だ。とても苦しい。この社会で自我を保つのは困難だ。

どうしたらもっと頑張れるのだろう、何かをしたという実感を抱けるのだろう、楽しく今日を生き、物語を慈しむことが出来るのだろう。

息が苦しい。

日々のごはん代や生きていく上での糧になります