里山資本主義:新たな時代のテクニカルターム


里山資本主義に触れて...

随分と牧歌的な響きを持つ言葉です。でも、なぜか気になり、黒坂さんの投稿した記事を覗いてみました。とても気になったので、この本を読んでみました。どうも、地域の自立経済の話しのようです。自分なりに新たな括りを試みましたがどうもしっくりこない。「非競争経済(Noncompetitive economy)」。最終的にここまで括れたのですが、まだ遠い。里山資本主義で謳われている、その中の人々の「心」が、どうしても括れない。

非常におおらかで懐の深い言葉だと気づかされる。

誰もが、明日のことさえ分からない混迷の時代に、このキーワードは、新たな時代のテクニカルタームと悟りましたよw

https://style.nikkei.com/article/DGXMZO35219170R10C18A9000000?channel=DF260120166529&style=1&n_cid=DSTPCS001

https://comemo.io/entries/9517

里山資本主義の可能性...

日本は、少子高齢化にとうとう突入してしまいました。既にこの影響で、製造業や農業は、ズッタズタです。外国人労働者に依存しなければ、もう成り立たなくなりました。その中の一つに「縮小均衡」でもいいのではないかと云う意見があります。恐らく何の策も無く、このまま「縮小均衡」に向かっていけば、多くの困難が待ち受けることになるはずです。絶対に避けて通ることの出来ない国債の償還原資をどこに求めるのでしょう?発行した国債は、税収から償還されるのだから、税収を上げるか、支出である税の再配分を償還に振り向けるしかありません。税収を上げるにしても、その頃には、働ける労働者は少なくなっているため、更なる国債の発行となるはずです。少なくなった税収を償還原資に充てれば、高齢者に対する福祉・医療・年金を減らすしかありません。素人が考えても、他の費用を総動員しても到底足りないはずですから、間違いなく福祉・医療・年金に影響が及びます。インフラの更新は、どうするのでしょう?首都高の内回りなどは、もうボロボロです。中央環状もあるし、外環状もかなり完成してきていますから、内回りは、撤去されるかもしれないですね。いまの現状からの「縮小均衡」など、想像がつきません。税収を増やすために、外国人労働者を増やすにしても、いまの日本人のコンセンサスからは、大巾増で耐えられない人数になります。やはり、「縮小均衡」は、避けられそうもありません。ならば、どうやって「縮小均衡」を成り立たせればよいのでしょう。

その解は、「里山資本主義」かも知れません。

H25.9.10発行のこの本には、実に興味深い内容が書かれております。輸入に頼るエネルギーを廃材の木材チップを燃料化することから話しは始まります。赤字収支の地域が、支出費用の外部流出を押しとどめて、見事に収支を立て直していきます。価値のないものに価値を見出すことによって、支出を抑え収入に変えてしまったのです。ヒントは、自然の力を利用することにあるようです。地域のお年寄りが余った野菜などを持ち寄ることで、介護センターの経費が抑えられた話も出てきました。これも支出が抑えられるだけでなく、生産者であるお年寄りに張り合いが出て、活躍し、交流する姿も描かれています。どれも、GDPとしては、減少してしまう話しですが、お金を使わなくても良い仕組みなのです。

つまり、資本主義とは少し距離を保ちながら、自然や地域と向き合うことで、自立できるのです。

何より素晴らしいのは、この中に出てくる登場人物が、みんな生き生きとしていることです。自然に背を向けずに向き合うことで、人々が再生されてゆきます。

全てを包み込んでしまう「里山資本主義」...

わたしは、数年前から、日本が少子高齢化の行きつく先は、「都市=国家」と「姥捨て山」が終着点と確信しておりました。こうでもならないと日本の未来は、収束しないと思ったからです。でも、なんと耳障りな言葉なのでしょう。自分が思うのですから、他人様に、受け入れられることなんて、あり得ない話しです。「都市=国家」ならば、「地方≠国家」なのか!いままで、社会に貢献してきた高齢者を「姥捨て山」とは何事なのだ。わたしたちは、ゴミなのか!おそらく、そう云った罵声を浴びせられることになるでしょう。でも、「里山資本主義」なら、この禍々しい言葉を包み込んでくれそうです。「都市=国家&地方=里山」、「姥捨て山」から「若返りの里」に変えてくれそうです。いまの延長線では、地方には財源が行き届かないはずです。これは、変えようがないと思います。ですから、地方は、自然を味方にして、小さくとも豊かな経済圏を目指すのです。お年寄りが、自ら活躍することは、若返りに繋がっていきそうです。都市や資本主義と云ったものからは、距離を取ることになりますが、「里山資本主義」には、都市から隔離されることにはならないようです。里山で暮らす人々が手を入れた自然や農産物を求めて、都市の方から、人々が交流を求めてやってくるようです。そもそも、「姥捨て山」は、調べると分かるのですが、住居も耕作地もそもそも備わっていて、お年寄りが助け合って生活していたようです。決して、捨て場などではなく、家族も会いに行くことができ、タブーな場所などではなかったようです。

完成形は、欧州の地方都市か...

本当にそんな夢物語のようなことが、可能なのでしょうか?事実、「里山資本主義」に書かれている実例がありますが、欧州に完成形を求めてみたいです。冒頭のリンクの美しい村の写真の数々をみると、コンクリートで作られたビルなど、一つもありません。最低でも、半世紀以上前の佇まいです。資本主義に全く侵されずに成立できる証明と云えるでしょう。

自然に手を入れ、寄り添いながら、いくばくかの恵みを受け取り、余ったものは他者と分け合い、お互いがお互いを必要とする。かと云って、都会との関わりも捨てることをせず、資本主義とは距離を取り、非競争経済のセミクローズドの経済圏を「里山資本主義」は、示してくれているように思います。

※数年来のモヤモヤが、晴れた気がします。5年も前に出版された本に既に解が示されておりました。黒坂さんの投稿に出会わなければ、ずっとこのモヤモヤのままだったことでしょう。感謝。感謝であります。


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