見出し画像

優しくて弱い人だって歯を食いしばる

生きづらさを感じるようになったのはいつ頃からだっただろうか?
幼い頃から母には「あんたには協調性がない」と叱られてきた。
キョウチョウセイ?その言葉の意味すらよくわからないのに、自分らしく生きる事に対して、この世で一番信頼している母親という絶対的存在に早くから否定されている、ということは何となくわかった。私が自分らしく生きることは、母を怒らせたり、がっかりさせたりしてしまうのか。私は次第に自分を表に出せなくなっていった。
教師と衝突し始めてきたのは、小学校高学年から。家庭でうまく自分の個性を出せなくなっていた私は、教師に半ば甘えるように強引に自分らしく振る舞っていた。偉そうな大人の中にある幼稚な部分をめざとく見つけるのが得意たっだ私は、教師にとってそれはそれはうざったい子供だったことだろう。教師の逆鱗に糸も容易く触れると、カッとなった相手は私をクラスみんなの前で否定して、私はますます教師に対する失望と反発心を募らせていった。ここでも私を受け入れてくれる人はいなかった。

女子特有の集団行動が何となく苦手なくせに、孤立するのがかっこ悪くて、グループの下っ端として振り落とされないように必死にしがみついていた。そんな心の弱さは敏感な年頃の女子達にはすぐに見破られ、残酷に仲間外れをされたりもした。今思い返しても、私はよっぽどかっこ悪い。どう振る舞っても、私らしくを受け入れてくれるところは、小学生時代にはなかった。

多感な時期に人格否定をあらゆるところでされた経験は大人になった今でも傷として残っているし、むしろ大人になったからこそ、私って結構酷いことされていたんだな、と、あの頃の私を全力で抱きしめてあげたくなる。よく頑張ったね。えらいよ。

ビビリなくせに押さえつけられる事に嫌悪を覚え、それに反発すると相手には気の弱さを見透かされ「お前ごときが」とはたき落とされてきた。
泥だらけになり歯を食いしばり泣きながら、仁王立ちする相手を涙越しに睨みつけては何もできない自分が心底かっこ悪くて、自分にも相手にも失望した。

そんなダサい人生も、気の合う友人や恋人によって自尊心を保ってもらっていた。
高すぎるプライドが邪魔なくせに、かっこ悪いことが嫌いだから必死に守ってきたけれど、なぜか全て周りに見透かされていて、さぞかし格好のつかない意地っ張りな女だった事だろう。情けなくて笑えてくる。


画像1


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?