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【ナナシス】音楽の本質をいかにして取り戻すか――『EPISODE.KARAKURI』と『EPISODE2053』

 2024年5月7日、EPISODE2053の新エピソードが公開された。Stella MiNEにフォーカスした物語(『星に手が届くなら』)で、アイドル候補生として活動する星影アイと月代ユウの一挙手一投足が描かれている。

 この話の感想は別記事(「特別なオンリーワン」になることの非情さ――EPISODE 2053 SEASON3-001『星に手が届くなら』)に記したのでここでは触れない。今回触れたいのは「EPISODE.KARAKURI」である。2017年に公開されたエピソードで、その名の通りKARAKURI――空栗ヒトハと空栗フタバの過去、そして現在に迫った物語だ。

 公開から7年がたった今、なぜEPISODE.KARAKURIに注目するのか。それは、この話がEPISODE2053を読み進める上での補助線になり得ると考えているからだ。具体的には、EPISODE.KARAKURIは誰かに思いを届ける、誰かを勇気づける(ナナシス風に言えば「背中を押す」)という音楽の本質を、ヒトハとフタバの2人が自覚する姿を描いており、そのプロセスを追うことがEPISODE2053を読み進める上で有用であると私は考えている。

 一体どういうことか。これについて詳述する前に、まずはEPISODE.KARAKURIのあらすじを見ていこう。

KARAKURIの音楽はいかにアップデートされたか

 KARAKURIは空栗ヒトハと空栗フタバの双子の姉妹からなるユニットである。押しも押されもせぬトップアーティストで、アイドル文化が廃れた2034年のTokyo-7thにおいて絶大な支持を集めている。そんなヒトハとフタバは、当初アイドルを敵視する存在として描かれていた。EPISODE.KARAKURIでは、2人がアイドルを敵視している理由が明かされている。

 孤児だったヒトハとフタバは、類い稀なる美しい歌声を持っていた。これに目を付けた大人たちが、彼女らをトップアーティストにするべく、当時Tokyo-7thを席巻していたセブンスシスターズを仮想敵としてプロデュースを手がける。身寄りがなく、物心のつく前からアーティストとしてのプロデュースを受けた2人にとって、自らの歌声はセブンスシスターズに勝利するための武器であり、名だたるアイドルに勝利することが彼女らの存在意義であると自覚するようになった。

 そのスタンスはセブンスシスターズが解散し、エンタメシーンの頂点に登り詰めて以後も変わっておらず、にわかに露出が増え始めた777☆SISTERSを、アイドルとして評価しつつ、あくまでも競争相手として捉えていた。

ヒトハ「ステージに立てば、勝つか負けるかの世界なのだし」
フタバ「そう、勝つか負けるか、だね」

EPISODE.KARAKURI第1話「インタビュー・ウィズ・KARAKURI」

フタバ「進歩を諦めるような相手には、塩も送れないね」
ヒトハ「ワタシたちが、アイドルの限界を見たいから」
フタバ「シスターズのいない世界でキミたちが彼女たちに、いや、自分たち自身に挑む姿を、見届けたい」
ヒトバ/フタバ「最後まで、ね」

EPISODE.KARAKURI第2話「レッスン・ウィズ・KARAKURI」

ヒトハ「ワタシたちは進歩を続けているあなたたち、777☆SISTERSと勝負したい」
フタバ「本当の望みはただそれだけなのかもしれない」

EPISODE.KARAKURI第2話「レッスン・ウィズ・KARAKURI」

 物語終盤、ヒトハとフタバは自らの過去の発言を端緒とするトラブルをきっかけに、777☆SISTERSと距離を置こうとするのだが、春日部ハルや天堂寺ムスビたちの働きかけで和解にこぎつける。そしてそれは、KARAKURIにおける存在意義のアップデートが図られるきっかけとなった。

 前述したように、ヒトハとフタバにとってステージは勝負の舞台であり、歌やパフォーマンスは勝負に勝つための手段だった。実際、KARAKURIは持ち前の洗練されたパフォーマンスで他のアイドルを圧倒しており、Tokyo-7thのトップアーティストとして名声をほしいままにしている。

 では、ヒトハとフタバはそんな現状に満足していたのだろうか。答えは否である。満足しているどころか、むしろ胸中にあるのは虚しさであり、その率直な胸中を「Winning Day」で歌い上げている。そう、勝利の果てで手にしたのは言葉では形容しがたい「空虚さ」だったのだ。

 そんな2人の心の扉をこじ開けたのがほかでもない、777☆SISTERSの面々である。KARAKURIと777☆SISTERS、両者のファンが激しく対立するなか、ハルたちは自らの立場を投げうってヒトハとフタバと向き合う。敵対する間柄ではなく友だちとして、これからもつながり続けるために。

 こうした働きかけにより、ヒトハとフタバの価値観そして存在意義は変容していく。それは、勝負に勝つためではなく、ファンに思いを届ける、ファンを勇気づけるために歌を歌うという音楽の本質に近づく営為であり、その結果がヒトハ、フタバのソロパフォーマンスとして昇華する。

 かくして、ヒトハとフタバは空虚な日々を脱却し、新たな日常を歩み始めたのである。

いま「EPISODE.KARAKURI」を読み進める意味

 EPISODE.KARAKURIが示唆しているのは、過熱するエンタメシーンではアイドルやアーティストそのものが商品化し、苛烈な競争に勝ち続けなければ業界から退出せざるを得ないという摂理である。いうなればゼロサム的な市場競争の功罪。それは、Tokyo-7thシスターズという作品を通して繰り返し描かれているテーマであり、EPISODE2053でもこの様子がありありと描かれている。

 2053年のTokyo-7thは、KARAKURIや777☆SISTERSが活躍していた時代とは比べ物にならないほど、エンタメ市場が成熟している。日々新しいアイドルが生まれては消えていくレッドオーシャンで、「切磋琢磨」という言葉ではカバーしきれないほど苛烈な競争が繰り広げられているのだ。

 事実、「Tokyo-Twinkleフェス」や「Misonoo/future*2 Live」など、世間ではさまざまなアイドルフェスが催されており、いずれもファンによる投票で勝敗が決まる。勝者にはますます活躍の場が用意され、敗者はアイドルを続けるか否かの瀬戸際に追い込まれてしまう。AsterlineもRoots.もRiPoPもOFF Whiteも、そんな競争社会の渦中に身を置いているのだ。

 こうなると、音楽はますます競争に勝つための手段と化してしまう。このような状況のなかで、誰かを勇気づける、思いを届けるという音楽の本質を取り戻すにはどうすればいいのか。

 この問いに答えるヒントが、EPISODE.KARAKURIでは凝縮されている。それは、これまで再三述べてきたような「音楽の本質」を訴え続けることであり、競争による優劣とは異なる価値観を醸成することであり、777☆SISTERSとKARAKURI、あるいは4UとKARAKURIといったように、ユニットの垣根を超えた関係性を構築すること――である。

 そういう意味では、EPISODE 2053 SEASON2-004「その手を取って、星に掲げて」で描かれたマイとアリナ・ライストの関係性、そして勝負に敗れたにもかかわらず、「今、私ね――いっちばん楽しくアイドルやってるから!」というアリナの言葉には、競争社会に身を置きつつも、誰かを勇気づける、思いを届けるための音楽を実践できるという可能性が織り込まれているように感じる。

 これを踏まえたうえで楽しみなのが、Roots.とAsterlineの邂逅だ。現在、Asterlineを軸とした「EPISODE2053」とRoots.を軸とした「EPISODE2053 Roots.」が順次更新されている。特に、EPISODE2053 Roots.で描かれているのはRoots.としてデビューするためのオーディションの模様であり、厳密に言うとRoots.はまだ結成されていない。

 オーディションという過酷な状況にいる以上、Roots.にとって音楽は生き残るための手段としての意味合いが大きい。実際にEPISODE2053 Roots.で描かれているのは、パフォーマンスの巧拙がそのまま勝者と敗者を分かつ基準になるという峻厳な事実である。そういう意味でも、現在のRoots.はかつてのKARAKURIと似た境遇にあると言っても過言ではないだろう。

 ヒトハとフタバが777☆SISTERSの働きかけによって音楽の本質を自覚したように、Roots.もAsterlineと対峙することで音楽観に影響を及ぼすのか。はたまた別の展開が待ち受けているのか。今後のEPISODE2053およびEPISODE2053 Roots.は、この点に注目したい。

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