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「言語が消滅する前に」を読んだ

國分功一郎さんと千葉雅也さんの共著「言語が消滅する前に」を読んで考えたことを、脳内関西人・林氏(仮名)と富田氏(仮名)の会話形式でお届けします。


「サレ妻」とタイガー•ウッズ

 英語で受動態って習ったやん?受け身形。それに対する普通のが「能動態」で。ほんで、それって英語に限った話やなくて、日本語でも「する」「される」は普通に使ってるやん?

富田 日本語の受動態は取り立てて習った記憶はないけど、まぁ普通に使うな。

林 最近読んだ「言語が消滅する前に」っていう本によると、行動を能動態と受動態のどっちかに分類するっていうのは、世界の切り取り方のひとつに過ぎへんらしい。ほんでな、おもろいことに、昔の言語はそういう分類やなかってんて。

富田 「する」「される」以外の分け方って何やろ?思いつかへんわ。そういえば、「される」で思い出したけど、最近は旦那に不倫された女の人を「サレ妻」とか言うらしいな。

 不倫した方の旦那の方は「スル夫」って言うらしいけど、問題の深刻さをオブラートに包んでるみたいであんま好きやないな。不倫に関しては一般的に「する」側が悪いとされてるけど、何年か前のタイガー・ウッズの件はどう思う?性依存症っていう病気やったらしいけど。

富田 そんな病気もあんねんなぁ、って思ったけど、まぁ病気やったらしゃあないんかなぁ。

 能動態か受動態かで世界を切り取る考え方やと、タイガー・ウッズは不倫を「された」側ではない以上、「した」側に分類されることになる。せやけど、本人の意思ではどうすることもでけへんかった訳やん?アルコール依存性とか薬物中毒もそうやけど。

富田 ちゃんとカウンセリングとか治療とかを受けな、意思の力ではどうしようもないらしいな。本人の意思が弱いだけやって片付けられがちやけど。

「する/される」ではない世界線

 昔の言語にはな、「やってしまっている」っていう状態を示す「中動態」っていう態があってんて。ほんで、能動態と対をなすのは受動態ではなくてこの中動態やったらしい。

富田 「やってしまってる」か。なるほどな、そう考えたら、意外と「やってしまってる」行動が殆どかも。スマホも「見る」というより、気づいたら「見てしまってる」って感じや。朝にベッドから「起き上がる」のは意識してやってるけど、「目が覚める」のは意識してへんし。夜は夜で、酔っ払って記憶が飛んでても「気づいたら家に帰ってた」っていうのもあるな。

 帰巣本能とか言うけど、ああいう時はマジで意識ないからな。そういう無意識の行動以外にも、能動と受動の分類に上手くあてはまらへんケースって結構有ると思う。たとえば、マスコミが政治家に忖度して、政治的に偏った報道するっていうのもある意味「中動態」かもしらん。

富田 日本人は空気に流されやすいから、流された結果の能動とも受動とも言えへん行動は多そうやな。「なんとなくやらざるを得なくなってる」って感じかな。そう考えたら、スル夫がジャイアンに強要される前に自らオモチャを差し出すのも、「能動態」というには違和感あるな。

 スネ夫な。そんなんで伏線回収せんでええねん。依存症の話に戻ると、やめられへんのは本人の意思の問題にされがちやけど、それは能動態と受動態の2つに分ける世界線から見てるからなんかもしらん。

富田 たかが文法、されど文法やな。人間、言葉で考えるから、文法の在り方が考え方に影響しててもおかしないな。

LINEスタンプと犬のシッポ

 哲学の世界では「人間は言葉によって規定されている存在である」っていう前提があったらしいねんけど、一方で、この本のタイトルにある通り、言語が消滅していってるらしい。

富田 言語が消滅するってどういうことやねん。

 たとえばLINEでスタンプ使うやん?ほんで、スタンプだけで話が完結してまうことない?

富田 あるある。今の文脈にぴったりのスタンプ探すのに時間掛かって、テキスト打った方が早いやん、って思ったり。

 あれって言語を使わへんコミュニケーションで、感情の伝達だけをやってるとも言える。犬が喜んで尻尾振ってんのと一緒や。スタンプだけで話が完結するっちゅうんは、尻尾フリフリで十分なコミュニケーションやったってことや。

富田 犬と一緒にすな、と言いたいとこやけど、確かに、Slackでは長文嫌われるし、パワポも文字多いのは見にくいしなぁ。ブログとかtwitterより、インスタとかTikTokっていうのも、そう考えると言語消滅の前兆かもしらん。人間の脳は言語を扱えへんほど退化してるんかも。知らんけど。

 直感的な分かりやすさっていうのが、政治レベルでも求められてきて、「自民党をぶっ壊す」とか「アメリカ•ファースト」とか、ワンフレーズを繰り返す人がリーダーとして持ち上げられたりする。

富田 難しい話は聞きたない、っていうとこは正直あるな。シンプルな言葉で言い切ってくれる政治家の方が頼り甲斐があるように見えてまう。

エビデンス教の罠

 せやけど、現実はそんな単純やないからな。シンプルにする過程で、大事なことがいっぱい切り捨てられてるような気がする。まぁ、これは政治だけの話やないけどな。今の社会全体が「エビデンス」として認められたパラメータだけで判断されて物事が進んで行ってる。人を説得する時に使われるのも、言葉やなくてエビデンスや。

富田 せやけど、エビデンスに基づいて議論するんは当たり前ちゃうん?

 言葉には解釈の余地とか曖昧さがある一方、数字に代表されるエビデンスは、一義的なもんでブレがない。一見、数字の方が確かやと思うけど、問題もあって、ひとつは数字っていうのは、複雑な現実のごく一部を一つの視点から切り取ったもんに過ぎへん。

富田 それで言うたら、宇都宮と浜松が争ってる餃子日本一も、カウントされるんはテイクアウトとかだけで、店で食べる餃子は対象外らしいで。今年はダークホースの宮崎が日本一やったらしいけど。

 まさに切り取られてるな。その数字上は、店で食べた餃子は無かったことになってる。「エビデンス=現実」とはちゃうのに、複雑怪奇な現実を見て見ぬふりしてる訳や。「エビデンス」とされてるものだけを信じとけばええって考えるのは、責任回避やで。エビデンスなしに信じるのは宗教やけど、エビデンスだけを信じるのもある意味、宗教や。

富田 単純化させやな受け止め切られへんからな。。。あ、それが責任回避か。たしかに、単純化されてるっていうことは認識しとかなあかんな。見て見ぬふりをしてるという自覚すらない状態はヤバい。

暗闇を必要とする心

 このエビデンス教のもう一つの問題は、人間の心はそんなに合理的やないのに、そにことを無視してることや。心っちゅうのは複雑で、どうしても理性で説明つかへん部分は残る。せやのにエビデンス主義の下では、全てをさらけ出せって言われる。就活で志望動機とか言わされたと思うけど、あれどう思う?

富田 それっぽいことを言いはしたけど、それが本心かと言われると微妙やな。嘘でもないねんけど、モヤモヤは残る。最近、面接する側に回ることもあるけど、応募してきた人が「働きたきくはないけど働かなしゃあないから」って本心をぶっちゃけへん程度の常識があるかを見てるだけやな。

 人間の心には、どうやってもエビデンスを用意しようのない部分、モヤモヤがあんねん。せやのに、今の世の中、あらゆることにエビデンスを要求される。好きなアーティストとか答えるだけで、直ぐ「なんで好きなん?」って聞かれるやん。

富田 好きなもんは好きでええやんな。

 「心の闇」っていうと悪い意味で使われるけど、必要なもんやねんて。アレントっていう哲学者も、「心の特性は暗闇を必要とし、公衆の光から保護されることを必要とする」って言うてるらしい。

富田 それはわからんでもないけど、「心の闇」ってネーミングが悪いな。「心の玉手箱」とかって言うたらええのに。

尋問する言語とエビデンス教の狭間で

 玉手箱か。キャラに似合わずええこと言うやん。ほんで、中動態の話に戻ると、この本では、能動態/受動態で切り分ける今の言語体系を「尋問する言語」って言うてはる。どんな行為についても「お前がしたのか、それともお前はさせられたのか」って

富田 尋問に加えてエビデンスまで求められたら、ギスギスしてしゃあないな。

 せや。この本でも、個人が自由意志に基づいて行動してるっていうのはフィクションやったはずやのに、それを忘れてんちゃうか?せやからエビデンス教の信者が増えてんちゃうか?って言うてはる。そう考えると、言葉の持つ解釈の幅を使って、グレーに物事を解決していく知恵が大事なんかもしらんな。受け流すというか。

富田 おれも知らん間にエビデンス教に入信してたけど、気ぃつけよ。

〈おしまい〉





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