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どうして専門家は役に立たないという言説がみられるのだろうか、というお話

※投げ銭ノートです。

※本記事は無料でも読めます。


 みなさんこんにちは。ぺーぱーどくたーのしみずです。今日はとてもよい天気なので、娘ちゃんとお散歩してきました。すてきな水掛け論のイラストは、いらすと屋さんのものです。
 今日は標記のお話を、発言する側と専門家側の両方の観点からしてみたいと思います。

 なおこの文章は、2020年のひな祭りに書き始めたものです。さまざまな出来事があり、上を下への大騒ぎ、の真っ只中です。


1.専門家がたいしたことない??

 そのような状況で、テレビ・新聞の電子版やTwitterをみていると、「専門家の言っていることは違うと思う」とか、「専門家はたいしたことない」とか、更には「どの専門家を信じればいいんだ」とか。

 そういうことは専門家の話を理解してから言うべきだし、専門家のピンキリが分からないなら黙っているべきだ、というのが私の立場。
 私自身が研究者であることもそのように考える理由なのは間違いないのだが、事が人の健康や生命に関わることならなおのこと。専門家を軽視するかのごとき言説は、本当にやめていただきたい。我が家にはNICU卒業生にして、昨年の十月末からは呼吸器系のトラブルで三度も入退院を繰り返した娘がいるのだ。医療体制の崩壊だけは、どうしても勘弁して欲しい。

※主語が大きくてごめんなさい。以下は一般的なお話となります。
※医療に限定したお話ではありません。


 専門家を軽視する傾向は、もちろん今に始まったことではない。

 私が少年だったころ、とある大人に「本当に頭のよい人ってえのは、難しいことでも、誰が聞いても分かるように説明できるもんだ(そうでないのはダメだ)」と言われたことを、「じゃああなたは頭がよくないのだね」という脊髄反射的に頭に浮かんだ感想と共によく覚えている。んなわけあるか。

 そりゃああれだ。枝葉をばっさばっさと剪定し、それどころか幹に近いところまでも削り込んで、何とかこの程度のことなら理解できるだろう、という状態にまでその事象をダウングレードしただけなんじゃ。

 教養が失われつつある現代においては、相手の程度に合わせて話をするにも限度があるんぞ。 



 話が高度で専門的になればなるほど、その分野の素養がないと話を理解できなくなる。よって、この場合

 自分はその話を聞いても分からなかった = こいつたいしたことない
                           もしくはダメ

とはならない。まずは己の蒙昧を羞ずるべし。


 また、敢えて単純化した分かりやすい説明をされた場合、

 自分でもそのくらいは分かる = こいつたいしたことない
                      もしくはダメ

とはならない。素人が考えつくようなことなのは、専門家側もわかっとる。


2.誰もそんなこと言うとりゃーせん

 そんならおかしいと思ったことに対しておかしいと言ったらいかんのか、というと、それはそうではない(自分は無知であるということを前提とせねばならないが)。
 話のつじつまがあわん、論理的におかしい、など場合に、己の知識のなさを踏まえた上で失礼にならないようにどうぞ。もし何か訴えたいことがあるとか、世の中を動かしたいとか、そういうのも当然否定しない。ただし、無知はダメだ。専門的な知識を身につけることをなぜ厭うのか、それがわからん。素人の行動が世の中を動かすこともある?そりゃそうだ。だって相手も素人だ。
 決して、自分の知識や知性の不足に起因する疑問・疑念と、話の筋道がおかしいことに起因するそれをごっちゃにしない。だめ、ぜったい。


 例えば、私が院生の頃のお話(フェイク有)。

 ある日研究室の電話をとったところ、電話相手に「アレクサンダー大王が日本にやってきた証拠をみつけたので、それを学会に発表したい」といわれたことがあった。

 ううーん どうしよう

 どのような史料に基づいてその説を立証されたのですか。史料は特にないと。はぁ。では、何とも言いようがありません。ところで本学には、〇〇史研究室や△△史研究室も置かれておりま……もう電話した。たらい回しにするなと。はい、ええ。でしたら、論文をお書きになってですね、学術雑誌××にご投稿ください。えと、年会費は□□円になります。……はい、はい、書いたらまた。はい、では。


 その後、原稿が送られてくることはもちろんなかった。

 私にとって、専門家を軽視する人々の行いは、この実体験(あらまし)と通底する。
 私は、アレキサンダー大王の専門家でもなければ、日本の歴史の専門家でもない。つまり、素人だ。だったら、アレキサンダー大王が本当に日本までやってきたのか否か、そうなんだと信じることもできなければ、そんなわけねえと無碍にすること……は可能だが誠実な態度をとるならば、選択できる反応はひとつしかない。史料を出せ、史料を。



 しかしだ、資料を実際ひっぱりだしてきたところでね、素人が聞きかじりの知識だけでだ、専門性の高い分野のお話について、論拠にまで踏み込んで正誤を判定できるのだろうか。

 例えばだけど。

 野球について、落合博満の見立てとそのへんのグランドにいるおっちゃんの見立て、どっちが正確なのか。

 将棋について、羽生善治の見立てと下手の横好きの見立て、どっちが正確なのか。

 芸術について、岡本太郎の見立てと私の見立て、どっちが正確なのか。

 まぐれ当たりすることはもしかしたら万が一の確率であるかもしれないけど、どの事例も前者。圧倒的に前者。


 じゃあそれが、政治だったら?経済だったら?医療だったら?
 どんな分野だって、論拠となるものから正解を導き出すには一定のトレーニング、つまり勉強が必要になる。勉強してみないことには、何が正解なのかわからないのだ。甚だしい場合には、相手が何を言っているのかすらわからないこともある。
 そういったことがわからないのに、専門家に噛みついてどうしようというのか。「誰もそんなこと言っとりゃせんし、問題にしとりゃーせん」と呆れられるのがおちだ。


3.専門家も専門家で、自分の専門以外のことにコメントしなきゃいいのに

 素人が専門的なことを判定するのは、ものすごく難しい。そのことは何かの専門家であれば、まず理解しているはず。
 ただもしかしたら、それを自分に当てはめて考えを巡らしていない場合があるのかもしれない。専門家はあくまでも自己の専門とする分野の専門家なのであって、他分野の素人だということをぽかーんと忘れていることもあるだろう。かもしれない。

 私は中国の歴史のうち、時代は宋代それも南宋を中心として、その制度史を勉強している(おこがましくて、研究とは称しがたい)。
 南宋という時代、あるいは制度史という分野は、それ単独で存立できるわけではない。そのため、隣接した研究分野についての勉強もする。時代設定であれば、北宋とか元とか。分野であれば政治史とか思想史とか。
 だから私は本来、北宋の政治制度や元の政治制度についても、ちょっとくらいは意見を言えなければならない(困難だが)。そして、南宋の政治史や思想史についても、なんとかかんとか新知見を提示しなければならない(無謀だが)。でも、清代の文学について専門家として何か言えとか、そういうの、私には絶対無理。イギリスのEU離脱問題とか、もう尻尾巻いて逃げるしかない。

 このように、自分のテリトリーから外れた事柄に関しては、回りくどいほど慎重になるのが、研究者であったり専門家であったりするわけだ。そこには、他分野の専門家に対する尊敬や遠慮が含まれている。また、専門性を有することの難しさを知悉しているからこそ、予防線をこれでもかと張りたがるのである。

 ならば例えば、

 橋梁工事の専門家が、専門家的精神を維持したまま少子化問題について言及したり。

 法律の専門家が、専門家的精神を維持したまま地球外生物の存在について言及したり。

 金融の専門家が、専門家的精神を維持したまま医療の問題に言及したり。

 これらが、どれほど無茶なことであるかおわかりになるだろうか(両方を専門とするなら話は別)。 

 そりゃ専門家が専門分野の事に加えて専門外の問題にまで専門家の顔で論及したら、信頼性を問われてもある程度は仕方ない。先述したように、専門外のことについては、それが正解なのか否かは、勉強してみないとわからないのだ。無論、自分が専門家になるために必要だったレベルの勉強を。


4.それの何が嫌なのだろうか

 専門外のことについては、マスコミの記事を引用して「ほんとありえない!」的なコメントをしつつ、自分の専門分野に関わることについて同じ事をされると、「どういうことでしょうか。根拠をお示しください」と。
 で、前者についてなぜありえないと思うのか根拠を問われると、根拠を示さずに、どうして自分の自由な発言が阻害されなければならないのだ、とおっしゃる(この場合の根拠とは、専門的水準と大差ないレベルのものを想定)。


 そりゃあ、専門家的精神を持ったまま専門外の事柄について発言して、しっぺ返し食らったら腹立つよね。でも、専門分野以外のことについては素人でしょ。だったら、専門外のことについてはすっと撤退すりゃいいのに。なんで粘るかな。専門分野で素晴らしい業績を挙げていれば、もう尚更。それの何がいやなのだろうか。

  このような現象は、専門家の「大衆」化だというより他ない(「大衆」については、神吉敬三訳・オルテガ『大衆の反逆』〈ちくま学芸文庫、1995年〉)。

 専門家軽視はなくすべき。こういった、専門家のダブルスタンダードもまた同時になくすべき(どうやら何が嫌って私はこれが嫌なようだ)。
 専門分野に関する発言や述懐と、専門外のそれを、判別して反応してくれる人ばかりではない。残念ながら。


5.まとめ

■専門外のことについては、口をはさむべきか否か、慎重になろう。

 その専門家がだめなのか、それとも自分がだめなのか。

■専門家に対する批判は専門家に任せよう。

 「専門バカ」という言葉がある(「バカ専門」というのも聞いたことがある)。それを無邪気に信じている人、いますぐ考えを改めましょう。

 「大局的に物事を判断うんぬんかんぬん」というのも見聞きする。そりゃそういうこともあるだろう。大局的ということは、自ずと専門性からは遠ざかるものだと思いませんか。

■専門家軽視問題は結構根深い。

 ものさしみじかいの、いやん。
 だぶすた、も、いやん。




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