歌って演じる書き手
推敲せずに、ただただ文章を連ねると、nanaという音楽アプリの事ばかり書いてしまう。今、いちばん夢中になっているのが、nanaだから。
だって、まさか、芝居への情熱が、音楽アプリで再燃するとは思わなかったもの。最初は、歌ったり、歌を作ってみたりするだけのつもりだったのに。
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以前にも書いた事があるけれど、演劇に挫折経験がある。
二十代半ばで舞台に立つのを辞めたのは、幾つか理由がある。仕事が忙しくなった、というのは、とても大きい。
でも、自分の能力の無さが辛くなって、逃げだしたのだという事も、正直に認めなくてはいけないだろう。
身体能力の無さ。コミュニケーション能力の不足。滑舌の悪さ。前方に届かず宙に拡散するタイプの声。どれを取っても、舞台役者には向いていない。
演出の要求に応えようと必死になる。共演者のアドバイスを体現しようと必死になる。必死になればなるほど、どうしていいのか分からない。稽古に行くのが辛くてたまらなくなった。
美容師さんに円形脱毛症を指摘され、舞台を降りる決意をした。
引き留めてくれた人は居た。この人と芝居をしたい、と、憧れたその本人から、手紙を頂いて、泣いた。それなのに、それでも、続ける事が出来なかった。仕事を理由にして、逃げ出した。
逃げだという自覚はあった。引き留めてくれた人に、顔向けできないとも思った。
だから、舞台にはもう二度と戻らないと決めた。その決断に後悔は無い。
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いや、本当の話ですよ。本当に後悔は無いのです。
あの頃の倍くらい年齢を重ねた今は、逃げ、というのもひとつの選択だと思っている。
今、舞台に復帰したい、という気持ちは、本当に無いのだ。仕事帰りに稽古場に行って、仲間と真剣にぶつかり合って、夜遅くに帰宅して……という毎日を、もう、送りたいとは思わない。
懐かしいな、とは思う。楽しかったな、とも思う。人生の一時期を、演劇で燃やし尽くす事が出来て、幸せだったな、と、感謝の気持ちも持っている。
けれど、それだけ。
今は、演劇に費やす時間があるのなら、それよりも書きたいし、歌いたい。そして、演じたい。
そう、演じたい。舞台に立ちたいのではない。ただ、演じたい。
それが、nanaだと叶うのだ。書いて、歌って、演じる事が。
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nanaには、様々な音楽が溢れている。
それと同時に、nanaには様々な、小さな芝居が溢れている。「声劇」と呼ばれる、90秒の朗読劇。
ふとした拍子に、あ、これを演じたい、と思う脚本を見つけた。それは、久しぶりの感覚だった。
二十年以上のブランクは、やはり大きなものがある。何度練習しても、滑舌には苦しめられる。でも、何度も練習して、工夫するのが楽しい。
録音して、自分の声を聴き返せる、というのも大きい。演じている時に客観的になるのは難しいけれど、聴き返すと、課題は一目瞭然だ(一耳瞭然って言う方がいいのかな、そんな言葉は無いけど)。自らが演出になれる。
身体能力が無くても、90秒の朗読劇には関係がない。舞台だと拡散する声も、スマホのマイクには載せる事が出来る。
課題は残るけれど、今のベストかな、と思えるテイクを投稿したら、脚本を書いたご本人から、コメントを頂いてしまった。
こうなると、やめられない。
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歌は歌で、随分熱くなっている。
noteに載せた詩に、メロディをつけて、鼻歌で歌った歌を、歌ってくれる人が現れて、調子に乗った。
他の人のオリジナル曲に、歌詞をつけて歌ったら、反応があった。
こちらはこちらで、やめられない。
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歌う事の喜び、歌を作る事の喜び、演じる事の喜び、芝居を作る事の喜び。
そして、書く事の喜び。
全て叶う、魔法の様なツールがあるとは、去年の今頃は思わなかったし、自分が、こんなに夢中になれるものに出会えることも、想像できなかった。
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どうせやるなら、真剣にやろうと思う。書くのも、歌うのも、演じるのも。
鼻歌のオリジナル曲も、90秒の小さな芝居の脚本も、自分なりに、魂を込めて、精一杯書いてみたい。
歌うのも、演じるのも、沢山練習して、少しでも上手になろう。
真剣に向かい合う事で、少しでも、喜んでくれる人たちが居るのなら。
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ひとりカラオケ好きの事務員が、いい歳をして、何を熱くなっているのだろうと、不思議がる人も居るかもしれない。
でも、自分の事は、自分で定義すればいい。
「歌って演じる書き手」
これが、私が定義する、今の私。すこし気恥ずかしいけれど、開き直って堂々としてみよう。
だって、人生は一度きり。
やりたい事は、全部やってみなくちゃ。
お目に掛かれて嬉しいです。またご縁がありますように。