花火の夜に
父の通夜は、旧暦の七夕祭りの日だった。
当日、道端に笹飾りを見掛けるまで、その事に気付いておらず、気付いた時には、ぼんやりと驚いた。そうか。お父さんが亡くなっても、お祭りはあるんだね。当たり前だけど。
命日が、前夜祭の花火の日と気付いたのも、その時だったろうか。それとも、もう少し後になってからだったろうか。
七夕の花火を、父と一緒に観に行ったのは、私が就職した年の夏だった。三十年くらい前の事だ。
正直に言って、二十代初めの私は、七夕祭りにも花火にも、あまり興味が無かった。五十代の父と一緒に歩くのも、少し気恥ずかしく、気詰まりだった。
それでも誘いに乗ったのは、父と祖父とのエピソードを思い出したからだ。
父が就職した時、祖父は父を、ちょっと良いお店に連れて行ったそうだ。お酒を全く飲めない父だけど、厳格だった祖父からの誘いが、嬉しかったらしい。
本当は父も、息子に同じ事をしたかったのだろう。三人の子ども達は、みんな娘だったので、叶わなかったけれど。
仕方ない、付き合っておくか、と、少々気詰まりな気持ちで眺めたのに、花火は、迫力があって、美しかった。
父は「街のサンドイッチマン」という歌が好きで、カラオケで良く歌っていた。昭和二十年代、父が子どもの頃に流行った歌らしい。
若い頃の私は、古い歌が好きだなあ、と、どこか醒めた気持ちで、父の歌を聴いていた様に思う。
特に二番の「泣いちゃいけない 男だよ」という歌詞を聴くと、反発したくなったものだ。男だろうが、女だろうが、泣きたい時は泣いたっていいじゃないか。
だけど、そんな突っ込みを入れながらも、年齢を重ねた私は、この歌にそっと励まされたりもする。
悲しみに飲み込まれない様に、笑顔でいようとする主人公の姿は、父の面影に重なる気がするのだ。
終戦後まもなくの、引越しのエピソードは、父から何度か聞いた話のひとつだ。当時、父は四歳か五歳くらいだったという。
雨が降る中、祖母は、生まれたばかりの叔母を抱き、幼い父を連れて、新居まで歩いて行ったそうだ。
傘が一本しかなく、祖母は乳飲み子の叔母に差し掛けるだけで、精一杯だったらしい。
父は、頭に手拭いを被せてもらい「男の子だから、大丈夫だね」と、声を掛けられて、雨に濡れながら歩いたという。
令和の今になると「男だから」という言葉は、ナンセンスに響くけれど、明治生まれの祖父や、大正生まれの祖母にとっては、当たり前の感覚だったのだろう。
いつも父はその話を、どこか得意気に披露していた。私は「おばあちゃんは、大変だったねえ」と言うのが常だった。
今は、思い出す度に、雨の中を一心に歩く、幼い父の姿が見えるようで、切なくなる。
晩年の父は、主治医に「生きているのが不思議だ」と言われながら、限界まで自宅で暮らしていた。母や同居の妹に我儘を言いながら、父らしく。
最後の入院となった時も、家族が見舞いに行く度に、元気そうな顔を見せようと頑張っていた。次第に、本当は呼吸をするのも必死なのを、隠せなくなっていったけれど。
亡くなる当日の朝まで意識があり、母と妹に愛と感謝を述べて、そして旅立って行った。
今年も、父の命日には、花火が上がる。
来年も、再来年も、その先もずっと、七夕祭りが続く限りは、毎年、花火が上がるだろう。
涙を見せるのが嫌いで、華やかな事が好きだった父の命日には、花火が似合う気がする。
★父の事を書いたnote幾つか
お目に掛かれて嬉しいです。またご縁がありますように。