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【雑記】死ね!この世界のすべてよ

よくよく考えてみると、自分が【雑記】と称するもので、ある程度雑に書いたのは1記事しかなかった。もちろん「雑記」の「雑」という字はその意味ではないのだけれど、今回は雑に書くことを目標にする。


私はASD(自閉症スペクトラム障害)だ。
医師に診断書は書いてもらっていないが、DSMという発達障害の診断方法で、確定的な言い方をされた。そのことを、やんわりと、しかし固い調子で告げる医師のことは今でも覚えている。

とはいっても、ASDの症状というものはよくわからない。
当事者としてその症状の一覧を正式そうなネットの記事で見てみるが、どうも、何となく表現がそぐわない。
当然それが診断基準になる以上、普遍的で外面的(行動面的)なものを映した表現でなければいけない訳だが、そこから飛躍し、病理の判別が内面的で個別のもの(自分)に適用されるのは、身をもって体感すると気味が悪い。

過去の精神医学者であるブロイラーは、自閉という言葉を「内的生活の比較的あるいは絶対的優位を伴うところの現実離脱」と定義しているらしい。
要は、確信が客観的状況よりも優位なことによって起こる現実からの離脱である。
ははあ、としか言いようがない。「そうだけど」と言いたくなるが、堪える他ないんだろう。これは臨床的な表現であるから、人間なんてそんなものだろうと言ってはきっといけないのだ。

でも、堪えきれない。そもそもこの文章自体は他人の影響し得る場所ではないんだから、ある程度の表現の自由は保障されるはずだ。そもそも誰に文句を言っているわけでもないのだ。私は私の内的生活における確信が作り出したものに物申しているだけである。きっとブロイラーもそう首肯してくれるに違いないはずだ。

私の感じる怒りは、世界への怒りである。世界が病んでいれば、私は正常であったのにというやりきれなさである。
厭世する哲学者シオランは「病人の秘められた欲望は、誰もが病気になって欲しいということであり、瀕死の人のそれは、誰もが断末魔を迎えて欲しいということだ。」と言ったそうだが、ほとんどそういうことである。
世界は、病人を救い上げることを是とするが、「病人のレベルまで堕ちる」ことを是としない。私もこれ以上ほかの(便宜上こう呼称する)「病気」を抱えたくはないし、それは世界内の関係性の構造としてある、どうしようもなさである。

そうした感覚があるから、他人も不気味である。そういえば、ASD者は人の心が読めないなどと言った他人の言説は異常者のものだ。なぜなら、その健常者は人の心をその人の伝えたい通りに読めるらしいからである。
勿論、そんな訳はない。というわけで、病気というものは世界の構造上の欠陥だが、同時に「正しさ」を相対化する自浄作用のようなものも備わっているらしい。つまり、世界は自分のケツを自分で拭っているらしい。にしても、もっと他にやりようはなかったのか。

他人は、といえば、治療者はもっと不気味である。というのも、これも治療者というもの(観念)の欠陥でしかないのだが、治すことは、必然的にこちらへの働きかけがある。それは、私をその人の解釈の中で規定するという傲慢な試みである。とはいえ、それは結局己の幸福のためになるのだから、それが正しく機能するなら許容せざるを得ない。治療者がヘラリとした作法に則って、こちらに予言じみた説法をすることも、許容しなくてはならない。その予言に相乗って、こちらから相談をする屈辱も快感に変えなければならない。そうして、それが私にとって善い働きをするたびに、いつもこう思うのである。「世界さえ私を作らなければ、こんなことにはならなかったのに」

病人とは一体何であろうか。そもそも、病を作るのも世界、病を治すのも世界である。また奇妙なのは、他人からすれば私も他人であるということだ。
ということは、他人にとって私もまた世界であると思わなければならない。”それが一番機能する解釈である”。
この気持ち悪さ、この奥から込み上げてくるような、もぞもぞとした厭悪感。
そういうのも、他人からすれば、他人を規定していることになる。糞くらえ、世界である。
一体何が楽しくてこんな世界を作るのか。その責任逃れをするために、この世界で一番通用する解釈として、人間は無根拠に生まれてきたのだという理由がこの世界にはある。だから、この世界を作った何かがあるとも言えないし、それに反抗もできない。
それに対抗して他人に反抗すれば、また他人からしっぺ返しを食らう。すると私は病状が悪化したといわれるだろう。そこからもし寛解すれば、私も私のことを確かに病理的だったのだと認識するだろう。それが善き解釈だからである。

全く、たまったものではない。世界は私というものを制限するようにできている。一体何がそんなに脅威なのか?その問いは虚ろに響く。私から見た世界は無根拠で、何もないのだ。
最後に、この世界が私を含む誰かの手によって終焉を迎えることを切に願いながら、この記事を終わりたいと思う。
死ね!この世界のすべてよ。

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