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おとなへの一歩

最後に乳歯が抜けたのは一体何歳の時だっただろう。

調べると、奥歯にあたる臼歯の生え替わりが11歳前後とあるので、おそらく私も小学校の高学年の時に抜けたのが最後だろう。
つまり今から数えて四半世紀ほど昔のことだ。記憶も曖昧になるはずだけれど、一方で、乳歯が口の中でグラついている感覚だとか、舌や指で動かしているうちに根の方がミシッと音を立てた瞬間のことだとか、煎餅やら氷やら硬いものを口にして「早く抜けないかなあ」と心待ちにしていたことは、割と鮮明に思い出せる。

それに、最後に乳歯が抜けた日のことはあやふやだけれど、最初に永久歯が生えてきた時のことは、結構ちゃんと記憶にあるのだ。

あれは確か幼稚園の年長さんの年だった。
下の前歯の後ろに何か邪魔くさいものが当たる感覚があり、磨いても取れないので、私は母に訴えたのだ、「歯の後ろになんかある」と。
母は私の口を覗き込んで、すぐに歯医者を予約した。

本来乳歯を押し上げて出てくるはずの永久歯が、どうやら乳歯の後ろから生えてきているらしかった。
こうなると、自然と乳歯が抜けるのを待つわけにもいかないようだった。歯科医による抜歯が行われた。

5歳だか6歳だかの私には、それはもう恐ろしいことだった。麻酔の注射の激痛にショックを受けている間に、私の乳歯は先生によって抜き取られた。抜いた瞬間は、当然ながら痛みはなかった。「抜いた」という感覚がないのに一瞬のうちに歯がなくなったのはとても不思議だった。
帰宅して、すぐ上の兄に「くちびるが変なんだよ」と麻酔で感覚のないことを報告しに行ったことを、なんとなく覚えている。

あれから30年ほどの時を経て、あの時の私と同じくらいの年齢を迎えた我が子が、お風呂に入りながら唐突に、「こどもの【は】がぐらぐらーってして、おとなの【は】になるんだよ。こどもの【は】がねえ、いまぐらぐらしてるから、もうすぐおとなの【は】になるんだよ」と言った時、私はいつものおしゃべりと同じ調子で聞き流しながら「そうだねえ。それはともかく、お体洗ってね」と返事をしようとして、漫画みたいに「そうだ……エッ?」と振り向いてしまった。

今、うちの子なんて言った?歯が?グラグラしてる?「グラグラしたら」という仮定の話じゃなくて、「今グラグラしてる」って言ったの?

動揺して、ほとんどそのまま聞き返して、「ちょっ……とお口の中見せてくれる?」と尋ねると、5歳さんはお利口に口を開けて「これだよ」と指で示してくれた。おそるおそる指先で触れると、下の前歯が頼りなく微かにグラリと揺れた。
「わあ!本当にグラグラしてる!」と唖然としている私を見て、5歳さんはうふふ、と嬉しそうに笑った。

ねえ、5歳さん。
君はこの日のことを、20年、30年経っても覚えているのかな。
お母さんは多分、覚えているよ。

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