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「夢」の変遷。 〜兵どもが夢の跡〜



小さい頃の夢は、脚本家だった。


小学校の頃は自由帳を何冊も使ってキャラクターの漫画を作っていた。漫画クラブでみんなが原画の模写に取り組む中、一人だけオリジナルの世界のストーリーを書いていた。ちなみに絵心はなかった。

図画工作は嫌いだった。自分の頭の中に描いている理想に自分の力量がたどり着けないからだ。理由は今ならわかる。「絵の具」だ。カラーや水分の調節が本当に苦手だった。そのままもういいわってなって塗るから、下手な水彩画のようになる。要するに、何かを時間かけて丁寧に作業することが嫌いなのだ。これを巷では「ガサツ」という。


少し脱線してしまった。おそらく、ストーリーを書くのは好きだが絵を描くのは向いていないと早い段階で気づいたので、漫画家という選択肢はなかった。漫画家は本当に天才的職業だと思う。


中学生。ガラケーを持ち始めた。よくガラケーのメモ帳に、ストーリーのプロットや登場人物の設定を書いていた。今でも登場人物の名前を覚えているくらい愛着がある。本当は、この作品を世の中に出してドラマ化することができたら死んでもいい。実はまだ諦めていない。


高校生。脚本家になりたい夢は捨てていなかった。地元の私立芸大のオープンキャンパスへ行った。見学を終えた後に、同伴してくれた父から「芸大に行かず普通の大学に行って仕事をしてからなるという選択肢もある。道を狭めることはない」と言われた。3者面談でも担任に「読書をしていないのに脚本家になれるわけない」と笑われた。

ちなみに、この父の助言は私にとっては正解だった。私は自分の可能性を狭める生き方は向いていなかったからだ。また、担任の言葉も最もであり、活字から逃げている自分が話を書くなんてふざけていると反省した。ただ、大学受験へのモチベーションは低かった。夢を叶える方法がわからなくなったからだ。受験勉強は苦手だった。数学も物理も勉強しても全然できなかった。ただ、世界史だけは大好きだった。やはり私は物語が好きなのだ。世界史だけが受験勉強の癒しだった。かろうじて現役で大学に入った。

大学生。目の前のやりたいことをただやっていた。気づいてみると大学3年生。就職活動前にやり残しがないよう短期で留学に飛んだこともあった。

就活生。脚本家になりたかったから、どうしてもTV局のドラマ制作に携わりたかった。壁は高く、手も足も出なかった。ただ、脚本じゃなくても自分の作ったものが世の中に出ることにやりがいがあると、大学生活から学んだ。OB訪問の最中、とある方から「広告業界あってるかもね」と言われて、広告業界を目指すことにした。3年の2月だった。正直インターンも行っていないし、東京でしか面接がやっていないので自腹で東京と京都を往復していた。安いホテルや就活シェアハウスも活用した。必死だった。


結局、なんとか業界に入ることはできた。決まったのは7月だった。内定がない時期も周りより長かったと思う。本当に精神的に辛かった。

社会人。短いようで長い一年が経過した。本当にコロナに振り回された一年だった。広告の仕事はしていないが、デジタルマーケティングには携わっている。また、分析、提案、コピーなど思いもよらぬ武器ができた。自分にしては成長した一年だったと思う。


今の私の夢。やりたいことは沢山ある。提案をできるようにもっとコンペに出したい。分析というスキルも身につけたい。コピーの公募にもどんどん挑戦していきたい。デザインも勉強して広告の公募に出せるようにしたい。


今の私の夢は、クリエイティブディレクターである。誰かの背中を後押ししたり、広告で嫌な思いをする人をなくすこと。そして、世界中を旅しながら働きたい。脚本家は大切にしまっておいて、開ける時に開けるようにしたい。まずは目の前の夢を叶えたい。そう思っている。


3年後の夢。5年後の夢。10年後の夢。死ぬまでの夢。

いろんな夢が湧いてきて、やりたいことに挑戦し続けている自分はとても生き生きしている。


少しずつ、叶えられるように。夢をかなえていけますように。

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