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割れた花瓶が咲かせた花


ここ数ヶ月ほど毎朝の習慣にメディテーションを取り入れている。
朝起きて、まだぼうっとしている頭で10分程度の軽い瞑想を行う。
自分の呼吸を意識するだけの時間なのに、不思議と終わる頃には心が晴れやかになる。

瞑想アプリを使ってガイド付きメディテーションを行う日もあれば、タイマーをセットしてその間ただただ呼吸に集中するだけの日もある。
今日は瞑想アプリを使ってのセッションだった。

このアプリの楽しいところは、セッションの後に毎回異なるQuote(名言)を表示してくれるところ。

今日のQuoteは、

“There is a crack in everything, that’s how the light gets in” – Leonard Cohen

「すべてのものに割れ目はある。光はそこから差し込むものだから」
- レナード・コーエン


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なんかいいな、と思い家族にシェアしたところ、このQuoteを受けて母がこんな話をしてくれた。

「こんな話を聞いたことがある。あるところに割れた花瓶を持った男が歩いていて、その男が持った花瓶からは次々と水がしたたり落ちてくる。男はそれを見て、もう使い物にならない花瓶を捨てようと考えていたのだそう。
でも、ふと何気なく男が今歩いてきた道を振り返ると、そこにはいくつもの芽が出ていて、遠くの方では花が咲いていたんだって」


続いて、母は静かにこう付け加えた。


「ある一点から見れば使い物にならない花瓶でも、知らないうちに花を咲かせていた。
人間もある一点だけを見て自分を判断しなくていい。いろんな視点から自分を見つめてみると、そこには自分にしか出来ないことがあるのかも知れない」



…確かに。


私の母は、幼い頃から何かと日常の事象に例えた名言を頻発する

「名言母」。


庭に植わっているツル科の植物やさつまいも、延いては豚の角煮など、母の語録の対象となるものにリミットはない。
それも毎回「うーん」と考えて捻り出すようなものではなく、パッと目にしたものから次々と「思いつき」感覚でなかなかに深い名言が生み出されるのだから大したものだ。

幼い頃は「また出たか、母の〇〇語録」と右から左に流していたそれも、今となってはひとつひとつを書き留めておけばよかったと悔やむほどだ。


親の言うことというのは、それに共感できるようになった時初めて自分の心に響くものなのかも知れない。


一方で、そのときは何気なく耳にしていた言葉も
人生の節目やふとした瞬間に思い出したり、全く別の誰かの口から同じような言葉を聞いたときに、自分の中で改めて共鳴する感覚を抱くことがある。

ぼんやりと自分の中に散らばっていた言葉の破片が、第三者の口から発せられるそれによって蘇ったり、何らかの姿形を得て再び自分の中に返ってくる。


今までのゴーヤ語録や角煮語録だって、細かい語録のあれやこれやを覚えていないにせよ、母が言わんとしていた意図は曖昧な輪郭で私の中に残っていた。そしてそれらは、幾度となく機会を得ては私の中に還ってきた。


そんなことを思いながらも、
「今回からは母の語録を書き留めてみよう」
などと思い立ち、せっかくなので初回の記念にこちらにも書き残しておくことにした。

曖昧な形で引き出しにしまったそれを、ふとした瞬間に引っ張り出して共鳴するのも悪くない。でもなんとなく、自分が大人になった今、母の言葉たちをそのまま記録してみたい、忘れたくないと思う自分もいた。


今後も続々と生み出されるであろう母の名言。
中にはその時に真っ直ぐ、私の心に届かないものもあるかも知れない。

それでもいつか、未来の私が共鳴できる日が来たときのために、少しずつ書き残していこう。



Peace!





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