おいでませ陰謀論ワールド
じめじめした、初夏の日だった。乗ったタクシーの運転手さんが、そこそこの濃度の陰謀論者だったのは。
新居に引っ越してまもなくの頃。15時ごろにふと思い立って、普段はあまり行かないナゴヤドーム方面に買い物へ行き、日用品やインテリアをあれこれと買い込んでしまった。しかも、曜日の概念が消し飛んでいるフリーランスであるのに、わざわざ土曜日に。おまけに、どう頑張っても畳めない、大きなカゴなんか買ったりして。
帰路につこうとして最寄駅に近づくと、異変に気づいた。パステルカラーかニュアンスカラーがドレスコードかとおぼしき女子が居る。おびただしいほど居る。到着する電車にも同様の女子、女子、女子!
どうしたことかと調べてみたら、その日はナゴヤドームで有名なアイドルグループのライブがあったようだ。おそらくあと数時間は、この調子だろう。
さて、どうしたものか。電車から下りてくる女子達の波がすごすぎて、ホームには進めない。そしてどの電車にも、下りた人数と同じぐらいの女子がまた乗っていく。今日はかさばる買い物ばかりしたから、満員電車に乗ったら人権が消し飛びそう。乗りたい電車の本数が意外と少ない。自宅の方面に行くバスは数時間後にしか来ない。到底、歩いて帰れる距離ではない。おまけに雨まで降ってきた。
詰みである。
こんなときどうするか?そう、タクシーだ。ここから自宅までは30分以上かかるだろうが、そんなことは関係ない。私は自分の快適さになら出費を惜しまない女だ。
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だが、ここでも予想外の出来事が起こる。タクシーが捕まらないのだ。遠方からナゴヤドームに来ていた女子達や、その女子達に電車を占拠されて戸惑う人々がタクシーの争奪戦を起こしているようだった。
道行くタクシーに手を挙げてもスルーされる。複数のタクシーアプリを使っても「見つかりません」の表示が繰り返される。やっとの思いでタクシーを1台拾えた…と思ったら、「回送」の表示だ。
止まってくれたということはもしや、と目的地を告げてみるが、「そちらの方面は車庫と反対方面になるので行けないです」と、すげなく断られた。そりゃそうだ、私だって疲労困憊の帰り道、逆方向に行けと言われたら全力で断りたい。
致し方なく駅に戻るが、まだ女子の山は減っていない。がっくりと肩を落としながら、これまでに試した方法を一通り、再度試すことにした。己の問題解決能力の低さを痛感した瞬間だ。
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どうにも乗れそうにない電車を何本も見送り、増えないバスの本数を時刻表で再確認し、半ばどころか9.5割の諦めの気持ちで、タクシーアプリを立ち上げたところで、ようやく1台のタクシーを捕まえられた。この時点で、彷徨い始めて1時間ほど経過していた。
ジーザス!ジーザス!これほど、タクシーに乗るときに喜びと興奮、感動を覚えたことはないだろう。だが甘かった。本当の地獄は、これからだ。
走り出してまもなく、運転手さんが口を開いた。
「お客さん、ワクチン打ちました?」
ときはコロナ禍まっただ中。何回打った、どこのメーカーを打ったかなどは何かと話題に上りがちだった。「打ちましたよ、2回」と答えた。初対面の客に投げるにしちゃ、えらくセンシティブな話題を選ぶんだな、とは思いつつ。
だが、この答えが良くなかったようだ。
瞬発的に返ってきた言葉は――「ワクチンは危険ですよ!」そして、一方的な弾丸トークが開幕した。
「コロナってねえ、ただの風邪なんですよ!」「私の一家は誰もワクチン打ってないけど、誰もコロナにかかってないです」「ワクチンを売りたい会社が、コロナなんていう病気を作り上げてるんですよ」「だからマスクもねえ、したって意味ないと思うんですよねえ」
そう、目の前の彼は、野生の陰謀論者だったのである!
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私は接客業をしていた時期があり、「やべえ客」や「クレーマー」の相手も何度か経験がある。とりあえず相手の言い分を否定せず最後まで聞き、不快な思いをさせてすまないと謝罪し、今後の対策を検討します的なそれっぽい言葉で締める。それで、だいたい場を収められる。
だから私は別に、特大の陰謀論を垂れ流されようが、こちらの行動を否定されようが全く気にならない。――そう、それが元気なときであれば!
このタクシーに乗るまでの私を思い返していただきたい。無駄にでっかい買い物をして、ゆめかわガールズの山に圧倒され、1時間ほど駅付近を彷徨った。そして、自宅までは30分以上の道のり。運転手は、己が正と信じて止まない陰謀論おじさん。
元気などあるだろうか?いや、ない。出るはずもない。ここでもまた、詰んだ。
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その後どうなったかと言うと、たいそう滑らかに語り出される陰謀論を道中ずっと聞き流していた。と言うより、聞き流さないとやってられなかった。無駄に記憶力が良く、人と交わした会話の内容はだいたい覚えている自分がその内容をまったく覚えてないのだから、いかにサラサラと聞き流していたかは自明である。帰宅する頃にはぐったりしていた。
ぼやぼやした頭で、どうにか会話の内容を思い返す。
なんだか、果てしなく左寄りの話をたくさんされていた気がするなあ。『ムー』に載ってそうな怪しいネタ、好きだったんだけど生で聞くとキツいんやなあ。あそこで私が右寄りの人を装って「いや、悪いのは安〇さんではなく〇国人や朝〇新聞でしょう!」とか言ってたらどうなってたんかなあ。医療従事者です、と嘘でもついてみたらよかったんかなあ。
ともあれ、初対面でセンシティブな話題を振ってくる人にロクな人は居ないと再認識したひとときだった。そして、疲れ切った頭と身体で聞く陰謀論は、なかなかに堪えることもよく分かった。
タクシーという密室は、ときに無情の地獄へと姿を変える。野生の陰謀論者とのロングドライブには、ご用心。
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