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085:脳梗塞になってワシも考えた

 タイトルは椎名誠の「インドでワシも考えた」の丸パクりですが、さる2022年11月13日に脳梗塞を発症し約2週間の入院生活を余儀なくされました。

 今回は、私のような脳梗塞患者を一人でも増やさないようにすること、また仮に発症してしまったとしても可能な限り早いタイミングでお医者さんで診断して、その影響を最小限にとどめて頂くこと、いわば「しくじり先生」的な思いを込めて、発症からここまでの経緯について記しておきたいと思う。

思い返せば、6月頃からその「予兆」はあったような

 上述したように、9月頃からその「予兆」のようなものがあったように(思い返せば、の話ではあるけれど)思う。更に遡れば、6月以降その「悪魔のレール」が敷かれていたのだなあ、というように思う。

 これまで私の仕事を陰日向となって支えてくれていたアシスタントが5月末を以て退社、その後紆余曲折があったものの結果的に「これまでのルーティンの仕事」と「新しい挑戦分野に属する仕事」をワンオペでこなさなければならない環境となり、結果的に私の業務は過去に例のない尋常ではない「量」となってしまった。果たして今回の発病とその業務量の増加に直接的な関連性があるのかどうか?は定かではないけれど、6月以降は基本的に「まるまる一日オフの日」というものがゼロの状態が続いた。勿論お客様や業界関係者とのゴルフラウンドなど「仕事なのか遊びなのか」という線引きが明らかでない役得的な日も多くあったのだけれど、そんな日でも常に「データ処理」「ルーティンワーク」というものが見えない「圧」となって介在し続けていたことは紛れもない事実で、これも「今にして思えば」という話になってしまうが、そんな日々による影響が知らず知らずのうちに身体に忍び込んでいたんだなあ、と思う。改めて自分のSNS投稿を見てみると、当時の「余裕のなさ」が覗える。


 そんな日々を過ごす中で、体調に変化が表れ始めたのが9月頃。普段の生活をしている中で、胸が締め付けられるような今までに経験したことのない苦しさが突発的・散発的に起きるようになった。たいていの場合その症状は20分程度でおさまるのだけれど、上述の通りこれまでの人生で経験したことのない症状にさすがに焦りを感じてネット検索したことろ「狭心症」の症状とほぼ一致していた。10月中旬に三鷹の心臓クリニックに行き診断を受けたところ「症状を聞く限り狭心症の疑いがあるので、MRIを撮って詳しく調べましょう」との判断により、10月下旬に飯田橋にてMRIを撮影した。しかしながら、その後アメリカを含めた出張が続いていたこともあって、MRI診断の結果を聞きに行く日をしばらく先の「2022年11月14日の月曜日」に設定した。今にして思えば、果たしてその決断が正しかったのかどうかなのだけれど・・・。

出張先のアメリカで「あれ?左手が動かない」

 そんな状態の中、11月3日から10日のスケジュールでアメリカサンディエゴに出張したのだけれど、この時から既に症状が出ていたのでは?と(これも今にして思えば、の話だけれども)思う。自宅から電車を乗り継いで日暮里駅でスカイライナーに乗り換えるべく山手線を降りたのだけれど、京成線の改札口でPASMOをかざして抜けたにもかかわらず、成田空港駅の改札でPASMOを紛失していたのである。つまり「京成線の改札を抜けてスカイライナーに乗る」までのどこかのタイミングでPASMOを紛失していた、ということ。当時はそのこと自体に全く気付かなかった。その時のFacebook投稿がこちら。

謎のトラブル、ではなくこの時既に「リーチ」がかかっていたのか?

 行きの飛行機の中でもパソコンを開いてデータ処理を行っていたのだけれど、やたらとキーボードの打ち間違いや凡ミスが多かった。更には現地に着いて以降の日々も「頭の中に霧が掛ったような状態」だったように思う。自分の中では「時差ボケ」として片付けていたのだけど・・・・・・・。

 脳梗塞の症状が(くどいようだけれども、これも今になって思い返せば、の話だが)出始めたのは、帰国を明日に控えた11月8日あたりだったように思う。パソコンのキーボードを叩く左手の動きが明らかに鈍くなったのと同時に、左手が断続的に痺れるようになった。特にローマ字変換で多用する「A」「Z」「W」のキーボードや、ローマ字と英数字の変換を行う「半数/全角」キー(左手小指と薬指)を叩くことが困難な状態に。そのため文章執筆やデータ処理のスピードが健常時の1/3から1/5のスピードにまで低下、更には上述したような「頭に霧が掛ったような状態」なものだから、そもそもの判断力や発想力といったものも低下、生産性は通常の30%程度にまで低下していたのではないかと思う。

 さすがにこの時は「あれ、何かおかしいかも?」と自覚するようにはなっていて、帰りの飛行機の中では極力パソコンを開かないようにしていたのだけれど、それでも左手の痺れや稼動低下について「長旅の疲れ」「時差ボケの影響」「持病の頸椎の悪化」といったように「良い方に解釈」していたことを覚えている。こうした「自己判断力の低下」「客観的判断力の低下」ということもこの病気の恐ろしいところなのではないかと思う。

帰国翌日からの出張

 日本に帰ってきたのは11月10日の夕方。翌11日からは関西方面への出張が入っていたので、帰宅した荷物の整理もそこそこに関西出張の準備をしてその日は大人しく就寝した(と書いているが、実はその日の夜の記憶は曖昧)。

 翌日午前中に紛失した(警察に届けてくれた方がいた)PASMOを受け取りに飯田橋の警察署に立ち寄り、幾つかのリモート会議をこなした後羽田空港経由で伊丹に入り、宿泊地の神戸三宮へ(リモート会議では既に「あれ?なんだか口が上手く動かないな」という自覚症状が出始めていた)。

 翌日は兵庫県内のゴルフ場で仕事。ゴルフ未経験者や初心者を対象とした「ゴルフコース体験会」の運営業務だったのだけれど、この日は受講者に対する「ゴルフのエチケット・マナー講習」の講師を担当するという大事な任務があった。ところがこの時既に唇が上手く動かず呂律が回らなくなっている自覚症状が出始めていた。幸いなことにマスクをしていたため周囲には(恐らく)気付かれなかったと思うが、左下の口からヨダレが出てしまいなかなか自分では制御することもできなかった。が、何とかかんとか(ゴマカシゴマカシで)講師の仕事を終えてほっと一息。夕方までのゴルフ場での仕事を終え、その日の最終便で東京に戻り倒れ込むように自宅のベッドに潜り込んだ。

客観的判断が大事

 翌朝(11月13日)は日曜日だったこともあり、いつもよりゆっくりの起床。自分の中では昨晩より意識も左手左半身の感覚も良くなっているという自覚があったのだけれど、私の寝起き姿を一目見た妻から見た私の姿は明らかに「普通の状態」ではなかったらしい。何かを話しかけても回答のテンポが明らかに遅く、話し方や表情も明らかにおかしかったらしい。起きてすぐに朝食を摂ったのだけれど、左半分の口が思うように動かず口からポロポロと食べたものをこぼしてしまう始末。

「明らかにおかしいから、救急車呼んだ方がいいんじゃないの?」という妻の言葉を聞いて、ようやく自分が「あ、そんな(ヤバい)状態なんだ」ということに気付き「そうだね」ということで救急車を呼んでもらった。しかしながら、昨今のコロナ禍における医療従事者の大変さや忙しさに関するニュースやテレビなどを見ていたこともあって、「自分自身が救急車を呼んでそれに乗る」ということに対する遠慮というか、抵抗感のようなものがあったのがその時の正直な思いだった。少なくとも自分一人の判断では「救急車を呼ぶ」という選択肢はなかったのではないかと思う。結果的には妻の判断がファインプレーに繋がった訳だけれど、特に今回のような脳に関わる症状については「第三者の客観的且つ迅速な判断」というものが非常に重要であり、尚且つその後の人生を左右し兼ねない指標になること、自分の判断や思い込み(に陥ってしまうプロセスやロジック)の恐ろしさというものを身をもって体験した。仮にその判断が取り越し苦労だったとしても。

医師から大目玉を食らう

 自宅に救急車が来るまで、通報から10分もかからなかったのではないか。この期に及んでもまだ「そのまま入院する」ことを想定していなかった私は、取りあえず財布と名刺入れ、それに何故か「これだけは!」と思い携帯電話の充電用ケーブルをバッグに入れて、自分の足で救急車に乗り込んだ(ちなみに今回が人生初の救急車乗車)。

 救急車に乗って、先ず血圧と体温を測定。その後隊員から症状についてのヒアリングがあったが、すぐに「脳梗塞の疑い」にて受け入れ先となる病院への問い合わせをしてくれた。しかしながらこの日が日曜日であったこと、ここに来て新型コロナの感染者が再び増加傾向にあり病院のキャパ自体がいっぱいになりつつあったことで受け入れ先の確定は難航している様子だった。15分ほどしてようやく練馬区にある「練馬光が丘病院」が受け入れ先として決定。私の自宅からは距離にして10キロ少し、時間にして20分程度の場所にある、10月に新築移転したばかりの病院であった。


ここから搬送された(退院日撮影)

  病院に入ってすぐにCTとMRI撮影の準備に取り掛かる。着ていた服を全て脱がされ病衣に着替え、「暫くトイレにも行けないから」ということで紙オムツを着用させられる。それに対する屈辱感が残る程度には自分の意識がハッキリしていることを自覚しつつ、思いのほか紙オムツの履き心地が良いこともあって何となく一息ついた気持ちにw。その後非常にテキパキとした流れでCTとMRIの撮影が終了。点滴を打ちつつ救急病棟内でその結果を待つ。

 30分ほどして現れたのは、30代前半と思しき若い男性医師。開口一番「三石さん、MRIの結果脳梗塞でした」と告げられた。後で看護師の女性から「あの先生、真面目で根はいい人なんだけど口が悪い」と言われたように結構ずけずけと思ったことを口にするタイプの人のようで、

■ なんでもっと早く医者に行かなかったんだ。命と仕事どっちが大事なの?
■出張があったかどうか知らないけど、もっと早く来なきゃダメ
■あなたみたいに自分の体力を過信している人が一番タチが悪い
■そもそもその飲酒の量と生活環境が異常
■寝たきりになってもおかしくない状況だった  
■足に症状が出てないのは奇跡以外の何者でもない。だからといって調子に乗るな
■基本的に脳梗塞で「死んだ」脳の組織は元に戻りません
■この先、投薬とリハビリでどこまで回復するかを入院しながら見ていきますが、血液をサラサラにする薬は死ぬまで一生飲み続けることになります

といった主旨の言葉を次々と浴びせられた。これも後で聞いた話だが、私の妻も同様のトーンで同様のことを言われたらしい。その後、救急病棟から入院病とへと私の身柄は引継ぎされ、練馬光が丘病院東病棟7階の4人部屋へと入院することとなった。

出来立てホヤホヤの病院
最上階窓際のベッドだったので、環境はかなり良好

検査とリハビリの日々

 救急病棟の先生が言った通り、入院は基本的に「投薬」と「リハビリ」を行う日々だった。それに加え、上述したように狭心症の疑いで心臓の医者の診断を受けていたこともあって、前半は心臓の検査を並行して実施した。実は三鷹の心臓のお医者さんで心電図を取った際に「不整脈がある」とそこの先生から言われたのだけど、入院先の先生曰く不整脈にもいろいろと種類があって、その中の幾つかは脳梗塞の原因になるものもあるらしい(長嶋茂雄の脳梗塞の原因は不整脈にあったらしい)。またこれは自分がネットで調べたことなのだけれど、心臓に血栓ができてそれがそのまま脳に運ばれることによって脳梗塞になるケースもあるらしい。現時点で心臓検査の結果はまだ出ていないのだけれど、その診断結果によっては別途心臓系の治療や手術を行う可能性もあるらしい。「自分の身体は組織で連動して動いている」ということを図らずも実感した。

 入院翌日からリハビリが始まったが、基本的には「脳梗塞による身体への影響を現状把握しつつ、それによる障害を可能な限り元通りにする」ための作業が日々繰り返された、という表現になる。感心したのは、その「障害をもと通りにする」ための役割分担がキチンとなされていることだった。具体的には、

■理学療法士:身体全体の機能回復
■言語聴覚士:言語障害や記憶障害、空間認識力回復
■作業療法士:障害が出た部位(私の場合左手)の機能回復

という3人のリハビリ担当医が、それぞれの機能の原状回復に向けて適切なトレーニングとカリキュラムを実行してくれるのである。これには非常に感心したというか、システマチックに脳梗塞という病気への「対策の立案と実施」が確立されていることへの安心感があった。病室がパソコン持ち込み可能で普通に仕事ができたこともあるけれど、3人の先生が毎日リハビリをしてくれるので日中は結構普通に忙しく、「昼寝」をすることは殆どなかった。

 そんなリハビリの先生たちの献身的なサポートもあり、入院当初は殆ど動かすことができなかった左手も日を追うごとに動くようになり、一週間が経過する頃にはパソコンのブラインドタッチも発症前の80-90%くらいのところまで回復した。また麻痺で殆ど動かなかった左顔面も意識せずに動かせるところにまで回復、違和感のあった食事の際の咀嚼も気にならないレベルにまで回復した。また今回痛感したのは、脳梗塞という病気にかかった自分を必要以上に悲観しないこと、「必ず元に戻る」という強く前向きな意思を持ち続けることの重要さであったのだけれど、SNSに投稿してくれた皆さんのコメントや、過去に私と同じように脳梗塞に掛かった「脳梗塞パイセン」の皆様の「私もそうだったけれど今は回復した」「必ず回復するから頑張れ!」という自らの実体験に基づく言葉が、その気持ちを保つ上でどれだけ励みになったことか・・・・!この場をお借りして改めて厚く御礼申し上げます。

退院して

 約2週間の入院生活を終え、2022年11月25日(金)に無事退院の運びとなった。

記念撮影

 今回、脳梗塞という人の生死に直接的にかかわる病気になったことによって、この先の自分の人生観のようなものについて、これまでとは違う考え方を持つようになったような気がする。

「死」は思ったよりも身近にあること
 などと書くととてつもなくネガティブな気がするけれど、今回改めて感じたのは「"死ぬ機会”は思ったよりも自分の身近にある」ということ。ただ、それは決してネガティブな発想に立脚したメンタリティではなく「ああ、フルマラソンでサブ4達成しようが何しようが人間死ぬ時には死ぬもんで、長生きするための免罪符ってのは存在しないんだ」というようなことをフッと感じた。またそれに対する恐怖心のようなものは不思議と沸き起こってこなかった

「悔い改める」のか?
今回このような記事を書けるようなところまで回復したのは、お医者さんの言葉を借りれば「不幸中の幸い」「宝くじが当たったと思いなさい」というレベルのことらしい。換言するならば「神様から“生き直し”の機会を与えて頂いた」ようなものであると理解している。そのことにはものすごく感謝はしているのだけれど、だからと言って「これを機に、これまでの生活を悔い改めて健康で長生きする生活をしよう」とは思えないのが正直なところ。もちろん死に急ぐような自暴自棄な生き方をするつもりは毛頭ないのだけれど、もし「生き直し」の機会を本当に与えて頂いたのならば「やるべきこと、やりたいことを抑制して生き永らえる」よりも、「改めてやるべきこと、やりたいことを実現するために今まで以上に“一生懸命生きる”」方が「命の有効活用」というか「俺の人生の生産性向上」に繋がるんじゃないかなあ、と思っている。このあたりの心情を言語化するのはなかなか難しく、また思ったよりも後遺症が軽微で済んだから言えているという側面も多分に思うけれど、そんなことを入院以来ずっと考えている。

「脳梗塞キャリア」を増やさないために

 長々と脳梗塞の前兆的な話から発症、入院から退院までの日々を時系列で記したが、ここまで書いたのは「同じような人」をできるだけ身近に発生させたくないから。上述したように、この病気は「気付いた時にはすでに自分自身が正常な判断力を奪われている」ということが多く、それ故に「手遅れ」「あともう少し早ければ」という例も少なくないようだ。
 自分の実体験に基づく話なので果たしてどこまで整合性があるのかは正直なところ自信がないのだけれど、「こうしておけば」と思ったことを私なりに列挙しておく。

身近な人との「相互観察」を常態化しておく
今回遅まきながらではあるが脳梗塞が発覚したのは、妻から見た自分自身の「客観的観察」による異常が発覚したことにあったと言って良いと思う。日頃からお互いの身近なパートナーと「会話や反応に異常を感じたら脳の障害を疑うこと」「その場合躊躇せず救急車を呼ぶこと」など、「万が一の場合のルール」を明確化しておくことが、とてもとても重要であると感じた。

「おかしいな」と思ったらその情報を共有する
また今回の場合、自分自身が「正常な判断力を失った」ために諸々の対応が後手後手に回ったことが反省点として挙げられるが、もし以下のような症状が出た場合には、それを「自分の中で止めておく」のではなく、パートナーに「そうした症状が出ていること」を打ち明ける、伝えることも重要なのではないかと思った次第。「こんな程度で大袈裟な」「余計な心配を掛けたくない」という思いが先立つかとは思うけれど、その気遣いが後になって取り返しのつかない事態になることも今回身をもって体験したので。

■手足の痺れ
■口角が上がらない
■喋りづらい、舌の奥が「攣った」ように動かしづらい
■食べ物をこぼす
■手に取ったものを落としやすい(携帯など)
■パソコンのキーボードのミスタッチが増える。特定のキーが押しづらい
■歩いていて、なんでもない平坦な場所でつまずく
■壁や柱、他人と思いがけず身体がぶつかることが多い
■集中力が持続しない
■ちょっとしたことにイライラする
■頭の中が「霧が掛った」ように不明瞭である
■目の前がチカチカする
■胸や背中が不定期に苦しくなる、締め付けられるような感覚になる

 もちろん、以上のことに注意していれば100%大丈夫!という保証はどこにもなく、あくまでも自分自身の実体験に基づく「素人の意見」なので話半分程度で受け止めてくれればと思うけれど、この記事を読んでくれた人の予防や早期発見・治療回復に繋がってくれれば幸いである。




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