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槇村浩の話

槇村浩は、日本のプロレタリア詩人だ。
第二次世界大戦前の日本で反戦を訴え続け、それ故に投獄されて拷問を受けたのち、1938年に26歳の若さで無くなった。
わたしもまだ彼のことは勉強中で、多くは知らないが、一旦書いて整理するという意味でも、彼のことを今回すこし取上げたいと思う。

以下は、彼の書いた『間島パルチザンの歌』の冒頭だ。

思い出は、おれを故郷へ運ぶ
白頭の嶺を越え、落葉樹の林をこえ
蘆の根の黒く凍る沼のかなた
赤ちゃけた地肌に黒ずんだ小舎の続くところ
高麗雉子が谷に啼く咸鏡の村よ
雪解けの小径を踏んで
チゲを背負い、枯れ葉を集めに
姉と登った裏山の楢林よ

彼が描写したこの場所は日本ではない。朝鮮半島の情景を歌っている。
槇村は朝鮮へ渡ったことはないが、しかし、こんなにも、まるで見てきたように語る。これを読むと、まるでわたしも朝鮮で暮らしたことがあるかのように感じてしまう、文学的にみても素晴らしい詞だと思う。

槇村はこの詞を書き、朝鮮や上海へ出兵する人々に、戦う相手が違うのではないか、国の進んでいる方向は間違っていると訴えた。
ほとんどの人が知っていると思うが、当時反戦を訴えるということは、非国民であるとして世間から激しく非難されることだった。それでも彼は反戦を訴え続け、最終的には獄中で数々の拷問を受け、弱りきって最期は脳病院で亡くなる。

わたしは彼の、世間の大多数に迎合せず、自分が間違っていると思うことに対して、「間違っているから、やめよう」とそう言える、その意識と心の強さを本当に尊敬している。
日本人は強い対立回避気質を持ち、とりあえず周りに合わせる傾向がある。わたしもそうだ。和を以て貴しとなすというのを頭から否定するつもりは無いし、それで物事が円滑に良い方向に進むこともある。
でもそれは同時に、国家の持つ大きな権力が間違った方向へ進もうとした時に、それを止めることが出来なくなる恐れのあるとても危険な性質であるとも思う。

日本が戦争に踏み切ったあの時から、わたしたちは少しでも、間違っていると思ったことを間違っていると、言えるようになっているだろうかと考える。

それからもし日本が戦争をはじめた時、わたしは 「もう戦争始まっちゃって後戻り出来ないんだから、どうせなら勝ってくれ」 ではなくて、「いますぐ戦争をやめよう」と言えるのだろうか。そう言えるわたしでありたい。それはすごく勇気のいることだけど。

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