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友達の定義

今日一緒に過ごした楽しい体験は、明日以降これからもずっと続くことを誰も疑わない。ましてや、その楽しい体験は自分が認知できないレベルで意識下にあって、それは多くの人にとって意識されることは少ない
スミスです。

自己紹介の中学校パートと高校パートは一旦置いておいて"友達"について考えていたら公休日が終わりそうになったので、ちょっとまとめてみます。

「あなたの友達は何人いますか」

この問いに答えれる人は、友達について本当に真剣に考えたことがあるのではないかと思う。だからといって、この問いにたどり着いてないから友達を蔑ろにしているとは言わない。友達って一体なんなんだろう。

というのも、「トモダチゲーム」なるものを漫画で読んだときにこの問いに辿り着いた。正式には、こいつはなんで友達と呼べるんだと考えた経験もある。友達ってなんなんだろうか。普段、特に意識せずに同じ空間にいて、それでいて居心地も良くて敢えて考えることでもないのかもしれないけれどここで一旦考えてみたいと思った。

先日、サザエさん症候群(日曜日の夜にサザエさんが始まることを起点として仕事に行きたくなくなる病)に侵された友人と飲んでいた。そのとき、同じ問いを投げかけた。

「友達と友達じゃない人の境界線って何?」

「価値観とか考え方が共感する人じゃない?」

「じゃあ、価値観も考え方も共感できない人は友達ではないって言い切れるの?」

「それもちょっと違うかなあ。一緒に何か苦楽を経験して、共有した人には感情的に何かしらあるかも」

「なるほどね。でも、苦楽を経験してないけど地元の友達とかは友達じゃない?」

「あーわかる。地元は"何か"また別だな」

まとめるとこうだ。

①価値観や考え方への共感性に基づいたつながり
②体験からくる感情的な見えないつながり
③時間的つながり

①は至極わかりやすい。同じようなスキルバランスの人たちが集まる環境。大学などが当たる。偏差値管理された画一的な個人の集合体。会社も似ている。スキルは画一的ではないが、同じような志、それに伴う原体験を持っていて、それでいて見ている方向もある程度似ている。

②で言うと、例えば僕は小中高で野球をやっていたけれど、野球部のメンバーとかはこの中に当てはまる。別に同じようなことを考えているわけでもないし、スキル的にもバラバラながら、同じ目標に向かって苦楽を共にした経験がある。その体験の共有は、得てして、見えない絆みたいなものを少しずつ醸成していき、今も忘れられない経験として心に刻まれている。このストーリーの役者たちは、確実に自分の中に記憶として鮮明に残っていて、忘れることはできないし、頻繁に会っていなくても集まれば言葉にできない一体感がある。

③はコミュニティに関係なく同じクラスだった1年間を共にしたクラスメイト、クラスは違っても同じ校舎の中で育った仲間、幼少期から親の仲の良さが相まって、自然と一緒にいた仲間。

どれをとっても、間違いなく"友達"だと確実に言い切れると思う。

そんな中で、今、にわかに感じているのは、社会人になってから①の人たちの方がより強度を増しているということ。

中学校時代に読んだ恋愛コラムの中に、「物理的な距離と心理的な距離は比例関係にある」と書いてあった。これは、遠距離恋愛になってからも本当に自分は今の彼女を大事にできるのか、と思ったときにふと読んだコラムだけど、今になって確かにその説はあったなと思う。
実際に、高校時代に付き合ってた彼女のことは本当に好きだったけれど、大学で距離が離れてから心理的距離も疎遠になって別れてしまったなあとは思ったし、これは友達に関しても同じようなことが言える。地元の友達とはなかなか会わなくなったし、少しずつ、確かなスピードで距離は離れていっている気がする。

だからといって、地元の友達の中にも友達のままでいたい!と思える人たちに共通するのはおそらく①.②.③のうち、一つの条件だけでなく、①と②、①と③みたいに、3つの条件のうち2つ以上が必要十分条件になっているから、ではないかと考えた。
勿論、条件という言い方は冷たい気もするし、どちらかといえば要素に過ぎないと思うけれど、3つの要素(他にも要素はあると思う)のうち、2つ以上当てはまる人はやっぱりいつまで経っても"友達"だなと思う。

また、もう1つ感じているのは、①〜③のうちどれか1つの要素だけであってもそれが飛び抜けたものであれば"友達"ではないか、理論。

別に体験の共有がなくても、時間的繋がりがなくても、価値観や考え方への共感性が高ければ高いほど、友達に対するエンゲージメントは比例して高まる。

先日、北野唯我さんの「天才を殺す凡人」という本を読んだ。
端的にいうと、この本が言いたいのは「天才」「秀才」「凡人」の3つのカテゴリーに人は分類できて、それぞれに果たす役割が存在し、それを理解し各々を許容し、各々の期待役割を果たすことが社会をハッピーにする為の道筋だ、的なことだと僕は咀嚼した。
そして、面白いことに多くの人たちは「凡人」とカテゴライズされ、彼らは"共感性"で生きるという。
僕は、この本を読み終えたとき共感性の高い凡人はその共感性の輪を広げることで多様性を認めることができる社会になるのではないか、とめちゃくちゃ感じた。

タイトルを見る限り、

友達とはこういうものだ
みたいな、定義を残すのかと思ったかもしれないけど、僕がこのnoteで伝えたかったのは、友達というものを自分の中で理解した上で、今自分が友達と認知している人たちをもっと大事にしよう。ということ。何も考えずにお酒を飲みながら、なんとなく友達だと感じている相手と昔話にふけるのもいい。でも、その相手と自分の中にある本質的な繋がり、価値、そういうものを自分が心の底から理解できたときに、自分が関わっていく人たちは改めて認知できる、はたまた、この人ではないのかもしれない、となるのかもしれない。

「親友」とは、英語で「Best friend」と訳されがちだが、最上級のたった1人である必要もないと思う。現に、僕には親友と呼べる人たちがたくさんいる。なぜ親友と呼べるのかというと、やっぱり自分がその人との繋がりを自分できちんと認知していることが大きいと思うし、それを僕は相手に正直に伝えてしまうから、相手も本気で向き合ってくれるんじゃないかなと思っている。

この一連の問いは、僕が偉そうに友達について語っているではない。単に、改めて自分の友達について考えるきっかけになればいいなという話。

友達の定義は自分で考えないといけない。


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