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「テーマソング」①

ポルノグラフィティは2021年9月8日、デビュー曲「アポロ」リリースから22周年を迎えられました。おめでとうございます!

ここまで続けられたことに敬意を表したい。これまで300曲近くの楽曲を聴かせて下さり、ライヴでもテレビ出演、ラジオ、配信番組でも楽しませて頂いている。個人的には子育ての間中支えて頂いたと言っていい。なんかよぅ分からんけど親に付いていったらいきなりライヴを見せられたという娘も25歳になり、実はいいものを見せて貰って来た、ということに気がついてくれたらしい。本当にありがとうございます。

そして22周年の当日、新曲「テーマソング」を配信リリースした。最近はCD発売がある場合でも表題曲は一足先に配信を行い、配信サイトで楽曲購入、サブスクリプションで聴くことも出来る。ファンは違う形で曲を手に入れることが出来るし、下世話な言い方をすれば2回はお金を落とすことが出来るのだ。

前曲「VS」から2年のブランク、その間にプライベート面、ソロ活動での充電を経て、「新始動」との文言と一緒に一気にシングル発売、ハイブリットライヴ「REUNION」の映画館上映、そしてライヴツアーの告知をした。YouTubeでの「THE FIRST TAKE」への出演、フルMVの期限限定解禁でTwitterのTLは沸きに沸いている。新規ファンも増えるかもしれない。ポルノを聴くこと、ひいては音楽を聴くことから離れてしまった方も、気軽にヒット曲に触れることが出来るのでぜひご覧頂きたいものだ。


テーマソング

新曲の表題曲のタイトルは「テーマソング」。映像作品とのタイアップでのテーマソングではない。今までも人生を映画に例える歌詞が見受けられたが、これは各人の人生のテーマソングである。

塞ぎ込みたくなる昨今の状況でも、テーマソングが鳴り響けばそれが号令になって皆を奮い立たすことが出来るかもねという楽曲。

なにしろ「フレーフレー」という歌詞。そしてコーラス。これまでのポルノには全くなかったアプローチである。

文章では直喩表現をあまりしたくなく、人に頑張れという言葉を出来るだけ使いたくないという新藤晴一氏の歌詞のスタンス(ここまでの言葉遣いはもちろん出来ないとして)が理解出来る自分にはこの流れは正直驚きだった。 

人気ブロガー「かんそう」さんの言葉を借りれば、頑張れを言うために2000文字使うのが晴一のスタイル。例えば楽曲「パレット」は人の可能性というものを歌っているが、「変わらずそこにあるものを歪めて見るのは失礼だ」という歌詞は、失恋や何かを失うことで湧き上がる人の感情がその人の可能性をも潰すことはある。でも本当はそんなことで生きる目的を失うわけではないだろう?という意味合いでの応援だ。これは私たちの日常でもどんどん使って欲しいフレーズだ。

個人的な話になるが、お節介な私はTLの若者の悩みっぽい呟きを見るとこんなような事を言いたくなる。私の言うことなんか聞かないでポルノの歌詞を信じろ、と結局はなるのだが、自分が持っている素敵なものを否定なんかしないで、という気持ちを伝えたりする。

悩みに寄り添う人間には2種類あると思っている。上から引っ張り上げる人、悩む人の居る場所まで降りて行く人。自分は上から目線でものを言っていると思われているらしいのだが、どちらかと言えば人が落ち込んでいるならは、その人の居る場所に行きたいと思う方の人間。割とジェットコースター的な人生を送っている自負があるので、低いところは未知の世界ではない。

ポルノの歌に共感出来るとしたら、その、底の方より少しだけ上からものを言ってくれるところにあると思う。不安な人間は、少し上からものを言ってくれる方が良かったりする。上からものを言うというと反発する向きもあるのだが、2人のいる場所は私には丁度いいと思っている。

人の気持ちは分からない。だからこそ人のことを分りたいと思うものだ。しかし安易な頑張れはいかにもその人を分かってる風で実はそうでないのではないか、それは失礼に当たるだろうと考えてしまう。もし、晴一がそういった考えを持つならば、そして歌詞としての美しさを考えるならば、フレーフレーは選ばないだろう言葉だ。

フレーフレーを使わなければならないほど、今の状況は異常である。昭仁はソロ活動でも「光」をテーマに歌っている。一緒になって底の方で悲しがっていてはいけない、自分たちは「光」に先に到達して、聴く者を引っ張り上げないといけないという境地に至ったのではないか。

全ての人の悩みを理解し寄り添うことは出来ないという現実。人を応援したい人間にとっては自分の限界を突きつけられるような気になる。

それでも何か出来るとすれば。「自分のような人」には寄り添うことは出来るという気付きを得ることかもしれない。人は無意識に自分と同じ匂いを人に感じて、自分を投影して人に近づく。そこで相手が悩みや思いを吐露するなら、私の経験や考えでもって人に近づくことが出来るかもという可能性を感じられるかもしれない。

上で「かもね」と書いたのは、限界は確実にあるからで。ハリネズミが向かい合って威嚇し合うような状態で人に近付き傷ついてしまう事がある。私は人のためにならないと嘆いたことがある人は多いかもしれない。それだけ人は人のためになりたいのだ。なかなか上手くいかんよなあと思いつつ。

それでもなんとかアプローチしたのに拒否されたらどうしたらいいか分からなくなる。人との距離はどれくらい取ればいいのだろう。人に恋して告白して断られて、あとどれくらい気持ちを伝えたらお互いがもっと近付けるだろう。喧嘩してしまった、どれくらい気持ちを開けば仲直りできるだろう。

答えは分かんないんである。

限界と可能性を見比べながら人は生きている。ただ、限界を観ていては心が折れてしまう。ならばまずは自分と自分と割と近しい人の中で生きて、自分を守ることが先決だ。Twitterのフォロワーをブロックしたっていい。ブロックされた方は悲しいが、それでも自分を贔屓に見てくれる人を探した方が多分、いい。

そして、「自分のような人」は案外居るぞ、と思うのがいい。それもひとつの可能性。

…まあこんなことを考えてしまうくらいには、フレーフレー私のような人、というフレーズには驚かされたということだ。またしてもやられてしまった。

残念ながら初聞きの時はその部分しか頭に残らなかった。どちらかと言えば新しい曲調をバンバン聴かせてくれたせいで耳が音ばかり拾っていた。また音に関しては改めて書こうと思う。

最近の新しい、流行りの音でもって複雑に構成された楽曲であるが、やっぱりポルノはポルノなのだと思わせる一曲だ。まさに新始動と言うのに相応しい。

ライヴツアーのタイトルは「続・ポルノグラフィティ」という。1度終わったものにしか「続」は付かない。でもポルノは終わっていない。2年のブランクという区切りは作った。また新しくなった。これからも続く。




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