大喜利が文学的教養とされている世界線の国語の授業

"此れ、恋心にあらず。では何ぞ?"

堪村凧ノ守の回答
"すなわち決意なりや"


……
………

 授業が始まるのが5分遅れている。理由としてはシンプルで科目担当の登呂 望がまだ来ていないから。
 「トロセン、遅いね」
 「いつものことじゃん」
 「どうせ他の先生に説教食らってるんでしょ」

 教師の遅刻という嬉しいアクシデントにざわつく教室の中で、自分だけ黙りこくっているのが馬鹿らしくなった私は、近くの席のトモちゃんとタッチーに話しかけた。二人の返事はおおよそ予想通りのもので、なおかつ登呂 望という教師を端的に表しているように思えた。


 登呂 望。34歳男性。担当教科は国語。お気に入りらしい和柄のアイテムがワンポイント。手入れを怠っていることが明らかなヒゲが特徴的だ。
 この登呂 望、通称「トロセン」に対する気持ちこそが、華の女子高生であるこの私、近井 ミキの目下の悩みである。彼を見ているとなんだか、胸がザワザワしてドキドキする。目が離せなくなる。この前、家の近くで偶然見かけたときは、閑静な住宅街に響き渡るかと思うほどの鼓動を心臓が奏でてていた。
 これがいわゆるアレなのか。巷で噂の例の感情なのか。火曜日の6限目、トロセンの授業が始まる度にそんなことを逡巡してしまう。


 「てかさ、今日の授業て確かアレでしょ?」
 「あー、そうそう!」

 私が考え込んでいる間に、親友二人の会話は今日の授業内容にまで及んでいた。そういえばそうだ。先週までの短歌の授業が終わったから、今日からは確か……
 「遅れて申し訳ない。早速大喜利の授業を始めるぞ」
 
いつの間にか教室に入ってきていたトロセンがヒゲを触りながら、楽しそうにそう告げる。


 「よし、じゃあまずは、教科書の……」
 「センセー、そもそも大喜利とか勉強して何か役に立つんデスかー?」

 早速、という言葉通りに、挨拶も無しに授業を始めようとしたトロセンの言葉を遮って、クラスの面白担当(を気取っているただ声が大きいだけ)の男子生徒がおちゃらけて質問する。勘違い野郎が。うっとおしいことこの上ない。
 「鶴利。その質問をしてくる奴は毎年いるが、今年の担当はお前か」
 クスクスという笑いがクラスから漏れた。予想外の反撃に赤面する鶴利君の方を向いてトロセンは続ける。「確かに、今さら大喜利を学んだところで実際にそれを活用できる機会は少ないかもしれない」
 意外なトロセンの言葉に、教室の空気が少しだけ凪いだ。
 「でも、大喜利ぬは、お題を出した人の意図を読み取る楽しさや、自分の中にある感情やユーモアセンスを言葉で表現するという楽しさがあると思う。さらに、その回答によって自分がこれまで気づかなかったことにも気づけたりすると思う。だから、勉強してみて損は無いと先生は思うぞ」
 予想外の真面目な返答に静まり返ってしまった雰囲気を感じたトロセンは、不自然なほど声を明るくして授業を再開する。
 「じゃあ、鶴利。教科書の84ページの真ん中あたりに書いてるお題を読んでくれ」
 「"此れ、恋心にあらず。では何ぞ?"……っス」
 「これは平安時代、大喜利文化の黎明期に出された有名なお題だ。出題者とそれに対応する回答、回答者までセットでテストに出すぞ。というわけで、回答と回答者を、今日は12日だから、12番……いや、やっぱり21番の奴、答えてくれ」
 トロセンに指された女子生徒が立ち上がって答える。「回答は"すなわち決意なりや"、回答者は堪村凧ノ守、お題を出した大台姫の夫です」
 彼女の120点の解答に、トロセンは満足そうにヒゲをこする。
 「大正解だ。この回答からもわかるように、この時代の大喜利はユーモラスなものというよりは、相手に対する恋慕の気持ちなどを遠回しに伝えるものとして登場した。これが時代を経るうちに、面白い回答を出すという今の形に近づいてきたわけだな」
 
気持ち早口になりながら、トロセンが補足のの解説をする。なるほど。大喜利って平安時代からあるのか。私は意外な歴史の深さに驚きながら、テストに出ると言われた部分をノートに書き殴る。「大台姫 のお題"此れ、恋心にあらず。では何ぞ?" →堪村凧ノ守の回答 "すなわち決意なりや"
 「恋」という甘い言葉で表せるものではなく、家族を守るという決意の気持ちこそが、自分が今胸に抱いているものである、というのがこの回答の意味だということらしい。素敵やん。私は、自分と、自分の心の中の島田紳助の口元がにやけるのを感じた。


 
授業開始の遅れのせいで内容が押しているのか、その後の大喜利史の流れの説明は、少し駆け足な気がした。鎌倉時代の武士文化が基となった豪傑大喜利、室町時代の院政大喜利の流行、寛保の改革に際して行われた大喜利倹約令による隠れ大喜利人の登場など、教科書の中で言及されているトピックに関して軽く触れるだけで、トロセンはそれを深く掘り下げずに授業の進行を急いでいる。そんなに、ペースを上げなくても良い気がするが、どうしたんだろう?


 「というわけで、緒倉 千代子や奥見 人情をはじめとする大喜利文豪たちの手によって、大喜利は現代の様な形に昇華されたわけだ」
 
そこまで説明したトロセンは、フゥと一息をつく。その様子を見て、クラスが少しだけ色めきたった。私達は知っているのだ。授業に一区切りついたことを示すこのため息は、生徒に好かれる教師特有のスキルである「雑談の時間」を告げる合図でもあることを。
 トロセンの雑談は自分の失敗談がメインだ。例えば、野生のネズミに100円玉を奪われた話。例えば、家の風呂の温度設定を間違えて60度の熱湯に飛び込んだ話。落語家顔負けの調子の良さで話される雑談によって、貴重かつ退屈な私達の授業時間は、毎回10分ほど消費されている。
 しかし、そんな私達の期待を見透かしたかのように、そしてそれを裏切るように、トロセンは勢いよく両手を叩いて授業の継続を告げる。
 「じゃあ、俺の話を聞いてばかりも飽きるだろうから、お前らも実際に大喜利してみようか」
 

 突然の提案にクラスは戸惑いとブーイングの声で溢れかえる。鶴利君なんかは、立ち上がって大げさに「ぜってー恥ずかしーじゃん!やばいって!」とか悲鳴をあげちゃっている。世界の終わりでもあるまいし、何を大げさな。恥ずかしいのは今のお前だわ。
 「鶴利、座りなさーい。君達が今日大喜利をすることは、文部科学省の学習指導要領によって決められているのでーす!」
 みんなの不満の声を、むしろ愉快そうにトロセンは受け流す。彼には、人がビックリしたり、嫌がったりすることを一切厭わない、そういうフシがあるように感じる。
 「よーし、全員が納得してやる気になったところで、お題を発表するぞ」
 まるでブーイングが聞こえていないかのようにトロセンが話を続ける。みんなの手元に生卵があったら、今頃彼は全身卵まみれに違いない。もちろん、ここは大統領に対するデモ会場ではなく、ただの授業中の教室だからそんなことは起こり得ないのだが。
 そんな自身の幸運を知ってか知らずか、トロセンは口でドラムロールの真似を始める。その様子に、みんなは「どうやら、何を言っても無駄らしい」と諦めがついたようで、息を呑んで、お題の発表を待っている。こういうちょっとした人心掌握みたいなのが本当に上手い先生なのだ。ここも、私的ドキドキポイントのひとつである。
 「よし、お題は”こんな先生は嫌だ。どんな先生?”にしよう。5分間、周りと相談しても良いから各自最低1個は回答を考えるように!」


 「二人とも、何か思いついた?」
 「全く何も」
 「浮かびませんなぁ」

 周囲と相談して良いと言われた手前、一応の礼儀としてトモちゃんとタッチーに話を振ってみたが、やはり返事は芳しくない。そもそも、この二人の文学的センスの無さはよく知っている。
 以前、今日の大喜利と同様に、授業中に川柳をつくることになったときに、トモちゃんは「古池や 私飛び込む 水の音」と詠み、タッチーにいたっては「よっこいしょ もっかい言うよ よっこいしょ」という、それこそ大喜利なのではないかという名句をひねり出し、教室の爆笑を攫ったことがある。つまり、こいつらと相談しても自分の回答のクオリティの向上は望めない。
 私は、教卓にもたれかかり教室をせわしなく見回すトロセンをじっと見つめる。もし、私の回答が、トロセンに褒められたら。あるいは、酷評されたら。なんとなく、そんなことを考えてしまう。
 その時、私は自分の胸の中にある感情、登呂 望という人間に対するこの感情の名前を知ることになるかもしれない。根拠は無いが、なんとなくそんな気がするのだ。ある意味、この大喜利は、私に突然訪れた分水嶺ということなのだろう。心して考えねば。私は、余計な物が何も目に入らないように目を閉じて、頭の中でトロセンに出されたお題を反芻し、自分の出せるベストの回答を探すことにした。


 「よし、お前ら。出来たか?"○○は嫌だ"とか"○○ランキング第〇位"系のお題は、二次面接の瞬発大喜利で頻出だから、喜利検受ける奴は気合入れて回答しろよ」
 タイムアップを告げるトロセンの顔は意地悪くニヤニヤしている。ちなみに、トロセンの言う喜利検とは、「大喜利検定」のことであり、これに合格すると、文系大学への進学に有利になるらしく、友達の中でもチラホラ受検する子がいたりする。
 「じゃあ、答えたい奴、挙手しろー」
 私が手を挙げるよりも早く、クラスの最前列で勢いよく手が挙がった。挙手したのは、品行方正成績優秀でお馴染み、我がクラスの委員長、日尻さんだ。以前、喜利検の準二級に合格したことを嬉しそうに話していた。彼女指定校の推薦を狙っているらしいから、ここで積極的に回答して内申点を稼ごうとしているに違いない。
 「お、さっそく手が挙がったな。では日尻、"こんな先生は嫌だ。どんな先生?"」
 「"怒って教室を出ていって、そのまま近所の美容室に行く"」
 
クラスがドッと湧く。どうやら、この回答は「正解」だったらしい。それを悟ったのか、日尻さんは満足したようにはにかんだ。
 「日尻、流石だな。お題の"先生"という要素を踏まえつつ、きっちり、"嫌さ"を表現できている。バランスの良い回答だ」
 トロセンもこの絶賛ぶりである。さすが喜利検準二級と言ったところか。
 日尻さんに続け!とばかりに、急いで挙手しようとするが、それも、誰かの「ハイハイハイ!」という声に遮られた。誰だろうと思って見てみると、お調子者の鶴利君だった。
 「おー鶴利。元気いっぱいだな。いってみようか。"こんな先生は嫌だ。どんな先生?"」 
「"ピッチャーの発音が独特"」
 数人の男子がクスクスと笑うのが聞こえる。えっと……これはどういうことなのだろう?私も空気を読んで笑った方が良いヤツなのだろうか?どうなんですか、登呂先生?
 反応に困った私が、チラリと教卓の方を窺うと、意外にも、トロセンは顔に穏やかな笑みをたたえていた。
 「鶴利。今の回答の解説をしてもらって良いか?」
 「うちの野球部の顧問の初尾先生が、いつもピッチャーって言うときに、変な発音をするんで、それを言いました!」
 「なるほどな―。鶴利よ、解説が無いと理解できない回答は絶対ダメだぞー」

 アルカイックスマイルのまま、ピシリと言い切るトロセン。てっきり自分が褒められると思っていた鶴利君は固まってしまった。
 「お前の回答は、知っている人は面白いと感じるだろうが、慣れない内はその場にいる全員に通じるような回答を意識すると良いと思うぞ」
 優しくフォローするトロセンだったが、鶴利君は先程までの元気はどこへやら、うつむいてしょんぼりしている。いい気味だ。これで少しは大人しくなってくれるとなお良いのだが。
 とはいえ、一気に挙手をしづらくなった。もし、自信満々に回答して、それが先生やクラスメイトに理解されなかったら、私はしばらく立ち直れないだろう。
 どうやらみんなもそう感じているようで、誰も手を挙げなくなってしまった。トロセンは一瞬逡巡した後、「じゃあ、手が挙がらないなら、先生の方で適当に当てていくぞー」という無慈悲な宣告。先生がクラスを見回すと、みんなはサッと顔を伏せる。もちろん私も。鶴利君の二の舞はまっぴらごめんなのだ。
 「お、八木。目が合ったな。はりきって行ってみよう!」
 
そんな中で、運悪く先生に捕まったのは、不良の八木君だ。制服を着崩して、常にけだるそうにしている彼は、きっとそのけだるさを表現するのに一生懸命になるあまり、顔を伏せるのが遅れてしまったに違いない。
 しかし、クラスのみんなから「昭和の生き残り」と揶揄される程のコテコテの不良である八木君は、果たして素直に大喜利に答えるのだろうか?
 「では八木、"こんな先生は嫌だ。どんな先生?"
 クラスのみんなが息を呑んで、八木君の方を見る。彼は、心底嫌そうにゆっくりと口を開いた。
 「……"ヒマワリ畑の真ん中で、こちらを振り返って微笑んでいる"」
 一瞬の静寂の後、どよめきの様な大爆笑がクラスを包む。もちろん、私も息ができないほど笑ってしまっている。一方で、当の八木君は恥ずかしそうにそっぽをむいて小さく舌打ちをしている。
 「あー八木。最高に面白かったぞ」
 トロセンも指先で涙を拭いながらコメントしている。こんなに可笑しそうに笑うトロセンを見るのは初めてかもしれない。
 「今の八木の回答は、さっきの日尻のとは反対に、"先生"という要素も"嫌さ"という要素も入れていないが、それ故の面白さがあるな。シュール、というのとはちょっと違うが、方向性としてはそっち系だと思う。それと、八木みたいなタイプの奴が到底思いつきそうにない回答を出すという意外性、教師に当てられて嫌々答えるという前振り、クラスの緊張感。全て踏まえて、最高の回答だったな。さてはお前、喜利検何級か持ってるだろ?」
 
若干興奮気味のトロセンの質問に、八木君はムスッとした顔のまま「準一級」と答える。
 嘘でしょ⁈準一級と言ったら、帝大の大喜利学科レベルを余裕で超しているはずだ。人は見かけによらないとはまさにこのことである。その後も、しばらく引かなかった爆笑の波の中、ずっと苦虫を嚙み潰したような顔をしている八木君の耳は、少しだけ赤らんで見えた。

 「よし、時間的にもあと2~3人ってところだな。誰かチャレンジする人はいるか?」
 みんなが落ち着いたところで、時計を確認したトロセンが回答者を募る。誰も手が挙がらない。当然だ。私だって発表したいのはやまやまだが、八木君の回答の後に手を挙げるような度胸は無い。こうなるんなら、鶴利君の後に発表した方がまだマシだった。
 「誰もいないようなら、こっちで当てるぞ。……伴木、立野、それと近井。3人連続で答えてもらって終わりにしよう」 
 私じゃ~ん。というか、私達じゃ~ん。タイミング最悪だ。自分の回答を改めて見直すと、さっきまで「爆笑間違いなし」とか思ってた答えが、八木君の回答を聞いた後だと、もはや市民公園のトイレの落書き以下の駄文であるように感じられる。
 それと、トモちゃんとタッチーと連続で回答するのも、それに輪をかけて最悪だ。どうせこの2人のことだから、ハチャメチャな答えを出すに違いない。そして、その後に回答した私も、彼女達とまとめられて「どんズベり3人娘」とか陰で言われるようになってしまうのだ。そして、そのままそれを卒アルのスナップ写真でもいじられて、最終的には50年後、その卒アルを押し入れの奥から発掘した孫(8歳)にも、「おばあちゃん、どんズベり3人娘だったんだ。面白ーい!」と揶揄われてしまうに違いない。真っ暗。私の今後の人生、お先真っ暗だ。
 「じゃあ、まずは、伴木からだな。"こんな先生は嫌だ。どんな先生?"」
 私の絶望も露知らず、トロセンは最初の回答者にトモちゃんを指名する。頼む。ここでトモちゃんが、「大外し」か「大当たり」を叩き出さなければ、その流れに乗って、印象に残らずに回答を出すことができる。お願いだ、伴木 優よ!中庸を狙ってくれ!
 「"やたらキョロキョロしている"」
 クラスのあちこちでさざ波のような笑いが起きる。そう、これくらいだ。これくらいが丁度良いのだ。トモちゃん、ありがとう。アンタはやればできる子だと思っていたよ!
 「次はー、立野。"こんな先生は嫌だ。どんな先生?"」
 トロセンが、トモちゃんの評価を後に回してタッチーにお題を出す。よりにもよって私が最後か。私は、頭の中のそろばんで素早く計算する。私の計算結果によれば、このままタッチーがトモちゃんと同じくらいの凡庸な回答を出して、私もその流れに乗って回答すれば、よっぽどのことが無い限り、最悪のシナリオ、すなわち「おばあちゃんの正体はどんズベり3人娘」ルートを回避できる。つまり、我が親友、立野 仁美がここで出す回答に私達3人の命運がかかっているといっても良い。さあ、ドカンと平凡な回答を出してくれ!
 「"いい年こいて私服はいつも真っ黒"
 クラスの半分くらいが声を上げて笑った。ヤバい。思ったよりもタッチーがウケている。私は、頭の中のコンピュータで素早く計算する。私の計算結果によれば、つつがなく自分の回答を終えるためにはタッチーの回答±10くらいの面白さの回答をしないと目立ってしまう。彼女よりも面白い回答をする分には良いかもしれないが、もし、3人の中で最低点の回答をしてしまったら……。考えただけで手が震える。私はいけるのか?いけるのか、近井 ミキ⁈
 「よし、じゃあラストだな。近井、"こんな先生は嫌だ。どんな先生?"」
 「……"足音を殺して歩いている"……デス」

 スンッとクラスが静まり返る。誰も笑っていない。空調の音がうるさいほどはっきりと聞こえる。あれ?これは私、やってしまったのか?それとも「まあまあ、こんなもんでしょ」のスンッなのか?どっち?どっちなの?もしかして、私1人で「どんズベリ娘」を務めることになる感じ?ソロ活動しなきゃいけないの?どうするどうするどうしよう?トロセン、どうしよう?
 助けを求める気持ちでトロセンの方を見やる。彼は、少し考えたあと、私達3人の方を見て評価のために口を開く。
 「まず、伴木の回答は、地味な"嫌さ"を突けているな。こういうギリギリのラインというのは、実は意外と難しい。狙っていたのかはわからないが、良い回答ではあるな」
 想定以上の高評価にトモちゃんの顔がほころぶ。彼女も彼女なりに緊張していたらしい。マズい。この流れは非常にマズいぞ。
 「次に立野の回答は、毒が強めだな。こういう回答は行き過ぎると笑えなくなるが、今回のは丁度良い所で抑えられている。そしてその上、"嫌さ"もしっかりと表現できていると思う」
 タッチーの回答もやはり高評価だ。やめてくれ。前の2人の評価が高いと、相対的に自分が惨めに感じてしまう。
 「最後に近井の回答だが、俺は良いと思うぞ。しっかり自分自身の考える"嫌さ"を答えに出せているんじゃないか?改善するとすれば、もっと自信を持って答えられたら、さらに良くなる気がするな」
 がっつり気を遣われている。やはり私の回答はダメだったみたいだ。肩を落とす私をよそに先生は続ける。
 「しかし、あれだな。伴木、立野、近井の回答に出てきた特徴、全部休日の俺だな」
 唐突にトロセンの話があらぬ方向に飛ぶ。あ、これはさっきまでの微妙な私の回答を流してしまおうという彼の優しさだ。私は瞬時にそう感じた。事実、クラスのみんなは、先生の予想外のカミングアウトに「え⁉」とか「どういうこと―⁉」と食いついている。
 「いや、俺は、学校の外ではいつも周りの様子を窺ってるし、家にある服は大体黒色なんだよな。あと、昔からの癖で、足音を立てないように、忍び足で歩いちゃうし……。あ、ということは、お前ら……」
 中空を見つめて、自分の私生活を顧みていたトロセンは、ハッと何かに気づいたように、声のトーンを変えて私達の方を見る。
 「俺のこと、"こんな先生は嫌だ!"って思ってるってことかー!!」
 コミカルなトロセンの絶叫に、クラスで今日イチの大爆笑が起こる。鶴利君も日尻さんも、八木君も、トモちゃんもタッチーも笑っている。そして、丁度そのタイミングで、授業終了のチャイムが鳴る。結果的に、私の「おお外し」はトロセンによってカバーされる形になった。一応、私は何とか助かったわけだ。
 しかし、もうそんなことはどうでも良い。今日の授業の、今のトロセンの話を聞いて、私は、自分が抱えていた、トロセン、登呂 望に対する感情の名前、正体にはっきりと気づくことができたのだ。


 

……
………


 放課後。私は、自宅までの帰路を急いでいた。流石に10月の午後7時半ともなると辺りは真っ暗で、ことさら、今歩いている住宅街では、ポツポツと立っている路上の照明灯の弱弱しい明りが、逆にその暗闇を効果的に演出している。
 そういえば、今日の晩御飯は回鍋肉だとお母さんが言っていた。急いで帰らないと。食べ盛りの弟は、遠慮なく私の分まで平らげてしまう。「 "こんな弟は嫌だ。どんな弟?" →近井 ミキの回答 "姉の晩御飯まで食べちゃう"」 ……うん、大喜利の回答としては赤点だろうが、純然たる"嫌さ"がある。こうして大喜利にして考えると、自分の気持ちを言語化して理解することができる、というのは本当らしい。
 「おい」
 
背後から突然声を掛けられて、暗闇の怖さを紛らわすために下らないことを考えていた私の心臓は、一気に喉元近くまで跳ね上がった。
 思わずしゃがみこんでしまった私に、声の主は「すまんすまん!」と謝りながら、手を伸ばしてくれた。

 「トロセ……登呂先生」
 そこにいたのは、一切の足音を立てずに、私の背後に近づいてきたトロセンその人だった。
 「いやー、ウチの生徒が夜遅くに歩いていたから声をかけたら、近井、お前か。大丈夫か?怪我とかしてないか?」
 数時間前まで、教卓の前で授業をしていたトロセンが、今、目の前にいる。その事実に、私は、早鐘のような胸の鼓動を抑えられずにいた。
 私は、彼の手を借りずに立ち上がると、そのまま目も合わせずに、頭を下げて「大丈夫デス……」と口ごもる。
 「なら良かった。最近暗くなってるんだから、あまり寄り道せずに家に帰れよ」
 「ハイ……」

 モゴモゴと話す私に、気を悪くした素振りも無く、トロセンは「気をつけて帰れよ」と気遣ってくれる。

 「じゃあ、これで」と私は、踵を返して足早に立ち去ろうとする。チラリとトロセンの方を見ると、笑顔でこちらに手を振ってくれている。どうやら、私が見えなくなるまで見送ってくれるらしい。これまでなら、ただ嬉しいだけで済む話だったのかもしれないが、先程の大喜利の授業の中で、自分の感情の名前を知ってしまった今の私にとっては、その優しさは逆効果かもしれない。現に、先生に声を掛けられたときから鼓動のペースは一切落ちていない。
 小走りになりながら、私は心の中でトロセンに話し掛ける。先生、私が貴方に抱いていた感情はどうやら、恋に恋する女子高生特有の淡い恋心ってやつではなかったみたいです。気づいたんです。私がさっきの大喜利で困っていた時に、先生が回りの様子をうかがうとか、黒っぽい服ばかり持ってるとか、足音を消して歩くとか、そういう話をしてくれた時に、自分の感情の正体に気づいたんです。ごめんなさい。だから、今みたいに、素っ気ない態度をとってしまうのも、逃げるように、先生から離れてしまうのも、きっと、多分、その感情が全て悪いんです。どうか許してください。
 そんなことを胸の中で叫びながら、いつまでも手を振ってくれているトロセンの気配を背に、数メートル先の曲がり角まで、一直線に向かう。本当に声に出して叫びたくなるのを必死で抑えながら、私は、いつの間にかあらん限りの全速力で走りだしていた。


 

……
………


"これ、恋心じゃないな。では何?"

近井 ミキの回答
"警戒心"

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