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『好き』が『お金』になる世界 ~好き主義社会の到来~(全文無料公開)

こちらでは、2020年に執筆した拙作『「好き」が「通貨」になる世界 ~ポストコロナ時代の社会予想~』を全文公開しております。


序章 本当にコロナショックが我々の社会を変えたのか?

 政治家も評論家も、メディアに顔を出している人もそうでない人も、皆様ほとんどこう言います。新型コロナウイルスの感染拡大によって、社会は大きく変わっている――と。
 けれど、果たしてそれは本当に新型コロナウイルスによるものなのでしょうか? 
 もちろん、この流行拡大に伴う生活の自粛や働き方の変化が、私たちのライフスタイルや考え方に大きな影響を与えていることは言うまでもないでしょう。陰鬱な自粛ムードに、「いい加減にしてくれ、もうたくさんだ!」と感じている人もきっと多いと思います。
 けれど、です。もし本当に新型コロナウイルスの影響によって社会が変化しているなら、この一連の危機が通り過ぎれば、おそらく社会は元に戻るはずです。今まで通りの生活が、価値観が戻ってくるはずです。
 しかし皆様を含め、多くの人はこう感じているのではないでしょうか? 「もう、前の社会には戻らない」と。
 なぜ、皆様はそう思うのでしょうか? どうして前の社会には戻れないと、そう感じるのでしょうか?
 それはきっと、この変化が「そもそも前から起こっていた」からです。新型コロナウイルスによる影響で、その変化が一気に加速されただけなのです。
 この変化は、おそらく人類史に残る巨大な価値観革命――パラダイムシフト――になります。本来ならそれは、数十年かけてちょっとずつ進むはずでした。しかし、このコロナウイルスによる強制的な社会変容によって、すさまじい速さで進むことになってしまいました。
 それではいったい、この巨大な変化の波の後に待ち受ける社会とは、どのようなものになるのでしょうか? 今の価値観が崩れ去ったとしたら、私たちが信ずべき価値観とは何になるのでしょうか?
 その答えが、表題にもあります『好き』です。私たちはこれから、『好き主義社会』とも言うべき新しい時代を生きてゆくことになります。
 ここでいう『好き』とは、単なる感情のことではありません。私たち自身の価値を決め、人生の指標にもなり、そしてあたかもお金のように私たちの生活を形作る根幹になるものなのです。
 果たして、『好き主義社会』とはどのような社会になるのか? ポストコロナの時代にやってくる『好き』が『通貨』になるという世界で、私たちはどのように生きてゆくことになるのか?
 私たちがこれまで直面してきた価値観の変化の歴史をたどりつつ、新しい時代を予測してゆきましょう。

第1章 『月の石』を見るのに、あなたは何時間ならべますか?

1、映画クレヨンしんちゃんから読み解く価値観変化

 つい先日、二〇二〇年五月のことです。新型コロナウイルス感染拡大による自粛ムードの中、何の気なしにアニメ映画を見ていました。見たのは『クレヨンしんちゃん ~嵐を呼ぶ モーレツ! オトナ帝国の逆襲~』という作品です。
 おりしも、そのわずか三日前にクレヨンしんちゃんのお父さんこと、「野原ひろし」役を長年務めていた声優の藤原啓治さんの逝去が報道されたときでした。
 それが理由というわけではありませんが、なんの気なしに「オトナ帝国の逆襲」を見ていました。すると、映画の中で幼いころの野原ひろし君が泣いているシーンがありました。彼がいたのは、一九七〇年に開催された大阪万博でした。彼は父親の手を引きながら、「まだ月の石を見ていない!」と泣いていたのです。
 これには父親も困り顔。なぜなら、月の石を見るには何時間も並ばないといけなかったからです。
 ちなみに月の石とは、一九六九年にアメリカがアポロ計画にて月から持ち帰った「石」のことです。これが大阪万博のアメリカ館で展示。人々はこの月の石を見ようと四時間以上の列を作り、あまりの待ち時間に体調不良を訴える人が続出したとのことです。
 さて、この月の石を見たいと泣いて駄々をこねる幼い日の野原ひろし君。そんな彼に、お父さんは「三時間も並んで石ころ見たって、しょうがないっぺ」とあきらめるように言い聞かせます。
 このエピソード、現代を生きる私たちから見ると当たり前の光景に思えます。しかし、実は当時の価値観からすると、このお父さんのセリフには大変におかしな点があるのですが、お気づきになりましたでしょうか?
 その理由はあとで述べるとして、ここで少し皆様に質問です。アポロ宇宙船が月から持ち帰った「月の石」。皆様であれば、この月の石を見るために「何時間」ならべるでしょうか? 一時間? 二時間? 一〇分も並びたくない、っていう人もいるでしょう。筆者もたぶん、一〇分くらいならいいかな、という感じです。きっと「そんなに並びたくない」と思われる方は、こう思っていることでしょう。
「結局、ただの石でしょ?」と。
 なるほど、そのとおりです。ただの石です。けれど、当時の人々はこの「ただの石」を見るために四時間も並びました。信じられませんね。
 では一方で、皆様に質問です。皆さまは、東京ディズニーランドのアトラクションに何時間並べますか? あるいは、ユニバーサル・スタジオ・ジャパンのアトラクションに何時間並べますか? 
 こちらもまた、人によってまちまちだと思います。一時間以上待てる人という人もいれば、三〇分が限界という人もいるでしょう。あるいは、お金を出してエクスプレス・パスを買うという人もいると思います。
 ここでポイントになるのは、「並んででも見たい」、「並んででも体験したい」という感情が、どこからわき上げってきているかということです。これがまさに『価値観』です。並んででも見たい、それだけの価値がある、と思っているから並べるのです。月の石を「ただの石でしょ?」という価値しか感じていない人は、そりゃあ一〇分くらいしか並べないでしょう。ディズニーのアトラクションを、「どうせ観客を楽しませてお金を落としてもらうためでしょ?」と思っている人は、三〇分も並べないに違いありません。
 人は、当たり前ですが「価値観」を持っています。この価値観ですが、人によって様々――だなんて思っていませんか? 「価値観は人それぞれ違う」ということ自体、実は今の私たちが持っている「価値観」にすぎません。むしろ、「人それぞれ違うってどういうこと? 価値観なんてみんな同じに決まってるでしょ。一人一人違うなんて気持ち悪い!」という時代のほうが、実は人類史から見れば長かったのです。
 この「価値観に個人差なんてない」ということを理解することは、実はポストコロナ世界を予想するために、非常に大事になってきます。これを理解すると、ポストコロナの社会がどのように変化するのかが読み解けますし、幼い日の野原ひろし君とお父さんとのやり取りの違和感もわかってきます。
 まずは、過去に起こった価値観の変化を見ていきましょう。

2、天の神様の言う通り?

「どちらにしようかな、天の神様の言う通り」という遊びというか、選び方は知っていますか? 当然、ほとんどの人が知っているでしょう。やったことがないっていう人を探すほうが難しいかもしれませんね。
 もちろんこれ、本当に天の神様が選んでくれるわけではありません。というか、選んでいるのは本人です。「どちらにしようかなてんのかみさまのいうとおり」という言葉は全部で二二音です。偶数なので、最初に選んだ方の反対を自動的に選ぶことになります。
 けれどこの選び方、何となく不思議に思いませんか? いった通り、「どちらにしようかな」ってやっても、最初から「こっち!」ってやっても、別に結果はかわりません。
 でも、「どちらに~~」ってやると、何となく「自分で選んだわけじゃない」っていう感じがするのです。神様とは言いませんが、あたかも偶然で選んだような気になってきます。つまり、「これを選んだのは自分の意思じゃないよ!」という効果が得られるわけです。ものすごい効果ですね。
 そんな感じで、自分の人生を「自分で選ばない」という時代が過去にありました
 中世の時代です。
 その頃は、すべてのことは「神様」が決めていました。職業も、人生も、生きるも死ぬも「神様の言う通り」だったのです。
 こう書くと、「不自由な時代だなあ」と思う方も多いのではないでしょうか? 確かにそう感じるのも無理はありません。
 けれど、意外にそうではないのです。ちょっとだけ、当時の農民の生活をのぞいてみましょう。小説チックにしてみましたので、少しばかりお付き合いください。

3、農奴ジャンの一日

 ジャンの一日は、夜明けとともに始まる。
「さて、今日は何をして時間をつぶそうか」
 ジャンはぼんやりとした頭で考えた。仕事は特にない。というか、すでに昨日働いたので、今日は仕事ができないのだった。仕事をしていいのは、一週間のうち三日だけと決められていた。ついこの間、週に四日も働いた罪で、隣の家の親父さんが捕まったところだ。
「親父さんもバカだなあ、四日も働くなんて。考えなしにもほどがあるよなあ」
 ジャンはつぶやく。四日も働くなんて意味が分からなかった。働いたら、それだけ多く食事が必要になるのだ。ちょっとの食事で生きてゆくのがスマートな生活というものだ。なるべく動かないようにして節約するのが賢い生き方なのに、働くなんて愚かにもほどがあるとジャンは思った。
 ジャンは簡単な朝ご飯をとると、ゆっくりとした足取りで家を出た。やることはない。いつもの日々だ。ジャンは教会に足を運んだ。
 教会では、神父様がいつものように説教台に立ち、ありがたい神様の話をしていた。神父様の前には、聖書という大きな本が置いてあった。文字というものが書いてあるらしいが、ジャンには読めない。その代わりに、神父様が書いてあることを教えてくれる。だから神父様は偉いのだった。
 ジャンは祈った。次の冬は飢えませんように、と。神様が農奴という職業を与えてくれたのだから、農奴として死んで、死後に神様の国に行くのがジャンの夢だった。それでも飢えるのは辛い。
 ジャンは祈った。夕方まで祈り、家に帰り、寝て、そしてまた次の朝も教会に行くのだ。時間は有り余るほどある。死ぬまでにはたっぷりと。

4、働いたら『悪』の時代

 お付き合いいただいてありがとうございます。なんだこりゃ? と思われた人もいらっしゃると思います。ただ、多少の脚色はありますが、中世ヨーロッパの農奴の日々はこのような感じだったでしょう。
 農奴とは、農民と奴隷を足した言葉です。農奴として生まれたら、死ぬまでずっと農奴でした。土地を移動することは許されていません。こう聞くと、なんて不自由で、かわいそうな身分だったのかと思うことでしょう。
 けれど、ジャンの一日を読んでもらうと、「あれ?」と思いませんでしたか? 「働かなくていいの?」と。
 どうしても我々が「奴隷」と聞くと、アメリカに連れてこられた黒人奴隷や、あるいはファンタジーの中で語られる奴隷を想像してしまいます。朝から晩まで働かされて、食事も満足に与えられずに、理不尽な暴力にさらされて――みたいな感じです。
 けれど、中世の農奴は実は違うのです。というのも、彼ら農奴は「個人で財産を所有すること」が認められていませんでした。なので、ジャンには「何かを所有する」という概念がありません。神様に与えてもらった職業と、領主から貸し出されている農地があり、割り当てられた作物をもらうだけです。
 ちょっと想像してみてください。個人での所有を認められていないということは、「貯める」という概念がないということです。もちろん、生活するためのお金とか、冬を越すための食糧はあるでしょう。けれど、それだけです。作物が増えたとしても、それが自分のものになるわけではありません。
 つまり「頑張って働くこと」に意味がないのです。そりゃそうです。働いても見返りが何もないのですから。
 むしろ、働けば働くほどお腹がすきます。カロリーを消費します。そうなると、自然と食べる量が増えてしまいます。けれど、自分のために「貯める」という概念がないので、食料はあるだけしかありません。
 だから、ジャンはこう思うのです。四日も働くなんで愚かだ、と。
そうなのです。中世の農奴にとって、「頑張ること」は無意味を通り越して『悪』でした。本当に、決められた日数以上働くと罰せられたという記録があるくらいです。『頑張る』ことは、現代のわれわれに例えるなら『怠惰』以上の悪事だったのです。
 もちろん、必死になることはあったでしょう。というか、誰だって死にたくはありません。飢えそうになれば一揆だって起こったでしょう。死なないために必死になることは普通のことです。
 けれど、生きようと必死になることと、頑張ることは全く違います。前者は、言ってみれば草食動物が肉食動物から逃げることと一緒です。ライオンに襲われたら、そりゃあシマウマは必死に逃げるでしょう。必死に逃げるシマウマを見て「いやー、あのシマウマ頑張って逃げているなあー」と思う人はいないはずです。
必死と頑張るは全く違います。『頑張る』とは『報酬』とセットになった概念です。報酬がなければ『頑張る』という行動は成り立ちません。
 だから、ジャンは頑張りません。報酬という概念がないのです。だから、ジャンは決められた以上は働きません。むしろ働いたら余計なカロリーを使ってしまうので、スマートな生き方ではありません。ジャンは最先端を行くスマートな農奴なのです。
 では、ジャンは有り余る時間をどうして過ごしていたでしょうか? 書いてある通りです。祈っていました。何せ、お祭りのとき以外、娯楽などほとんどありません。所有の概念がないので、貯金したり、頑張ったりすることもありません。職業も神様が与えてくれたものなので、農奴以外の選択肢もありません。「将来の夢」という概念すらないのです。
 そうなると、もう祈るだけです。なにせ、神父様が言うのです。祈れば救われる、と。となると、ジャンは祈るのみです。
 こうして、農奴ジャンの一日は過ぎてゆくのでした。

5、頑張るのはいつから『良いこと』になったのか?

 ジャンの話から見ていただいたように、中世の時代には『頑張る』という概念が存在していませんでした。むしろ、頑張ることは『悪』だったほどです。神様の言う通り、与えられた職業に就き、与えられたとおりに生き、そして死んで天国に行くために祈る。これが、言ってみれば普通の幸せな生き方でした。
 けれど、我々が持っている価値観は違いますよね? どちらかというと『頑張る』のはいいことだ! と思っている人のほうが多いと思います。ほとんどの親は、子どもが頑張ったら褒めると思いますし、さぼると叱ると思います。ジャンの時代とは真逆といっていいかもしれません。
 では、我々はいつごろから、どのようにして『頑張るのいいことだ』という価値観を手に入れてきたのでしょうか?
中世の時代、頑張ることは良くないことでした。その後、価値観革命が起こり、頑張ることは良いこととなりました。
 そしてポストコロナ時代には、頑張ることは『意味のないことだ』という時代になります。
はてさて、これは一体どういうことなのか。まずは『頑張る』という概念がどのようにして誕生し、どのようにして我々の価値観になってきたのかを追っていきましょう。
 このすさまじい『価値観革命』――パラダイムシフトを引き起こしたものこそ、『市民革命』と『産業革命』でした。

第2章 『頑張る』と『未来』という概念の誕生

1、欲しがりましょう、勝つために!

 市民革命とは、おおむね18世紀から19世紀にかけてヨーロッパを中心に起こった革命運動のことです。ものすごくざっくり言うならば、『王様、貴族ばっかりズルい! 俺たちにも富をよこせ!』といって、王制を打倒したり、王様の権利を制限したりした革命です。
 ちなみになぜ「王様ばかりズルい」となったかというと、中世までは「自分のものを所有」できるのは、原則として王様や貴族だけだったからです。ジャンの例からもわかるように、それこそ農奴なんかは財産を所有することはゆるされていませんでした。
 皆様もどうでしょうか? 王様や貴族ばかり自分の土地や建物やお金を所有できるのです。「ズルい!」ってなりませんか? なりますよね?
 ただし、ちょっとだけ気を付けてほしいのは、この「ズルい!」となる価値観自体、「財産の私的所有」が当たり前という価値観の中でしか生まれないということです。
 ジャンの例を思い出してください。ジャンには、例えば「お金を貯める」という概念がありませんでした。貯める概念がないということは、「お金を貯めたい!」という欲求が起こらないということです。もっとお金が欲しいとか、もっと財産が欲しい、っていう感情が起こらないのです。
 例えるなら、もしゃもしゃと草を食べているヤギの目の前で、最高級の松坂牛のお肉を見せびらかすようなものです。どれだけおいしいお肉で、「ほーら、おいしそうだろう? 食べたいかー?」とやっても、草食動物のヤギにしてみれば「うっとうしいなー」と思うくらいでしょう。お肉を食べたいという欲求がないのだから当然です。
 概念がないということは、こういうことです。だから、所有の概念のないジャンたち農奴では、王様を「ズルい!」と考えることはありません。では、誰が「ズルい!」と思い、王様を倒せ! と革命を起こしたのか?
 それはブルジョワジーと呼ばれた人々でした。この人々はいうなれば、都市部で暮らし、商売で儲け、富を得ていた人たちです。つまり、「自分のものを所有する」という概念を持っている人たちです。この概念を持っているので、独占している王様たちを見て「ズルい!」と感じることができ、最終的に市民革命の中核となっていきました。
 こうして起こった市民革命によって、ついに王様や貴族がすべての権利を握っていた時代が終わりました。農奴ではなく職業農民という概念が生まれ、そしてこれまでなかった「私的財産の所有」という概念が広く広く、民衆の中に広まりました。
 この「自分のものが所有できる」という概念は、人々の中にすさまじい「価値観革命」を引き起こしました。それも当然でしょう。例えば収穫量が増えたら、増えた分を自分のものにしてもいいとなったからです。財産を貯めて、そして貯めたお金を使うことができるようになったからです。
 そうして人々は『頑張る』という概念を手に入れました。先ほど言いましたが、『頑張る』は『報酬』と対になる概念です。努力のすべてが実るかどうかはさておき、頑張ったら見返りが得られる可能性が出てきたのです。実際、頑張って報われた人も出てきたことでしょう。
 今を生きる我々にとって、当時の人々の価値観革命がどれほどすさまじかったのか、さすがに実感するのは難しいでしょう。しかし想像するに、本当に劇的なことだったに違いありません。
 なにせ、それまでは農奴に生まれたらずっと農奴でした。神様がそう決めたのです。けれど、市民革命が起き、財産が所有できるようになりました。頑張ると富が得られることがわかり、王様みたいな贅沢な暮らしをし始める人も出てきました。
 こうなるともう大混乱です。「えーと、職業は神様が決めたもの……なのに、貴族みたいになることが出来て……自分生まれは農奴なんだけど……あれぇ?」ってなったに違いありません。「神様言っていること違うじゃん!」ってなる人も出てきたでしょう。
 ちなみにこの市民革命の二〇〇年ほど前に起こった宗教革命に始まり、市民革命に至る一連の流れの中で、宗教に対する考え方も大きく変わってきます。これは後で詳しく述べます。
 とにかく、市民革命によって財産の所有ができるようになりました。そうなると、『もっと欲しい』という概念が生まれます。そして「もっと欲しい」という欲しがる心の働きから、「頑張る」という概念が生まれたのです。
ちなみにこう考えると、『頑張る』という概念ができてから、まだ二〇〇年ちょっとしか経ってないことがわかります。
びっくりですよね? 実は我々が当たり前に使っている『頑張る』という考え方って、わずか二〇〇年くらい前にできた、めちゃくちゃ若い考え方なのです。
そして若いがゆえに、実際まだ定着していません。ちゃんと根づいていないのです。頑張るという価値観は、実はまだまだ何かあれば揺らいでしまう程度の価値観なのです。

2、資本主義は『頑張る主義』

 市民革命によって私的財産の所有が認められるようになり、その中でもっと財産が欲しいという欲求が生まれ、そして『頑張る』という概念が誕生しました。
 この頑張るという概念と対になるのが、「資本主義」という価値観です。
 ちなみに「○○主義」というと、何となく難しく考えてしまうかもしれませんが、本著ではシンプルに『○○が自分たちを幸せにしてくれるという価値観』と読み替えてもらうとわかりやすいと思います。
 この文脈で言うならば、資本主義とは、『資本(財産)』が私たちを幸せにしてくれるという価値観のことです。お金と言い換えてもいいでしょう。資本主義とは、お金が我々を幸せにしてくれるという価値観のことなのです。
 今一度、ジャンたちのことを想像してみてください。彼らはずっと、自分の財産を所有できませんでした。所有の概念すらありませんでした。
 それが、市民革命によって「自分の財産」を持てるようになったのです。
 そして彼らは、今度は自分の財産を「消費」して、何かを「手に入れる」ことを始めました。新しい服やおいしい食べもの、家具や道具などです。それまでは基本的には服も食べ物も、家具も道具も、自分たちで作るしかありませんでした。
 しかし、市民革命によってジャンたちは「買う」ということを覚え、「買える」ことに気づき、そして「ものが欲しい」という欲求を手にしました。
 きっと、ジャンたちの暮らしは変わっていったでしょう。それまでは『祈る』くらいしか知らなかったジャンは、『生活を豊かにする』ことを知ったのです。本当にショッキングだったに違いありません。『祈る』ことが唯一といっていい幸せだったのに、『豊かな生活をする』という全く新しい幸せを知ってしまったのです。
 そうなると、ジャンはきっと「頑張る」ことを始めたと思います。頑張って『稼ぐ』ということを始めたはずです。そうですよね? 何せ、豊かな生活のためには『買う』ことが必要で、そのためには財産――つまり『お金』が必要なのです。
 そう、こうしてジャンは新しい価値観を手に入れました。お金が自分たちを幸せにしてくれるという価値観――これが『資本主義』です。
 市民革命によって、我々はついに新しい『資本主義』という価値観を手に入れました。
 そしてまた同時に、我々は『頑張る』という価値観を手に入れました。現代のわれわれの中にある「頑張るのは良いことだ」という価値観は、実はこの時に生まれたものです。
『頑張る主義』とか、あるいは『努力主義』といってもいいかもしれませんね。『頑張ることが自分たちを幸せにしてくれるという価値観』とも言い換えられます。
 ちなみに皆様にちょっと質問です。皆様は、『頑張れば幸せになれますか?』と聞かれたら、どのくらい賛成できるでしょうか? 「一〇〇%賛成です! 頑張れば絶対に幸せになれます!」という人は、きっと居ないと思います。逆に、もし身近に「努力は一〇〇%報われるんだー!」と言っている人がいたら、ちょっと気持ち悪いですよね?
 けれど、資本主義ができた当時は違いました。当時は本当に『頑張る主義』だったのです。人々は心の底から、一〇〇%絶対に、頑張れば幸せになれると考えていました。お金を稼げば、必ず幸せになれると信じていました。
 これは別に、彼らが現実が見えてなかったとか、まだ教育水準が低かったとか、そういう意味ではありません。それが当時の『価値観』だったのです。
 現代の僕たちの中にもまだまだ残っている『頑張る主義』は、この時代に芽吹き、我々の価値観に刷り込まれていきました。ただし、先ほども述べたように、お金が我々を幸せにしてくれる、あるいは頑張れば幸せになれるという価値観は、ここ二〇〇年くらいにできた若い価値観です。
 そして今、この価値観は崩れ去ろうとしています。若い価値観なので、しっかり根付いていないのです。
 どうして根付かなかったのか。あるいはどうして今、崩れようとしているのかについては、この後で解説していきます。
 その前に、別の大きな価値観革命の説明をしていきましょう。

3、神様は裏切れない

 市民革命によって私的な財産所有が認められ、その結果、貴族のような暮らしをする人々が出てきました。
 これは当時の人々にとって、大変ショッキングなことでした。
 それまでは、職業は神様が与えたものでした。これを『職業神授説』というのですが、農奴として生まれたら、死ぬまで農奴で、疑問に思うことはありませんでした。
 しかし、頑張れば貴族のような暮らしができるようになりました。当然、ジャンたちはこう思ったでしょう。
「あれ? 神様、言っていること違うじゃん!」
 ちょっと想像してみてください。仮に「神様言っていること違うじゃん!」となったとしましょう。神様の考えを代弁してくれていたのは、教会の神父様たちです。きっとジャンたちは、神父様に聞いたに違いありません。「神様の言っていることって、おかしくないですか?」と。
 これに弱ったのは神父様たちです。まさか、神父様たちも「神様も間違えることあるんだね、アハハ」とは言えません。そんなことを言ったら最後、誰も神様を信じなくなってしまいます。神様は絶対だから神様なのです。
 しかし、現実に神様が言っていたことと違うことが起こっています。神父様たちはどうにかしてこれを説明しないといけません。そして神様が間違えたとはいえないので、結局、こう言うしかありませんでした。
 神様は間違えていない。神様の教えを伝えていた私たちが間違えていた――と。
 さて、市民革命をさかのぼること三〇〇年とちょっと。一五世紀半ばに、グーテンベルクという人が『活版印刷』というものを発明しました。これによって、『本』がそれまでとは比べ物にならないくらい大量に、安く作れるようになりました。
 それまで、本はとても高価で、貴重なものでした。なにせ、手書きで書き写した写本か、木版画で作った木版写本くらいしかなかったからです。手書きで本を一冊書き写すなんて、想像しても気の遠くなる作業です。まして、木版はもっと大変です。版画ということは、黒く写したいところを残し、それ以外を削るわけです。つまり、文字のところだけ残して、それ以外を削るとなるとすさまじい技術が必要になります。手元が少し狂って「あっ!」となったら、間違いなく文字の部分まで削ってしまいます。
 ちなみに余談ですが、歌川広重の浮世絵に『大はしあたけの夕立』という作品があります。雨の降る中、傘を差した人々が橋を渡ってゆくという作品です。浮世絵というのは、基本的に木版画で作られるわけですが、この雨を見たときに思わず鳥肌が立ちました。雨を黒い線として表現しているわけですが、この黒い線が写っているということは、この細い線以外の部分を彫っているということだからです。すさまじい技術ですし、実際、現代にはこれだけの技術を持った彫師さんは残っていないそうです。
 話がずれましたが、とにかく活版印刷が発明されるまで、本は貴重で高価なものでした。それこそ、教会の神父様が持っている分厚い聖書くらいしか人々の目に留まるものはありませんでした。
 しかし活版印刷が発明され、本が出回るようになってきました。その中で一番出回ったのは『聖書』です。何せ、市民革命が起こるまで、人々がやることと言ったら『祈る』くらいしかなかったのです。当然、祈る対象である神様のことが書かれている本です。興味津々だったことでしょう。
 そうして、次第に聖書が出回るようになってきました。文字に触れ、読める人も出てきます。
 そして聖書を読むと、気づく人が出ていました。
「あれ? 聖書に書いてあることと神父様が言っていること、なんか違わない?」と。
 これには教会も大慌てだったことでしょう。とはいえ、一度広まってしまった『疑念』の火を、そう簡単に消すことはできません。
 こうして起こってきたのが『宗教革命』であり、この中で生まれたのが『プロテスタント』というキリスト教の新しい宗派でした。簡単に説明すると、教会の言うことよりも、聖書に書いてあることを信じていきましょう、という考え方です。
 とはいえ、まだまだこの段階では、「教会の言っていることっておかしくない?」とはなりましたが、「神様っておかしくない?」とはなっていませんでした。それまでのカトリックも、新しく誕生したプロテスタントも、神様を信仰しているという点については同じです。神様に祈ることが、自分たちの幸せになるという価値観は変わりませんでした。
 しかし、それもやがて変わってきます。この価値観革命を起こしたものが、『産業革命』でした。

4、物がなければ作ればいいじゃない

 産業革命とは、18世紀半ばから19世紀にかけて起こった一連の科学技術の発達と、それに伴う産業の変化、そしてその結果起こった社会の変容のことを総称した言葉です。
 ちょっと難しいので、分解をしながら解説していきましょう。
 18世紀の初頭、今から300年くらい前のことです。イギリスの発明家であるニューコメンという人が、世界で初めて実用的な蒸気機関を発明しました。蒸気機関は、皆様も何となく蒸気機関車などでイメージできると思います。その後、ジェームス・ワットさんという人がより発展させてゆくこの蒸気機関ですが、とにかく今までにない大発明でした。
 どうして大発明かというと、人類史上初めてといっていい『生き物に頼らない力』だったからです。もちろん、それまでも粉ひき小屋などでは水力による水車などが使われてはいました。だから正確に言えば人類史上初ではないのですが、しかしこの蒸気機関のすごいところは、どんな場所にも作れることと、何より生き物では出せないような強い力を発生させることが出来たことでした。
 それまで、ほとんどの作業は人力か、あるいは馬や牛の力でした。畑を耕すのも、モノを運ぶのも、人間とか馬とか牛がやっていました。
 当然ですが、人間も馬も牛も生き物です。働けば当然疲れますし、食事も睡眠も必要です。
 先ほど述べたように、市民革命によって人々は「ものを欲しがる」という概念を手に入れ、そのために「頑張る」という概念を手に入れました。
 しかし、どれだけものを欲しがり、そのためにどれだけ頑張ってお金を稼いでも、肝心の『もの』がなければどうしようもありません。お金がいくらあったところで、買うものがなければ意味がないのです。
 だったら作ればいいのですが、とはいえそれまではすべて人力でした。服も、食料も、家具も、全部人の手で作っていました。いくら『頑張る』という概念を手に入れたからと言っても、当然ですが人力には限界があります。作れる量には限界があるのです。これではどんなに『ほしい』と思ったところで、肝心の物が増えません。
 しかし、蒸気機関の発明がそれを大きく変えました。蒸気の力というのは、それはもうすごいものでした。今でも発電所で発電機を回しているのは蒸気の力ですし、少し前まで巨大な戦艦や輸送船を動かしていたのも蒸気でした。
 この蒸気機関の発明によって、物作りが劇的に変わりました。
 もともとニューコメンが蒸気機関を発明したのは、鉱山の地下水を排水するためでした。鉄鉱石を掘るにせよ石炭を掘るにせよ、地下水問題は常に付きまといます。蒸気機関ポンプは、そんな地下水を二四時間休まずくみ上げてくれます。これにより、金属や石炭が今まで以上に掘りだせるようになりました。
 材料と燃料が増えるようになると、それを加工するためにも蒸気機関が使われるようになりました。物を運ぶためにも、もちろん使われ始めます。
 そうして、それまで人力だけでやっていたころに比べ、圧倒的に『力』が増えました。力が増えると、生産能力が上がります。
 またそれだけでなく、頑張る主義が生まれたことによって、農村から都市部に人が集まるようになりました。人々は、頑張れば幸せになれると心の底から信じていました。お金が幸せを運んでくれると、絶対的に信じていました。だから、人々は農民をやめ、都市にやってくるようになったのです。
 こうして、人力では考えられないような力を発揮する蒸気機関と、さらに今まで以上の人の手が集まりました。その結果、今までとは比べ物にならないほどの『物』が作れるようになったのです。
 ついに、物が増えました。頑張ってお金を稼ぎ、人々は物を買います。身の回りの物が増えると、生活が豊かになります。人々はきっとこう思ったことでしょう。
「神様に祈るより、こっちのほうが私たちを幸せにしてくれる」――と。
 これが産業革命です。これによって、資本主義と頑張る主義がいよいよ真実味を帯びてきました。もちろん、産業革命はいろいろな問題も引き起こしましたが、それでもすさまじい価値観革命をもたらしたことは言うまでもありません。
 また、産業革命によってもう一つ、新しい価値観が誕生します。それは資本主義や頑張る主義と同じように、現代のわれわれの中にも残っている価値観です。
 ちょっと想像してみてください。市民革命と産業革命によって、お金が自分たちを幸せにしてくれると人々は信じるようになりました。なぜなら、お金があれば物を買うことが出来、生活が豊かになってゆくからです。この『物』が作れるようになったのは、当然、科学技術が発達したからです。
 ゆえに、人々はこう思いました。
「科学の発展が、私たちをもっと幸せにしてくれるに違いない」――と。
 これが資本主義や頑張る主義と同じように、現代のわれわれにも受け継がれ、そしてこの新型コロナウイルスの流行とそれに伴う社会変容によって滅ぼうとしている価値観――『科学主義』です。

第3章 誰にとっての『たかが石』なのか?

1、夢の科学技術

 科学主義というのは、文字通り『科学の発展が私たちを幸せにしてくれるという価値観』のことです。
 現代の我々が考える『科学』という概念が誕生したのは、産業革命から一50年くらい前のことでした。自然科学の父と呼ばれるガリレオ・ガリレイが地動説を唱えたのが17世紀のことなので、そもそも科学自体、かなり新しい考え方といえます。
 しかも、アイザック・ニュートンが万有引力の法則を発表したのが、ガリレオのちょうど100年後くらいで、その50年後くらいから産業革命が始まっています。そして現代は、その産業革命から200年後くらいです。
 こうして考えると、実は『科学』という概念はめちゃくちゃ新しい概念であることがわかります。
 逆に宗教や、王様や階級といった身分制なんかの概念は、ものすごく長い歴史があります。精霊信仰の時代まで含めれば、おそらく宗教の歴史は数万年以上あるでしょう。身分制の概念が生まれたのは農耕文化ができたあたりなので、こちらも何万年もの歴史があります。
 対して、科学という概念はいいところ400年くらいの歴史しかありません。宗教の数万年と比較したら、ひよっこもいいところですね。
 しかし、その『科学』の力は本当に劇的に社会を変えました。しかもわずかな期間にです。
 それゆえに、人々は『科学』を信じるようになりました。科学の発展が、自分たちを必ず幸せにしてくれると心の底から信じていました。
 発展主義とか未来主義と言い換えてもいいかもしれませんね。ジャンたち農奴の時代には、『未来』とか『将来』という概念がありませんでした。同じ生活が今日も、明日も、来年も、何年後も、死ぬまで繰り返すだけでした。同じ生活の繰り返しなので、『未来』という概念は生まれません。
けれど、科学が生活を変えるようになり、人々は「同じ生活がずっと繰り返えされるわけじゃないんだ!」ということを知りました。
 『未来』という概念の誕生です。
 そして未来という概念が誕生したことにより、より一層、頑張るようになります。何せ、当時の人々は未来主義です。つまり、「未来が来れば、もっと自分たちは幸せになる」と信じていたのです。
 こうして、科学主義や未来主義といった新しい価値観が生まれ、人々に広がってゆきました。まさしく価値観革命――パラダイムシフトです。
 ちなみにこのあたりから、『未来予想』という考え方が生まれ、サイエンス・フィクション――つまりSF作品が生まれてきました。今でもロボットだとか宇宙だとか、いろんなSF作品がありますが、それらはすべて未来という概念が生まれた結果です。
 また、各国はこぞって新しい科学技術の開発を進め、誕生した最先端の科学技術を披露するようになりました。
 その格好の場となったのが、万国博覧会です。これぞまさに科学主義、未来主義の象徴といえるかもしれませんね。初めて万国博覧会が開催されたのは、一七九八年のフランスはパリでした。それから戦争や様々な国際情勢の影響を受けつつ、今でも万国博覧会の歴史は続いています。
 さて、いよいよ万国博覧会の話になったということは、過去の価値観変化の話も大詰めです。
最初に、『クレヨンしんちゃん ~嵐を呼ぶ モーレツ! オトナ帝国の逆襲~』の話をしたかと思います。
 映画の中で、幼い日のしんちゃんのお父さんこと野原ひろし君が「まだ月の石を見ていない!」と泣きながら駄々をこねていました。そんなひろし君に対して、お父さんは「おめえもわかんねえやつだなあ。三時間も並んで石ころなんて見たって、しょうがないっぺ」と返します。
 このエピソードにはおかしな点があるといいました。それがなんなのかの解説をしながら、まとめてゆきたいと思います。

2、大阪万博の衝撃

 さて、これまで過去に起こってきた大きな価値観革命について解説をしてきました。
 市民革命によって資本主義が起こり、人々は『お金が自分たちを幸せにしてくれる』という価値観を手に入れました。頑張ればよりお金持ちになる可能性があることがわかり、頑張る主義という価値観を手に入れました。
 産業革命によって科学技術が生活を豊かにしてくれることを実感し、人々は科学主義を手に入れました。科学の発展が未来を明るくしてくれると心の底から信じ、未来主義という価値観を手に入れました。
 これらの資本主義、頑張る主義、科学主義、未来主義という全く新しい価値観は、市民革命、産業革命以後の世界でどんどんと主流になってきました。
 現代から、少し時計を巻き戻してみましょう。今から六〇年ほど前のことです。発展した科学技術は、ついに地球を飛び出すまでに至りました。一九五七年、当時のソ連はスプートニク二号というロケットで、ライカという名前の犬を宇宙へと打ち上げました。その四年後の一九六一年には、ボストーク一号にてついに初の有人宇宙飛行をなしとげます。人類最初の宇宙飛行士となったユーリ・ガガーリンが言った言葉、「地球は青かった」はあまりに有名でしょう。
 ソ連の活躍を受け、アメリカも当然黙っていませんでした。一九六一年、当時のアメリカ大統領だったジョン・F・ケネディは人類を月に送る「アポロ計画」を発表しました。そしてそれから八年後の一九六九年、アポロ十一号はついに月面着陸に成功。最初に月に降り立ったとされるニール・アームストロング船長は、こう言いました。
 『これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な跳躍である』――と。
 そして幼い野原ひろし君が体験した大阪万博は、そのわずか一年後の一九七〇年に開かれています。
 ぜひ、当時の野原ひろし君のことを想像してみてほしいと思います。
 彼にとって、物心ついた時から世界は衝撃と興奮の連続だったはずです。テレビでは、連日にわたって「ソ連が犬を宇宙に送った」「アメリカがロケットを打ち上げた」なんてニュースが報道されていたのです。目覚ましい科学技術の発展によって、想像したこともない『宇宙』という場所にまで人類は到達しようとしていました。
 いえ、幼いひろし君だけではありません。大人も子どもも、ひとしく科学がもたらす未来に大興奮していたのがこの時代でした。正確には、産業革命から二〇〇年間、人類は興奮しっぱなしだったのです。
 初めて生まれた資本主義と頑張る主義。科学主義と未来主義。これらの全く新しい価値観によって、人々は日々興奮していました。
 考えてもみてください。大阪万博で披露された『月の石』を見るために、人々は四時間も並びました。体調不良になっても並び続けました。当然です。当時の彼らにとって、それは『未来』の形そのものでした。宇宙にまで手を伸ばした人類が持ち帰ってきた、「自分たちをさらなる幸せに導いてくれる価値観」の象徴でした。
 映画のエピソードに含まれるおかしな点とは、まさにこのことです。野原ひろし君のお父さんはこう言いました。「三時間も並んで石ころなんて見たって、しょうがないっぺ」と。
 ここまでの話を理解した皆さまであれば、このセリフの奇妙さがわかると思います。
 そうです、当時の大人が『自分たちを幸せにしてくれる価値観の象徴』である『月の石』を、「たかが石」なんて言うはずがないのです。言ったとしても、「自分もみたいけど、こんなに並ぶの辛いからあきらめよう」と表現したでしょう。科学を信じ、明るい未来を信じていた当時の人間が、「たかが石を見たってしょうがない」なんて言うはずがないのです。
 ですが、五〇年後に生きている私たちは、映画を見ても「違和感」を感じなかったと思います。特に気にすることもなく、このセリフを聞き流してしまったはずです。
 ぜひ、これがショッキングなことだと感じてほしいです。

3、かつての『月の石』、今の『たかが石』

 1970年を生きている人であれば、絶対に月の石を『たかが石』と思いませんでした。
 しかし、それからわずか50年後を生きている私たちは、月の石を『たかが石』と呼ぶ人がいても違和感を抱きません。それどころか、今この本を読んでいる方の中にも「たかが石」と心の底から思っている人もいることでしょう。
 これは本当に衝撃的なことです。たかが「50年」で、私たちはあれほど心の底から信じていた『科学の発展が私たちを幸せにしてくれる』という価値観を信じられなくなってしまったのです。未来は明るいという『未来主義』を信じられなくなってしまったのです。
 それだけではありません。お金を稼げば幸せになれるという『資本主義』という価値観を信じられなくなってきています。頑張れば幸せになれるという『頑張る主義』を信じられなくなってきています。
 頑張るという概念が生まれて、まだたかが200年ほどです。もっと言うならば、高度経済成長期であった1955年~73年までは、間違いなく日本では頑張る主義は生き残っていました。
 しかし、それからわずか50年で、私たちは頑張る主義が信じられなくなってしまいました。頑張れば幸せになれる、お金持ちになれば幸せになれるという最先端の価値観が、たかが50年で崩れ去ってきているのです。
 いったいなぜ、私たちはこれらの価値観を信じられなくなってしまったのでしょうか? そして信じられなくなってしまった結果、次に私たちが信ずる『価値観』はどのようなものになり、どんな世界がやってくるのでしょうか?
 幸せを追求するという人類の根幹は変わりません。私たちはいつだって、幸せを追い求めています。
 これからの話で、私たちがどうして『頑張る主義』や『未来主義』といった価値観を信じられなくなったのかを解説してゆきます。また、現在の新型コロナウイルスの流行拡大に伴う混乱や衝撃が、いかにしてこの現象に拍車をかけているのかを解説してゆきます。
 さらにその後では、頑張る主義や未来主義が崩れ去った次の世界では、どのような新しい価値観が世の中を席巻するのかを説明してゆきます。そして、まったく新しい価値観によって形作られた世界ではどのようなことが起こり、我々の生活はどのように変化し、我々はどのように生きてゆくことになるのかを予想してゆきたいと思います。

第4章 ナンバーワンを求めくなった時代

1、ナンバーワンではなくオンリーワン

 ここまでで、頑張る主義や未来主義といった全く新しい価値観が市民革命や産業革命によって生まれ、それが人々の間に広がっていった過程を説明しました。そして『映画クレヨンしんちゃん』の例からもわかるように、わずか50年の間に、これらの価値観があっという間に滅びかけていっているというお話もしました。
 頑張る主義や未来主義という輝かしい価値観は、なぜ50年というわずかな期間にすたれていってしまったのでしょうか? また、新型コロナウイルス流行拡大に伴う社会の混乱は、価値観変化にどのような影響を与えているのでしょうか?
 まずはナンバーワンとオンリーワンの話から、お話をスタートさせていきたいと思います。
 解散してしまった国民的アイドルグループも歌ったように、現代の我々の中には「ナンバーワンでなくてもいい。オンリーワンでいい」という価値観があると思います。
 実際、街中で「ナンバーワンとオンリーワン、どちらが良いですか?」と聞くと、おそらく後者が票を得ることと思います。もちろん、「ナンバーワンも大事だ!」という人も一定数いると思いますが、「ナンバーワンでなければならない!」という人はあまりいないのではないでしょうか。
 ただ、ここでちょっと考えてみてください。この「ナンバーワンでなくてもいい。オンリーワンでいい」という文脈、何かおかしいと思いませんか?
 それは何かというと、「ナンバーワン」と「オンリーワン」は、「一つ」という解釈においては同じ意味であるという点です。
 ナンバーワンというのは、読んで字のごとく「順位が一番」という意味です。何らかの順番があり、そのトップであるという意味です。
 一方、オンリーワンはというと、「たった一つ」という意味です。順位とは関係なく、一つしかないということです。
 とはいえ、例えば何かの順位で一番になったとしましょう。同着一位というのも確かにありますが、基本的に一番というのは一人だけのものです。チーム制だとしても、一位のチームは原則一つだけです。
 そして一つだけならば、それはおのずとオンリーワンです。そうですよね。なにせ一番になっているのは一つだけなのですから。
 逆に、オンリーワンも同じです。一人だけということは、その時点でナンバーワンです。そりゃそうです。どんな大会であろうと、出場者が一人だけであれば、出た瞬間にその人は一位で優勝です。もちろん、そんな大会は成り立ちませんが、ともかく一人だけならば、それはナンバーワンということになるはずです。
 しかし、です。我々はナンバーワンとオンリーワンに、大きな違いを感じています。「いや、別にナンバーワンでなくてもいいし」、という人も大勢いらっしゃるはずです。
 どうしてそうなったかはおいおい解説していくとして、もう一つ、皆様に考えてみてほしいということがあります。
 それは『普通が良い』という価値観についてです。
 10年ほど前まで、筆者は塾の講師をしていました。当時、学生に『将来はどうなっていたい?』と聞くと、まあまあの確率で『普通でいい』という答えが返ってきたのをよく覚えています。
 もちろん、なりたい職業や、行きたい大学を定めている子たちもいました。しかし、おそらく半数くらいの子たちが特別に夢や目標を持たず、『普通が良い』と言っていました。
 ちなみに子どもがそういうと、決まって保護者の方々は『この子は将来の目標がなくて』と嘆かれていました。本著を読んでいる読者の方の中にも、「今の子たちは目標意識がない」とか「夢がない」などと思われている方もいらっしゃると思います。
 ただ、ここで考えていただきたいのは「なぜ、当時の子どもたちは将来の夢や目標を持たず、『普通が良い』などと言ったのか?」ということです。
 また、『普通が良い』と言っている――これは子どもだけに限りません。多くの大人の方々も『普通が良い』と思っています――方々に、「オンリーワンとナンバーワン、どちらが良いですか?」と聞くと、「オンリーワン」と答えるであろうということです。普通が良いと言っているのに、一方でオンリーワンが良いと言うのです。矛盾していますよね?
 改めて、われわれの価値観はこの50年でどのように変わってしまったのでしょうか? それをたどってゆきたいと思います。

2、大人になりたい? 大人になりたくない?

 筆者が塾の講師を務めていたのは、アルバイト時代も含めると2004年~2015年の約10年ほどでした。当時、教えていた生徒さんたちは13歳~18歳なので、ちょうど今は20代でしょうか。おおむね、幼少期から青年期を1990年代から2000年代で過ごしてきた方々です。
 さて、大阪万博が開催された1970年から、今現在の2000年代までをざっと辿ってゆきましょう。
 1970年は、高度経済成長の末期でした。太平洋戦争で焼け野原になった日本という国は、しかし急速という言葉では済まないほどの戦後復興を遂げました。その速度たるや、わずか20年ちょっとで世界第二位の経済大国にまで上り詰めるほどです。世界中から「東洋の奇跡(Japanese Miracle)」と言われ、驚愕の目を向けられました。
 この20年間が日本人にもたらしたものこそ、すさまじいまでの『頑張る主義』と『未来主義』でした。当時の人々の感情をぜひ想像してみてください。戦争に負け、これから日本はどうなるのかと国民全てが不安に思っていたことでしょう。どれほどの苦難が待ち受けるのか、どれほど未来は絶望的なのかと、人々は文字通り「お先が真っ暗」状態であったはずです。
 それが、たかが20年ですよ? 220年で世界第二位の経済大国になったのです。様々な国から「ミラクルだ!」と言われたのです。
 戦後の絶望からの落差たるや、おそらく現代の我々では想像することすらできないほどだったでしょう。
 その結果、人々は『頑張る主義』と『未来主義』を心の底から信望するようになりました。頑張れば幸せになれる、未来はもっと幸せになると、疑うことなく信じていました。
 特に戦争を経験した世代の感情たるや、ものすごいものだったでしょう。そして、それ故に誰よりも『頑張る主義』『未来主義』を信仰していた当時の大人たちは、子どもたちにこう言いました。
「頑張れば、君たちはもっと幸せになれる。未来はもっともっと輝かしいものになる」
 皆様に質問です。仮に今、皆様が子どもになったとしましょう。中学生くらいが良いですね。今、中学生になったとして、こう聞かれたら皆様はどのように答えるでしょうか?
「あなたは、『大人』になりたいですか?」
 さて、いかがでしょうか? もちろん、解答はまちまちだと思います。おそらく、本著を読んでいる方のほとんどは成人された方だと思います。つまり、大人です。大人を経験しているからこそ、「大人になりたい」という答える方もいれば、「子どものままでいたい」と答える方もいるでしょう。
 ただ、もしあなたが高度経済成長期に生まれた子どもだとします。生まれてからずっと、大人たちから「頑張ればもっと幸せになれる。未来はもっと輝かしくなる」と言われ続けたとしたらどうでしょうか? それだけでなく、実際に成長し続ける日本という国を、発展し続ける世界を見続けていたらどうでしょうか?
 おそらく、ほとんどの子どもはこう答えるのではないでしょうか? 「はやく大人になりたい!」と。
 当時の子どもたちは、少しでも早く大人になりたい子どもたちでした。そりゃそうです。おまえたちの未来は明るいと言われ、実際に発展する世界で育ってきたのです。頑張る主義と未来主義をすり込まれてきたのです。
 しかし、です。先述しましたが、『頑張る』も『未来』も生まれてから数百年の歴史しか持っていない概念です。長きにわたって人類にすり込まれてきた概念ではありません。
 それはいとも容易く崩れ去ってしまう程度の価値観でした。

3、大人という希望の失墜

 高度経済成長は、1970年の大阪万博で絶頂を迎えました。それは同時に、『頑張る』や『未来』という概念も絶頂を迎えたということです。
しかし、その絶頂も長くは続きませんでした。
 1973年、第四次中東戦争の勃発に端を発した、第一次オイルショックが起こりました。それまでの二桁成長の時代が終焉を迎えます。また、高度経済成長に隠されてきた公害を初めとした諸問題が浮き上がってきました。
 ようやく憧れだった『大人』になることが出来た子どもたちは「あれっ?」と思いました。
「想像してた大人と、なんか違わない?」
 このとき大人になった子どもたちが感じた『ギャップ』こそが、崩壊の始まりとなりました。
 子どもたちは、ずっと大人になりたいと思ってきました。未来は明るいと、頑張れば幸せになれると言われてきましたし、実際にそうなる姿を目の当たりにしてきました。
 しかしいざ、自分が大人になると、思っていたのとは全く違う世界が待っていました。
 1973年と1979年に起こった二度のオイルショックによって、世界経済は大混乱に陥りました。1985年のプラザ合意によって円高不況が起こり、後々のバブルに繋がってゆきます。そして1991年にバブル経済が崩壊。金融機関の破綻が相次ぎ、『失われた30年』とまで呼ばれる時代が始まりました。
 大人に憧れた子どもたちは、この時代の中で「大人」として過ごすことになりました。20代、30代、40代と歳を重ねるごとに、「大人ってこんなはずじゃなかった」という思いは相当なものになっていったでしょう。将来への希望に満ちていたが故に、そのショックは彼らの中にあった『大人像』を砕くにあまりあるものでした。
 そして彼らは、今度は自分たちの子どもに対してこう教えるようになりました。
「大人は辛い」
 そう言われた次の世代の子どもたちは、果たしてどのように感じたでしょう? 言われるだけならともかく、実際に彼らは見つめることになります。仕事に疲れて帰ってくる父親や母親。学校の先生は、将来の目標を定めるように言います。早く準備しないと、大人になったときに苦労するからという理由です。誰一人、「頑張れば幸せになれる、未来は輝かしいものになる。だから早く大人になろう!」なんて言ってくれません。
 逆に、大人たちは言います。「大人は大変だ。だから頑張らないといけない」と。
 これこそが、『頑張る』や『未来』という価値観を完膚無きまでに打ち壊すことになりました。想像してみてください。小さなころからずっと「大人は大変だ。大人は辛い」と言われ続けてきたら、子どもたちはどう思うようになるでしょうか? おそらく、「大人になんてなりたくない」と思うに違いありません。未来は明るいから、もっともっと頑張ろう! だなんて思うはずもありません。
 また、育ってきた環境も高度経済成長期とは全く違うものになっていました。高度経済成長期であれば、たとえ疲れてへとへとになって帰ってくるお父さんやお母さんを見ても、「大人になりたくない」とは思いませんでした。なぜなら、身に染みて生活が豊かになっていったからです。それまで汲み取り式だったトイレは水洗トイレに変わり、井戸で水をくむ生活から、蛇口をひねれば水道水が出てくる生活に変わりました。所得の増大によってモータリゼーションが巻き起こり、一家に一台、自動車が持てるようになりした。白黒だったテレビはカラーに変わり、扇風機はクーラーに変わり、裸電球は蛍光灯へと変わりました。身の回りのものがどんどんと増え、生活がどんどんと向上していきました。
 そんな中で過ごしてきた子どもたちは、たとえ疲れた大人たちを見ても、大人になりたくないとは思いません。『頑張る』は『報酬』と対になった価値観です。高度経済成長期は、頑張れば頑張った分、生活が豊かになるという目に見えた報酬がありました。だから、子どもたちは大人になることを夢見ることが出来ました。
 しかし、失われた30年に突入し、状況は一変しました。頑張っても報酬が得られないという、悪夢のような時代になったのです。大人たちは口をそろえて『大人は辛い、大人は大変だ』といいます。それは言ってみれば、子どもたちに対して『大人は辛いから、大人にならないほうがいいよ』と伝えているのと同じことです。
 そんなことを伝えられたら、子どもたちの中の価値観はどのようになるでしょうか? 子どもにとって、大人は『未来』の象徴です。そりゃそうです。我々はだれしも子ども時代があり、そして歳を経て大人に成長します。どれほど流れに逆らおうとも、大人になる運命は変えようがありません。否が応でも大人になるしかないのです。
 それなのに、『大人にならないほうがいい』と言われ続けてきたのです。もはやそれは、未来に期待しないほうがいいという意味ですらあります。当然、そうなれば大人になりたいなんて思うわけがありません。
 こうして、かつては希望であった『大人』という意味が失墜していったのです。

4、頑張る主義の大崩壊

 おさらいになりますが、頑張る主義は市民革命によって財産の私的所有が認められるようになり、科学技術によって物が溢れるようになって始めて生まれた概念でした。頑張れば生活が豊かになったからこそ、『頑張ることが自分たちを幸せにしてくれる』という価値観が誕生しました。
 それは、高度経済成長時代も同じでした。戦後の焼け野原から、頑張ることでどんどんと経済成長を遂げました。生活も豊かになりました。頑張りが幸せを運んできました。
 しかし、高度経済成長が終わり、失われた30年が始まりました。「頑張ったのに幸せになれない」という恐ろしい時代がやってきたのです。
 人々はこう思うようになりました。
「辛い目に遭いたくなかったら、頑張らないといけない」
 当たり前ですが、頑張る主義において『頑張る』は『幸せ』とイコールです。頑張ることが幸せを運んできてくれるという価値観なのです。
 けれど、たったの30年でその意味が激変しました。頑張らないと不幸になる、という概念に様変わりしました。
 いちおう、まだこの時点ではギリギリ頑張る主義の名残がありました。頑張れば幸せになれるという意味が、わずかですが残されていました。
 しかし、不幸なことにそれに拍車をかけた価値観の変化が起こり始めます。
 それは『資本主義』と『科学主義』の崩壊でした。「お金が自分たちを幸せにしてくれる」「科学の発展が世界を幸せにしてくれる」という価値観が崩れてきたのです。
 実際に現代を生きている我々であれば、おそらく誰しもが実感を持っていると思います。「お金があったところで、決して幸せになれるわけじゃない。科学が発展したところで、問題の全てが解決するわけじゃない」と。
 1970年の大阪万博に訪れた人々は、間違いなく「お金が幸せを届けてくれる。もっと科学が発展すれば、全ての問題が解決される」と信じていました。
 けれど、それから50年で人々は知ってしまいました。経済が発展したところで、幸福度が上がるわけではないことを。これだけ科学が発展したのに、相変わらず紛争やテロリズムは収まらず、環境破壊は止まらないことを。
 そして、病がいまだに無くならないことを――。
 ついに、人々は気付いてしまいました。資本主義も科学主義も、実際に自分たちを幸せにしてくれないことを、です。それどころか、問題は減らず、むしろ増えていると感じる人もいることでしょう。
 頑張る主義は大崩壊しました。もともと、頑張る主義は資本主義や科学主義と共に育ってきた価値観でした。それらが一斉に崩壊してしまったのです。
 それでもまだ、崩壊は緩やかでした。いくらなんでも、それまでの価値観がぱったりと無くなってしまうわけではありません。本来であれば、数十年をかけたゆっくりとした変化になるはずでした。
 けれど、まさかの事態がこの大崩壊を一気に加速させることとなりました。
 それが今まさに起こっている『コロナショック』です。

第5章 コロナショックが『とどめ』を刺した

1、新型コロナウイルス禍が加速させたもの

 新型コロナウイルスの流行拡大による社会の大混乱――本著ではこれを『コロナショック』と呼びます――を目の当たりにして、おそらく皆様はこう思ったことだと思います。
「まさか自分が生きている間にこんな事態になるなんて」
 著者自身もこんなことがあるかと、本当に驚きました。もちろん、長い人類史を紐解けば、感染症そのものはありふれたものです。かつて黒死病と呼ばれて猛威を振るったペストや、最大で一億人もの死者を出したといわれるスペインかぜなど、感染症による悲劇は歴史上ことをかきません。
 けれど、それでも我々は頭のどこかで「こんなに科学が発展した時代なのだから、流行といっても大したことにはならないのでないか」と思っていました。
 この考え方自体が、まさしく「科学主義」の名残です。心のどこかで、私たちは「科学が何とかしてくれる」と思っていました。
 しかし、そうはなりませんでした。もちろん、時間をかければ特効薬やワクチンが生まれてくることでしょう。三〇〇年前と違い、我々は感染症を引き起こしているのが何で、どうしてそうなったかを明らかにするに至っています。大きな進歩です。
 ですが、それでも科学の発展はあらゆる問題を解決してはくれませんでした。コロナショックを防ぐことも、これほどの被害を事前に食い止めることもできませんでした。
 けして科学が悪いとか、科学に携わる人々が悪いとか、そういう話ではありません。単純に、私たちが一方的に期待を持てなくなってしまったというだけなのです。かつては心の底から我々を幸福に導いてくれると信じていた科学を、信じられなくなってしまったのです。
 コロナショックは、科学主義の崩壊を加速させました。これが一つ目の加速です。
 これまで50年かけて、我々は科学への期待を少しずつ削がれてきました。公害問題や環境破壊、大量殺戮兵器の発達――科学が発達すればするほど、皮肉なことに私たちは新しい問題に直面することになりました。
光があれば影ができるのは当然という人もいるでしょう。しかし、その考え自体、科学によって引き起こされる問題に触れ、どうしようもないという諦念に至ったからこそ生まれた考え方です。科学は万能ではないと知っているから、しかたがないとあきらめることにしたのです。
 けれど、かつては違いました。本当に人々は、科学が万能だと信じていました。
 ですが、もう私たちは信じることが出来なくなりました。人によっては、科学こそ新たな問題を作り出す疫病神だと考えている方もいるやもしれません。
 私たちは、50年かけて科学への期待を裏切られ、そして一方的にあきらめるようになりました。さらに、このコロナショックが追い打ちをかけたのは言うまでもありません。こうして、科学主義はついに崩壊に至ってしまいました。

2、お金は幸せを約束してくれない

 次にコロナショックが加速させたのは、資本主義の崩壊でした。お金が私たちを幸せにしてくれるという価値観の崩壊を、一気に加速させています。
 特に、資本主義の象徴ともいえる『一か所に集まり、共同で仕事をする』――つまり『会社』です――という考え方を、すさまじい速度で崩壊させています。
 産業革命によって、生産能力が劇的に増加しました。これまで人力でやってきたことを、蒸気機関や電気の力で行うようになっていったからです。
 すべてを人力でやっていたころは、『人の手』がある場所が『生産場所』でした。人の手さえあればよかったのです。そうなると、最も効率的なのが『自宅』で行うことでした。そりゃそうですよね? 人力で生産するだけなのですから、わざわざ別の場所に行くなんてことはせず、生活している場所――つまり自宅です――で生産したほうが楽に決まっています。
 また、そもそも生産能力がないのです。自分たちで使う分だけとか、村の中で分け合う分だけとか、そのくらいを作るのが精いっぱいです。生産場所と消費場所を分ける必要がなかったのです。
 けれど人力に変わるエネルギーが生まれると、一気に状況が変わりました。蒸気機関がある場所――つまり「工場」です――に出向いて、そこで生産するほうが効率的に、大量生産できるようになったのです。家庭という消費場所と、工場という生産場所が、初めて別れるようになりました。
 現在、我々の経済の中心になっている『会社』は、この産業革命のときに生まれた概念をそのまま引き継いでいます。消費場所である家庭と、生産場所である会社とを分けたほうが効率よく生産――つまりより多くのお金を稼ぎ、それによってより幸せになれるという『資本主義』の考え方によって成り立っているのです。
 しかし、コロナショックはそんな『みんなが一か所に集まってお金を稼ぐ』という考え方に大きなヒビをいれました。そもそも以前から、特にインターネットが一般家庭にも広く普及するようになった2000年代から、一か所に集まって働くことに人々は少しずつ疑問を抱くようになっていました。
 特に現代は、情報が余り、時間が足りなくなる世界です。それなのに、毎日貴重な時間を通勤に割くなんて馬鹿げていると考える人は以前からいましたし、徐々に増えていました。
 それでもまだ、人々は200年も前に生まれた『一か所に集まって働く』という古い考えに支配されていました。
 けれど、コロナショックで状況ががらりと変わりました。感染症の蔓延により、ソーシャルディスタンスという言葉が生まれ、物理的な距離を人々は気にするようになりました。移りたくない、移らせたくないという考えが、一か所に集まるという行為に心理的なブレーキをかけるようになりました。そればかりか政府から外出自粛の要請まで出ました。人々は一か所に集まるこということが出来なくなりました。
 とはいえ、だからと言って働かないわけにはいきません。たとえお金が自分たちを幸せにしてくれないことに気づいたからと言って、現実的にお金がないと生活が成り立たないのが現代社会です。
 そうして、人々は「仕方なく」一か所に集まらないで生産する方法を実践してゆきました。
 そしてやってみると、不可能でないことがわかってきます。
 繰り返しになりますが、「一か所に集まって生産していたのは、そのほうが大量生産できたから、やむなく生産場所と消費場所を分けていた」からです。一か所に集まらなくても生産できるのなら、消費場所である家庭と分ける必要はありません。むしろ、通勤というロスがない分、貴重な時間を節約できるのは自明の理です。
 こうして、資本主義の象徴である「一か所に集まって働く」という概念が崩れてきました。それはつまり、資本主義そのものの土台を揺るがすことになったということです。
 また、これまで「会社」は我々を幸せにしてくれるものでした。自分たちを幸せにしてくれる『お金』をくれるのです。人々は会社に忠誠を誓いました。「社畜」だとか、「二四時間働けますか?」とかいう言葉がありますが、これらの根っこには「会社=お金をくれるもの=自分たちの幸せ」という図式があったからこそ成り立っていました。高度経済成長のころなど、子どもたちの将来の夢の大多数が「サラリーマン」だったほどです。当時は、サラリーマンが一番「夢のある」職業だったのです。
 しかし、現代を生きる私たちのもうほとんどは、会社に対して「忠誠」を誓っていないことでしょう。むしろ、会社勤めが苦痛であると感じる人も多いはずです。
 そんな中、出社しなくてもよい、一か所に集まって働かなくてもよいとなったらどうなるでしょう? 当然、会社への忠誠は地に落ちることでしょう。
 こうして、コロナショックは資本主義の象徴たる『会社』を、今まさに崩壊させていっているのです。

3、学校システムは消え去り、塾システムへ

 以前から崩壊が進み、そしてこのコロナショックによって一気に変化が加速されたものの一つに、『学校』というものがあります。ポストコロナ社会を予測してゆくうえで、学校という概念の崩壊も非常に重要になってきます。ここではその解説をしてゆきたいと思います。
 さて、そもそも皆様は『学校』というものがどのようにして作られてきたのか、ご存じでしょうか?
 まず、近代社会が始まるまで「学校」という概念は日本にはありませんでした。もともと日本にあったのは『塾』という概念だけでした。江戸時代には寺子屋というシステムがあったことは皆様もご存じだと思いますが、これがまさに『塾』です。
 塾とは、何らかの目的があり、そのための学習を提供する場所のことです。寺子屋であれば読み書き計算を子どもたちに学習させる場所でした。目的があり、それを達成すればいいわけなので、学習のほとんどは個別学習でした。和尚さんが皆を集めて一斉にありがたい話をすることはあったでしょうが、基本は個別学習です。そりゃそうです。子どもによって、年齢も学習速度も能力も違うのです。個別学習でないと、目的とする力を身に着けることなどできません。
 もしかしたら意外に思われるかもしれませんが、江戸時代までの日本で「学習」といえば「個別学習」のことでした。
 しかし明治維新が起こり、近代社会になると、その様相は一変します。
 そもそも現在の学校で主流となっている『集団学習』『一斉授業』という概念は、もともとは軍隊のものでした。近代国家の軍隊において、優秀な兵士とは『平均的な能力を持ち、突出した特徴を持たない者』のことでした。三国志の時代のように、一騎当千の武将なんていても迷惑以外のなにものでもありません。突出した能力がなく、指揮官の命令によって個人ではなく集団で動けるのが良い兵士でした。
 学校という概念は、軍隊における『兵士養成』の考え方を子どもに当てはめることで生まれたものでした。個人個人がどんな特性や能力を持っていたとしても、それを効果的に打ち消し、全員を同じ兵士にするために生まれたものが学校なのです。
 そもそも、学校とは「富国強兵」という考えによって創られたものでした。明治維新を経た日本は、とにかく西洋列強の仲間入りがしたくて仕方がありませんでした。そこで打ち出したのが「富国強兵」という政策です。
 当時の考える教育とは、別に子どもの能力を伸ばそうとか、将来の役に立てようとか、そんな考えは一切ありませんでした。そもそも、もし本当に子どもの能力を伸ばそうという『子ども主体』で考えるなら、別にそれまでの『塾』方式のままでもよかったはずです。けれどそうではなく、当時の教育で重要視したのは、文字通り子どもたちを『強兵』にすることでした。創りたいのは兵士なので、当然ですが個性的になっては困ります。そこで、平均化することに特化した集団学習・一斉授業という『学校』という場所が生み出されました。
 しかし戦争に負け、時代が過ぎゆく中で、もともとの意義が『すさまじいまでの時代遅れ』になってしまいました。現代において、おそらく多くの方が「今の教育制度には問題がある」と感じていらっしゃることでしょう。そりゃそうです。なにせ、制度自体に『子ども尊重』とか『個性重視』なんて考え方が全くないのです。「みんな違ってみんな良い」ではなく、「みんな一緒が一番良い」で作られたシステムが、集団学習・一斉授業という『学校システム』なのです。問題が起こらないわけがありません。
 なので、戦後から今日に至るまで、学校システムはどんどんと問題を露呈する羽目になりました。特に高度経済成長が終わり、失われた30年に突入すると、学校システムの崩壊はより一層顕著なってきます。
高度経済成長期までは、学校システムはなんとか持ちこたえていました。もちろん、この時代にはもう『兵士養成』という目的は残っていません。けれど、前で述べたように、1970年代までは、社会全体にまだまだ『頑張る主義』がありました。大人たち全員が「頑張れば幸せになれる」と思っていましたし、当然、そんな大人たちに育てられた子どもたち全員も「頑張れば幸せになれる」と思っていました。全員の価値観が同じなので、集団学習・一斉授業のシステムでもかろうじて大きな問題にはならなかったのです。
しかし、失われた30年に突入すると、人々の価値観が徐々に変わり始めます。「こんなはずじゃなかった」と気づき始めます。いよいよ、学校システムの問題があらわになってきます。
 ちなみに問題といいましたが、正確に言えば、学校システムには何の問題もありません。制度が悪いわけでも、先生に問題があるわけでもありません。というか『近代兵士』を作るためには、学校は良いシステムです。
そうではなく、「子どもの個性に合わせるべきだ」とか「能力や発達によって分けるべきだ」という『子ども主体』の価値観と、学校システムがすさまじく合わないだけなのです。
 なので、学校の在り方を変えようという動きは昔からずっと続いてきました。特に1990年代ころから、その動きは顕著になってきます。
 1992年、公立小中学校および高等学校に『一部週休二日制』が導入されました。覚えている方も多いと思いますが、最初は『第二土曜日』が休みになっただけでした。そこから段階的に土曜日休みが増え、2002年に公立学校のほとんどが完全週休二日制になりました。ちなみに「ゆとり」などという言葉が生まれたのも、ちょうどこのあたりからでした。
 なお、この「ゆとり」という言葉自体も、頑張る主義の崩壊をよく表している言葉です。正確に言うと、頑張る主義の名残によって生まれた言葉といったほうがいいでしょうか。心の片隅で「頑張れば幸せになれるとは限らないけど、それでも頑張ったほうがいい気もするし……」と思っているからこそ、頑張らない子どもたちを見て「ゆとり」という言葉を使うようになったのです。これがもし、今でも「頑張れば幸せになれる」という価値観が世の中を支配していたら、そもそも頑張らない子どもたちが出現するわけがありません。心のどこかでまだ頑張る主義を信じたい大人たちの気持ちが、「ゆとり」なんていう言葉を生み出してしまったのです。逆説的に言うならば、「ゆとり」という言葉を使っていることこそが、頑張る主義を信じられなくなっている証拠ともいえます。
 そして、ここにきてついに学校システムの最後の崩壊が始まろうとしています。2020年2月27日、当時の安倍首相が突如、全国の学校に対し一斉休校の要請を出しました。それを受け、全国のほとんどすべての学校が休校に踏み切りました。
 もともと、学校は「感染の震源地」になりやすい場所でした。ご存じのように、毎年、インフルエンザによって学級閉鎖になることもしばしばです。そこに加えて、今回のコロナショックです。誰しもがこう思うはずです。
「学校は、絶対にコロナウイルス蔓延の震源になる」
 このコロナショックによって、いよいよ「集団学習」という形式そのものにノーが突き付けられるようになりました。そもそも、繰り返しになりますが「子ども主体」の考え方と学校システムはすさまじく相性が悪いです。親御さんたちのほとんどが、学校に対してこれまで「子どもの個性や能力に合わせた学習をしてほしい」と要望してきました。これはつまり、『江戸時代までそうだったように、塾システムに戻してほしい』と言っているのと同じ意味です。学校という呼び方はさておき、今も、そしてこの先も求められているのは「みんな一緒」という「学校システム」ではなく、「みんな違う」という「塾システム」なのです。
 そしてコロナショックによって、ついに集団学習が「悪」とみなされるようになります。こうなれば、もう崩壊は待ったなしでしょう。我々は徐々に「集団としても学校」という場所を放棄するようになってゆくのです。

4、コロナショックがなぜ『とどめ』となるのか?

 ここまでの説明で、頑張る主義や未来主義がどのようにして崩壊してきたのかをお話してきました。また、これまで当たり前と思われてきた「会社」や「学校」という概念が、徐々に滅びていこうとしている様を説明してきました。
 繰り返しになりますが、これらの崩壊はすべて「もともと起こっていた現象」です。別にコロナショックによって始まったものではありません。資本主義も科学主義も、頑張る主義も未来主義も、50年ほどかけて徐々に徐々に崩れ去ってきました。
 とはいえ、本来であれば、この大きな価値観革命はもうあと50年くらいは続くはずでした。100年ほどかけて、新しい価値観へと変わってゆくはずでした。
 しかし、ここにきてコロナショックという大打撃が我々の社会に襲い掛かりました。これはあまりにクリティカルな一撃です。
 いったいなぜ、コロナショックがそこまでのインパクトを与えることになるのでしょうか? それはコロナショックが、これまで頑張る主義や未来主義を崩壊させてきた『内的要因』と違って、『外的要因』であるからです。
 思い出してください。頑張れば幸せになれるという頑張る主義を崩壊させたのは、「頑張ったはずなのに幸せになれない」と人々が気づいてしまったせいでした。未来主義が崩壊したのも、「未来はきっとよくなる」と思っていたのに、それほど良くならなかったことを目の当たりにしたからです。
 つまるところ、これらはすべて『期待が裏切られた』という内的要因によるものです。幸せになれると信じていたのに、それらに裏切られたため、一方的にお金や科学が信じられなくなったために起こった現象です。
 しかし、いくら裏切られたからといって、すぐに考え方が変えられるわけではありません。これは皆様自身も経験があると思います。ずっと信じていたものに裏切られたからといっても、心のどこかでまだ信じたいと思ってしまうのが人間です。
 また、特に『頑張る主義』で顕著なのですが、頑張らないことに罪悪感を感じるという現象が見られます。これは本当によくありますし、皆様も何度も体験していると思います。テスト勉強でも、スポーツでもそうですが、頑張らないことに対して、心のどこかで『頑張らない自分はダメなんだ』と感じてしまうのです。
 これこそ、頑張る主義の名残であり、呪いといっても過言ではない現象です。はっきり言いますが、頑張ろうが頑張らなかろうが、幸せとは全然関係がありません。200年前とは違うのです。50年前とは違うのです。もう今は、頑張れば幸せになれる社会ではありません。そしてこの先の将来、頑張れば確実に幸せになれる社会はもうやってこないのです。
 けれど、それでも私たちは心のどこかで『頑張らないといけない』と思ってしまいます。市民革命や産業革命から200年もそれでやってきたので、仕方がありません。
 しかしここにきて、コロナショックという大事件が起こりました。これはいわば免罪符です。免罪符とは、かつて教会が売り出した「あなたの罪をなかったことにしますよ」というチケットのことです。このチケットを買えば、自分の犯した罪が帳消しになり、天国に行けると言われたのです。民衆はこぞって免罪符を買いあさりました。
 コロナショックは、我々にとって免罪符となりました。言ってしまえば、「コロナショックだから仕方がない」という格好の言い訳を我々に与えたのです。いえ、それどころか「コロナウイルスの蔓延を防ぐためだから、むしろいいことをしているんだ」とさえ思うようになっています。
 これまで当たり前だった会社に出社しなくなりましたが、それは集団感染を防いでいるわけなので、良いことです。学校に行かないことも良いことです。どこにも行かず、消費を抑え、自宅で過ごすのも良いことです。
 つい数か月前まで、そうではありませんでした。学校に行くのも会社に行くのも当たり前でした。家で何もせずにゴロゴロしているのは怠惰と言われ、推奨されませんでした。
 しかしそれが、わずかな間に手のひらを返したようにガラリと変わりました。極端に言えば、「引きこもり」こそ最もスマートな生活様式になってしまったのです。
 そして我々は、ついにコロナショックという免罪符によって、こう思えるようになります。「頑張らなくても悪くないんだ。未来のことを考えなくても悪くないんだ」
 頑張る主義や未来主義は、最後の砦を失うことになりました。コロナショックという全く予想していなかったアクシデントによって、あと五〇年は残るはずだった砦が、一気に崩れようとしています。
 もう、この崩壊はだれ一人として止めることはできません。というより、現代を生きる我々では、絶対に止めることが出来ません。なぜなら、この崩壊の原動力は、結局のところ私たち一人一人が心の奥底に持っている『頑張る主義』や『未来主義』を疑う心だからです。私たちの心が、この崩壊をもともと引き起こしていたのです。
 ゆえに、もうこの崩壊は止まりません。そして加速し続けます。仮に、新型コロナウイルスによる混乱が今すぐにピタリとおさまるという「奇跡」が起こったとしても、もう絶対に社会は元には戻りません。ほかの誰でもない、私たち自身が戻ることを認められないからです。当然ですよね? おそらく誰一人として、この先の将来、「頑張れば絶対に幸せになれる。未来はもっと幸せになる」と心の奥底から信じることなどできないはずです。
 どれだけ「信じたい」と思ったとしても、一度「裏切られて」しまった以上、もう無理なのです。

5、そして『好き』の時代へ

 今一度、農奴ジャンの話を思い出してください。彼は市民革命が起こる前までは、スマートな農奴でした。必要以上に働かず、カロリーを消費せず、空いた時間は神様に祈ってさえいれば幸せだった農奴でした。
 このジャンの生活を見て、皆様は「あれ?」と思いませんか? そうなのです。実は農奴ジャンの生活こそ、コロナショック下で人々に求められている「理想的な生活」なのです。今、私たちは中世の農奴の生活が模範的な生活だと思うようになっているのです。
 もちろん、生活水準が中世に戻るわけではありません。ジャンのように、「神様が自分たちを幸せにしてくれる」と、心の底から信じる――少なくとも日本社会においては――ことはないでしょう。
 しかし、だからと言って、再び「お金が自分たちを幸せにしてくれる」とか、「科学がすべての問題を解決してくれる」という価値観に戻ることはありません。「頑張れは幸せになれる」とか、「未来は必ず幸せになる」という価値観を無邪気に信じることもありません。
 とはいえ、いつだって『幸せを追い求める』のが人間です。意識的だろうと、無意識的だろうと、私たちは常に『自分たちを幸せにしてくれる○○』を追い求めています。
 では、次に待ち受けるポストコロナ社会において、私たちはいったいどのような『○○』を手にするようになるのでしょうか?
 その答えこそ、本著の冒頭でも書きました『好き』です。お金でも、科学でも、頑張ることでも、未来でもありません。これから訪れるポストコロナ社会において、私たちは「好きが自分たちを幸せにしてくれる」という価値観を心の底から信じるようになります。
 そしてその結果、私たち自身の人生観や生き方、またそれだけでなく社会構造や経済に至るまで、巨大な変革が起こることになります。
 いよいよ『好きが自分たちを幸せにしてくれる』という、まさに『好き主義』という価値観が広まった世界がどのようになるかについてお話を進めてゆきます。
 まず、『好き主義』が進むことで、『好き』が『通貨』になるという現象について話をしてゆきたいと思います。『好き』がお金のように何かを購入することに使えたり、職業選択をする上での条件になったり、そしてついにはその人個人を評価する指標となってゆきます。
 また、好き主義が進むことで、私たちの人生観が大きく変わります。私たちは単重人格から多重人格になってゆくのです。別に精神病になるとか、そういう意味ではありません。むしろ、多重人格になることでストレスのない生活が送れるようになるということを説明したいと思います。
 そしてそれらの変化が、最終的にどのような社会を導いてゆくのかについてお話をしてゆきたいと思います。
 ここまでは、過去に起こってきた価値観革命や、今現在起こっている価値観革命のお話でした。そしてここからは『未来』――それも、さほど遠くない未来に起こるであろう新たな価値観革命の話を進めてまいります。
 今しばらく、お付き合いいただけたら幸いです。

第6章 『好き』が数値化される時代

1、彼氏持ち女子が一番偉い――『恋愛カースト』

 ここまでの話で、皆様には今まで我々の社会を支配していた価値観――『頑張る主義』や『未来主義』がどのようにして生まれ、そしてどうして崩壊しつつあるのかを理解していただけたかと思います。
 ここからは、それらにとって代わる新しい価値観――『好き主義』がどのようなものであるか、またどのように社会を変容させてゆくのかについてお話してゆきたいと思います。
 好き主義を説明するために、まずは『恋愛カースト』というものを例にしながら解説してゆきたいと思います。
 カーストとは、もともとはインドというかヒンドゥー教における身分制度のことです。実際のインドにおけるカーストというのはかなり複雑なのですが、本著ではシンプルに「偉さレベルによる階級分け」くらいに思ってください。
 恋愛カーストという言葉自体は、筆者の造語です。意味としては、女性集団――特に小学生から高校生くらいまでの女子集団――における『恋愛』という尺度で決められる階級制のことです。
 女性ならばおそらく身に覚えがあると思いますし、男性の集団においても似たようなことがあるので、男性でも何となくイメージできるかと思います。
 コイバナをしていると、何となく優劣が決まる場合がありませんか? 例えば彼氏のいる女の子と、彼氏のいない女の子とでは、彼氏持ちの子のほうが優位に立つ場合があります。
 これが恋愛カーストです。
 恋愛カーストにおいては、大まかに『偉さレベル』は三つに区分けされます。「彼氏がいる子」が、一番上の上位レベルになります。次に「好きな人がいる子」が中間レベルになり、最後に「好きな人がいない・恋愛に興味ない子」が下位レベルになります。
 女性の方であれば、おそらく経験があるのではないでしょうか? 小学校の修学旅行などではコイバナは鉄板ネタですし、恋愛話はいつの時代も皆の興味の的です。そしてそういった話をすると、大抵、彼氏持ちの子が精神的に優位になります。皆様の中にも、きっと優越感を感じた経験のあるかたがいらっしゃることでしょう。あるいは、彼氏持ちの子を見て、なんとなく「負けた……」という劣等感を感じた経験のある方――たぶん、こちらのほうが多いでしょう――も、いらっしゃると思います。もしくは、「あたし、恋愛とか興味ないから」といって話に混ざろうとしないクラスメイトを見て、「なにあの子、ほんとは彼氏ほしいくせに」などと妙な反感を抱いたことのある方もいらっしゃるでしょう。
 この話をすると、ほとんどすべての方が「あー、なんかあるある」となります。筆者も知り合いなどにこの話をすると、ほとんど全員が「確かに!」となります。データをとったわけではないですが、特にティーンエイジャーの女性集団においては、間違いなくこのような恋愛カーストが存在しています。
 さて、ここで皆様に考えていただきたいのは、この恋愛カーストがなぜ生まれるのかということです。
 女性だけにかかわらず、『恋愛』は人間にとって非常に重要な関心ごとです。古今東西、ありとあらゆる芸術作品は恋愛のすばらしさを語っていますし、中世の井戸端でも現代の学校の教室でも、コイバナは皆の注目の的です。
 それはなぜかというと、元来、恋愛が『子孫』に直接的につながる価値観だからです。こういうと身も蓋もないと怒られそうですが、しかしむしろ筆者としては逆だと思っています。ありとあらゆる生き物にとって、子孫を作ることは本能レベルに刻まれた重要目標です。それがあまりに重要だからこそ、そこにつながる『恋愛』という感情に、我々人類は並々ならぬ情熱と執念を持って価値を与えてきました。その歴史たるや、1000年、2000年どころではありません。
 理由はどうあれ、恋愛には大きな価値があります。恋愛主義といってもいいかもしれませんね。我々は、恋愛が自分たちを幸せにしてくれるという価値観を持っているのです。
 そんな価値観が作り出したのが、恋愛カーストという階級制度です。資本主義においてはお金をたくさん持っている人が上位レベルとなり、貧乏な人が下位レベルとなる無意識の階級制度があります。これを成り立たせているのは、皆が持つ羨望や憧れなどの感情です。資本主義においては、「お金=幸せ」です。そして、幸せの少ない人は、当然に幸せを多く持っている人に対して、あこがれや羨ましさの感情が出てきます。これにより、無意識的に階級が生じてくるわけです。
 恋愛カーストも全く同じです。恋愛主義においては、「恋愛=幸せ」です。基本的に、彼氏持ちの人は、彼氏のいない人に比べて『幸せ』の量や質が上位になります。なので、彼氏持ちが上位レベルの地位に就くことになります。
 その次の地位に来るのが、彼氏はいないけれど好きな人はいるという子です。恋愛は成就していないですが、恋愛状態にあるので、彼氏持ちほどではないですが『幸せ』が存在しています。なので、次の地位になります。
 最後に来るのが、好きな人がいないか、あるいは恋愛に興味がないという子です。あくまで恋愛主義という価値観においてですが、恋愛感情を持っていないということは、本人がどう思っているかはさておき、その子は『幸せ』を持っていないということになります。なので、恋愛カーストにおいては最下層のレベルに位置することになるのです。
 ちなみにこの恋愛カーストの興味深いところは、彼氏持ちの子がいつまでも上位レベルに居座れるわけではないということです。たいていの場合、付き合い始めの段階が、一番地位が高い状態となります。身に覚えがある方も多いと思いますが、恋愛が成就した時が、一番幸せを大きく感じるものです。一般的には、付き合い始めなどが幸せの量が一番多い状態なので、その時期が最も高い地位となります。けれど、付き合ううちに喧嘩が増えてきたり、愚痴が増えてきたりして、『傍から見て幸せじゃない』となると、徐々に地位が転落してゆきます。あるいは、長く付き合い続けて、関係が当たり前になったりすると、恋愛状態ではなく愛着状態という状態にシフトします。夫婦の関係も、ほとんどの場合がこの愛着状態にあたりますが、この状態になると、恋愛カーストの中の地位がなくなるという現象が起こります。「恋愛=幸せ」という価値観によってレベル付けされているのが恋愛カーストです。なので、恋愛状態でなくなると、評価が出来なくなってしまい、結果としてカースト内での順位なしというあつかいになってしまうのです。
 さて、長々と恋愛カーストの話をしましたが、別に本著ではコイバナの話をするわけではありません。そうではなく、この恋愛カーストの考え方が、今まさに社会を席巻しつつある『好き主義』を考えるうえで、非常に良いモデルになるのです。

2、『好き』が幸せをくれる

『好き主義』とは、文字通り「好きが自分たちを幸せにしてくれるという価値観」のことです。これについては、説明ではなく実感していただくのがわかりやすいでしょう。
 例えば、いまあなたがテレビのワイドショーを見ているとしましょう。ワイドショーの中では、海外から著名なスターがやってきたことが報道されています。空港には多くのファンが駆け付け、中にはスターを一目見て感激のあまり泣き出す人もいるほどです。
 さて、あなたはこの「感激のあまり泣き出す人」を見て、どう感じるでしょうか? 「泣くほどのことか?」と疑問を感じますか? 「人前で泣くなんてみっともない」と引いた眼で見ますか? どう思うかは人それぞれだと思いますが、きっとこう感じる人も多いのではと思います。
「あんなに夢中になれるなんて、ちょっと羨ましい」
 もう一つの例を出しましょう。例えば休日のことです。貴方は家でボーっとしています。特に予定も入っていませんし、やることもありません。本当は友達と出かけようと思っていたのですが、その友人は趣味の集まりがあり、予定が合わなかったのです。やることのないあなたは、友人のことをこう思います。「あいつは打ち込める趣味があっていいなあ」と。
 このような話をすると、ほぼすべての人が「確かにそう思う!」と感じます。これがまさに『好き主義』です。
 ここで勘違いしてほしくないのは、『好き主義』とは『好きなことをしているから幸せ』という意味ではないということです。
 恋愛カーストを例にして考えてみましょう。恋愛カーストでのレベル付けに使われる『恋愛』とは、『量』と『質』での評価が可能なものです。恋愛なんて、本来は人それぞれです。だから、本当のことを言えば、個々人の恋愛には優劣なんてないですし、それによって順位付けされるものではありません。
 けれど、恋愛カーストでは順位付けがなされ、わりと明確な階級が生まれます。それを決めるのが『恋愛の量と質』です。
 恋愛の『量』とは、どれだけその恋愛や、あるいは恋愛対象にのめりこんでいるか、夢中になれているかで表される指標です。恋する乙女は強い、なんて言葉がありますが、恋に夢中になっていればなっているほど、恋愛の量が多いと評価され、恋愛カースト内での地位が上がってゆきます。
 この恋愛の量の根底にあるのは、皆が抱く『羨望』です。憧れといってもいいでしょう。恋愛主義においては、恋愛=幸せです。そして恋愛に夢中になればなるほど、より多くの『恋愛』を所有していると周囲からみなされます。これによって、恋愛の量が多い子が、おのずと恋愛カーストでの地位を高めることになってゆくのです。
 もう一つの要素は、恋愛の『質』です。これは量よりも、より相対的な指標です。たいていの場合は、恋愛対象のルックスや人気度、どれだけ周囲にとっても魅力的かで決まってきます。多くの方が経験したことがあると思いますが、周囲から見てイマイチな男子に恋愛している子より、誰が見てもイケメンな男子に恋愛している子のほうが、「この子、頑張るなあ」と羨望の目で見られます。これが『恋愛の質』です。
 恋愛カーストでの地位を決めているのは、この恋愛の『量』と『質』です。これら二つの指標によって、その人が持っている『恋愛』のレベルが決まってくるというわけです。
 好き主義における『好き』も、この『恋愛』とほとんど同じ意味のものです。どれだけ夢中になれる『好き』を持っているのか、どれほど周囲から「すごい!」と思われる『好き』を持っているのか――そのように主観と客観によって量と質が決められるものが『好き』なのです。
 この『好き主義』こそ、一九七〇年代から徐々に徐々に広まってきた新しい価値観であり、頑張る主義や未来主義が崩壊した後の世界で、人々の主流になる価値観なのです。

3、オタクが普通になったわけ

 これまで何度も繰り返してきましたが、『○○主義』とは、『○○が自分たちを幸せにしてくれるという価値観』のことでした。資本主義であれば『お金が自分たちを幸せにしてくれるという価値観』でしたし、頑張る主義とは『頑張ることで自分たちは幸せになれるという価値観』のことでした。市民革命や産業革命から始まり、戦後の高度経済成長に至るまで、我々はずっと『頑張れば幸せになれる』とか『お金が幸せにしてくれる』とか『科学がすべての問題を解決してくれる』などと信じてきました。
 けれど、成長の時代が終わり、期待していた世界がやってこないことを知り、人々は頑張る主義や未来主義を信じられなくなりました。そんな中、少しずつ台頭してきたのが『好き主義』です。
 最初は、『余暇を楽しむための趣味を見つけましょう』とか、『仕事のストレスを発散するためのレジャーに行きましょう』などというように、『趣味』や『レジャー』という形で『好き主義』は姿を現してきました。初めのころは、まだ『好き』の形は『行為』や『行動』でした。スポーツだったり、合唱だったり、読書だったり、何かしらの『行動』のことを指していました。
 それが徐々に、何かの対象に対する『好きという感情』になってゆきます。わかりやすい例でいえば、アイドルの追っかけや、スターのファン、初期のオタク文化などでしょうか。最初のころは、どちらかというとこれらの『好き』は、あまり世間から良い目で見られませんでした。特に初期のオタクといえば、周囲から「気持ち悪い」と思われることも多々ありました。量と質の議論で言えば、初期のオタク文化は『質の低い好き』だったのです。
 しかし、頑張る主義が崩壊すればするほど、未来主義が失望されればされるほど、反比例して好き主義が大きくなってきました。特に2000年代に入ると、オタク文化が市民権を得るようになってゆきます。それまでは「オタクといえば気持ち悪い」というイメージがあったのが、徐々に「オタクは普通」というイメージに変わってゆきました。それはなぜかというと、頑張る主義といった過去の価値観がより一層崩れ、その代わりに好き主義が広まっていったからです。別にオタクの行動が変わったとか、アニメが増えたとかいう理由ではありません。好き主義という、「好きが自分たちを幸せにしてくれる」という価値観に変わっていったことが、その要因なのです。
 もう実感していただいていると思いますが、今を生きる私たちは、「好き」こそ自分たちを幸せにしてくれると思うようになりました。例えば親御さんに、「お子さんに幸せになってほしいですか?」と聞くと、ほぼ100%「もちろんです」と答えます。よほど特殊な事例を除き、子ども幸せを願わない親はなかなかいないでしょう。「では、どうなってほしいですか?」と聞いたとします。そうすると、筆者の経験上、かなりの親御さんが「好きになれるものを見つけてほしい」「打ち込める仕事についてほしい」などとおっしゃいます。これこそまさに好き主義が広まり、かわりに頑張る主義や未来主義が廃れてきている証拠です。かつてであれば、一流企業に就職してほしいとか、医者になってほしいとかでした。これは別に、子どもの気持ちを考えていないとか、親の都合を押し付けているという意味ではありません。お金が幸せにしてくれるという価値観の社会では、それが当たり前というだけなのです。一流企業やお医者さんがより多く稼ぐことが出来、より将来性があると思われていたから、子を思う親御さんであればこそ、そのような考えに至っただけなのです。
 もちろん、今でも一定数はそういう親御さんもいるでしょう。けれど、明らかに数は減ってきていますし、間違いなくこのコロナショックの後にやってくるポストコロナ時代には、その数を激減させるに違いありません。その代わりに、ほとんどの親御さんが『好きになれるものを見つけてほしい』とか『夢中になれる仕事についてほしい』と思うようになります。
 その理由は単純です。もう、誰もお金があれば絶対に幸せになれるなんて思っていないのです。頑張れば幸せになれるなんて信じられないのです。そうではなく、『好き』が幸せを運んでくれると思うようになっているのです。
 現代では多くの方が「ナンバーワンよりオンリーワンのほうが良い」「普通が良い」と言っているという話をしたかと思います。これらも、まさに我々の既存の価値観が崩れ去り、新たな好き主義という価値観になってきた証拠とも言えます。「ナンバーワン」という価値観は、言ってみれば頑張って一番を目指すという頑張る主義的な価値観です。繰り返しになりますが、もう頑張ることが幸せにしてくれるとは信じられなくなったから、ナンバーワンでなくてもいいという考え方が主流になってきたのです。
 また、普通が良いというのは、「経済的に普通の暮らしができればそれでいい」という意味です。これも繰り返しになりますが、資本主義が信じられなくなってきたからこそ、経済的に困窮しなければそれでいい、という考えになってきたのです。
 コロナショックによって、いよいよ既存の価値観が崩壊し、新たな価値観にとって代わるという価値観革命――パラダイムシフトが急速に進んでいます。その中心となる価値観こそ『好き主義』です。
 では、その好き主義によって社会はどのように変わってゆくのか。それを見てゆきましょう。

4、好きのレベル付け

 初対面の人と出会ったとき、まず皆様は相手のどのようなことを知りたいと思うでしょうか?
 今でもよく見かけるのは「どこの出身ですか?」と出身地を聞くことです。あるいはもっとローカルな場面なら、「どのあたりの生まれ?」とか「どこに住んでいますか?」と具体的な生まれや住まいを聞く場合もあるでしょう。田舎に行けば行くほど、この傾向は顕著です。
 現代ほど人の流動性が高くなかった頃は、その人を現す一番基礎的な情報は出身地や住んでいる場所でした。テレビの時代劇などを見ると、よく「八丁堀の旦那」とか「○○長屋の助八」などというように、個人名の前に住まいや出身を現す言葉が付きます。どこで生まれたのか、どこに住んでいるかというのが、その人の一番の基礎情報でした。人の流動性が高くなった現代でも、いまだにその傾向は残っています。
 そのほかに気にされやすい基礎情報といえば、学歴や仕事などでしょうか。特に資本主義社会では、その人の務めている会社や、やっている仕事が、興味の的になりました。
 しかし先述したように資本主義が崩壊しつつある現代においては、我々の興味の的は「相手の趣味」や「好きなもの」になってきました。特に現実世界ではなく、ネットの中での出会いであれば、その傾向は顕著です。
 そして好き主義が席巻した社会では、より一層、我々の興味は相手の持つ『好き』になるようになります。
 理由は簡単です。例えば、地方都市から東京に出てきた人が、同郷の人と出会ったとします。同郷人というだけで、私たちは相手に親近感を持ちます。同郷人同士でしか通じないローカルな話もできるでしょう。
 我々は当然ですが、共感や承認を欲しています。それは社会性を持つ我々人類の、遺伝子レベルまで刷り込まれている本能です。そして好き主義社会では、幸せの根底が『好き』になります。そうなった社会においては、もっとも欲するようになる共感や承認は、自分と同じような『好き』を持っているかどうかになってくるのです。
 また、好き主義社会においては『好きレベル』ともいうべきもので、地位などが決定されてきます。この『好きレベル』がどのように決定されるかは後述しますが、『恋愛=幸せ』である恋愛カーストと同じように、『好き=幸せ』である好き主義社会では、好きの量と質が高ければ高いほど、周囲の人からうらやましがられたり、魅力的に映ったりします。だからこそ、我々は好き主義社会においては、より一層、相手の『好き』を気にするようになりますし、自分自身の『好き』に気を配るようになります。
 ただ、当然ですが『好きという感情』は、そう簡単に客観的に数値化できるものではありません。とはいえ、人々は間違いなく相手の持っている『好き』を評価したいと思うようになります。
 ここで出てくるのが、『好きレベル』というものです。そもそも好き主義社会においての『好き』とは、厳密には『感情』のことではなく、ある程度、数値的に表すことのできる『指標』のことです。指標ということは、完全はないものの、客観的な評価が出来なければ意味がありません。
 では、どのように評価するかというと、恋愛カーストのときにお話ししたように『量』と『質』で計ることになってゆきます。
 量とは、その『好き』にどれだけ夢中になっているか、熱中しているかという指標です。これを客観的に評価するために、我々が指標にするのは『経験値』です。この経験値は、主に『情報』と『期間』の複合で表されることになります。
 イメージしていただけると思いますが、例えばアイドルに熱中している人がいるとします。その人がどれだけそのアイドルに夢中になっているかは、どれだけそのアイドルのファンをやっているだとか、あるいはどれだけそのアイドルについて細かいところまで知っているかということで、私たちは判断していると思います。逆に、どれだけ口では『あのアイドルのめっちゃファンなんだよね!』と言っている人がいたとしても、その人のファン歴が三か月しかなかったり、そのアイドルが出演したドラマを何も知らなったりしたら、私たちは「ああ、ファンって言っているけどにわかだな」と判断するでしょう。
 逆説的にいえば、どれだけの期間『好き』でいたか、その『好き』についてどれだけの情報を持っているか――この二つを総称して『経験値』と呼びます――で、その人の『好き』の量が評価できるということになるのです。
 もう一つの指標が『質』です。これも恋愛カーストのときにもお話ししましたが、かなり相対的な指標です。簡単に言えば、その人の『好き』が、どれだけ他人から共感してもらえたり、賛同してもらえるかということです。
例えば、あくまで仮にですが、動物虐待が何より好きという人がいたとしましょう。この人は、本当に心の底から動物虐待を愛し、長い間、夢中になっており、動物虐待に関するありとあらゆる情報を持っているとします。つまり、動物虐待というコンテンツに対する『好き』において、かなりの経験値を持っているということです。
 ですが、当然のことながらいくら多くの好きの『量』を持っているからと言って、この人の『好き』が賛同を得ることはないでしょう。逆に非難を浴びるに違いありません。なぜなら、動物虐待が好きという『好き』は、めちゃくちゃ『質』の低い好きだからです。
 この例からもわかるように、好きには『質』という指標も大きく関係してきます。その人の持っている『好き』が、どれほど周囲から賛同を得られるのか、共感してもらえるのかで評価されうるということです。
 では、これをどのように定量化すればよいのでしょうか? 現代を生きる我々は、すでに「どれだけ賛同してもらえるのか、どれだけ共感してもらえるのか」を定量的に表す指標を手にしています。
 それは「イイネ」です。SNS上で、私たちは常日頃から自分の投稿に対する「イイネ」を気にしていますし、他人の投稿に対して「イイネ」を付けています。これこそ、まさに共感と賛同の客観的指標です。その人の『好き』に関する投稿について、イイネが付いていればついているほど、その好きは賛同や共感を得ていることになり、『質が高い』と評価することが出来るのです。

5、国民総ステータスカード制

 経験値とイイネ。この二つの指標によって、ついに『好き』がレベル付けできるようになります。『国民総ステータスカード制』という言葉自体は、もちろんロールプレイングゲームのパロディ的表現ですが、しかし好き主義社会が進む中で、間違いなく我々はその人の『好き』を、あたかもゲームのステータスのようにあらわす仕組みを作り出してゆくことになります。
 そもそも、これまでの社会においても、私たちは自分自身の情報を伝わりやすく表してきました。名刺には役職や資格情報が載っていますし、履歴書には学歴や職歴を現します。フェイスブックには、どんな学校を卒業したかとか、あまつ自身の交際ステータスまで載せることすらあります。それもこれも、これまでは資本主義や頑張る主義だったからです。これらの主義においては、どれだけ頑張ってきたかだとか、どれだけ仕事で役に立つ――つまり稼ぐのに役に立つ――資格や能力や立場を持っているのかが、何より興味の的であり、本人にとってもアピールポイントになってきました。
 ならば、好き主義社会になれば、当然のように『好き』を現すようになります。それも、ただ「○○が好きです」「○○が趣味です」といった感情や行動や言葉を示すのではなく、経験値とイイネという定量化できる指標によって『好きレベル』を評価するようになってゆきますし、それを現すためのステータス制という仕組みを作り出してゆきます。
 そして、そのステータス制という仕組みが作り出されると、いよいよ社会の形は大きく変わってゆきます。本著の題名でもある、『好き』が『通貨性』を帯びてくるのです。

第7章 『好き』が『通貨』になる世界

1、好きの平均化

 いよいよ、本著の核心部分でもある『好き』が『通貨性』を帯びるという話をしてゆきたいと思います。
 まず、好き主義社会では、『好き』がこれまで以上に多重化してゆくという話からスタートしてゆきましょう。
 本著の初めのほうで、『価値観は人それぞれではない』というお話をさせていただきました。このように述べると、多くの方が「そうかな?」と疑問を覚えられると思います。現代においては、よく『多様性』という言葉を耳にします。かつては社会的な認知をほとんど得られていなかった、LGBTと呼ばれる性的マイノリティの方々の権利を認めようという動きも活発ですし、かつては『気持ち悪い』と言われていたオタク文化が、気が付けば日本を代表する文化のように扱われるようになりました。これらの事例を見れば、確かに『価値観は色々ある』と思えるのも仕方がありません。
 しかし、厳密にはそうではありません。価値観が多いのではありません。そうではなく、「いろんな『好き』があることを良しとする価値観」になったというのが正確な表現です。
 かつては、頑張る主義や資本主義でした。そのような社会においては、その人個人が持っている『好き』については、ほとんど見向きもされませんでした。これは別に、いろんな『好き』を認めていないという話ではありません。そうではなく、自分たちを幸せにしてくれるものが『頑張り』や『お金』だったので、幸せとは関係のない『好き』に価値を感じていなかったのです。逆に、幸せとは関係のない『好き』を追い求める人――つまりお金にならない趣味に熱中したり、頑張りとは認められないゲームや遊びなどに夢中になる人――は、無価値な人と評価されてすらいました。良い悪いではなく、頑張る主義や資本主義では、それが価値の評価の仕方だったのです。
 しかし、これからやってくるのは好き主義という価値観です。好きが幸せにしてくれるという価値観です。このような価値観が定着してくると、我々はたとえお金にならなかろうが、たとえ遊びやゲームであろうが、その『好き』に量と質が認められさえすれば、それを価値として評価するようになります。
 多様性社会とは、多様な価値観がある社会というわけではありません。世の中には多様な『好き』があり、それらが自分たちを幸せにしてくれるという価値観の社会のことなのです。
 ちなみにこの言葉からもわかるように、世の中には多様な『好き』があります。もっとも、好きの多様性そのものについては、実は昔とさほど変わっていません。そうではなく、いろいろな『好き』を認めるようになったというのが正確なところでしょう。本著の議論で言うならば、今まで低いとされてきた様々な好きの『質』が、平均的に上がってきたとなるでしょうか。かつては質が低いとされてきたオタク文化や性的マイノリティが、徐々に好きの質を上げてきた――つまり、より多くの『イイネ』をもらえるようになってきた――ということになるのです。

2、人の価値を『好き』のコレクションで計る時代

 このように『好きの質』が平均化してくると、私たちは一人の個人の中に複数の『好き』を持つようになります。これが『好きの多重化』です。簡単に言うのならば、『好きのコレクション』といってもいいかもしれません。
 実際に考えてみて下さい。貴方は今、自分の『好き』といえるものをどのくらい持っているでしょうか? それは趣味であっても、コンテンツであっても、行動であっても、どんな『好き』でも構いません。いったいいくつくらいあるでしょうか?
 おそらく、たった一つという人はいないと思います。私たちは、自分の中に複数の『好き』を持っています。その中でどれが一番好きか? なんて問いには意味がありません。ロールプレイングゲーム風に言うとわかりやすいかもしれません。例えばあなたが「レベル10」の勇者だったとしましょう。あなたのステータス――ひとまずゲームをあまりしないという方は「能力表」と思ってください――には、「体力50」「すばやさ38」「防御力45」「魔法10」とか書いてあるとします。これらについて、例えば誰かから「勇者よ、どれがあなたの一番の能力ですか?」と聞かれても、あなたは「いや、一番とかないですから。全部の能力があわさったのが自分の能力なんで」というしかないでしょう。
 好きのコレクションも、まったく同じ考え方です。私たちの中には、様々な好きがあります。例えば、『釣り』『アニメ』『アイドルグループ』『料理』『寝ること』という好きのコレクションを持っている人がいるとしましょう。それぞれの好きは、量と質でレベル付けできるとします。『釣り:レベル3』『アニメ:レベル7』『アイドルグループ:レベル2』『料理:レベル10』『寝ること:レベル9』と評価できたとします。どれが一番の好きであるとか、その人を現す好きがどれであるとか、そういう意味ではありません。すべての好きのコレクションをひっくるめて、その人の持っている『好き』になりますし、それを踏まえて私たちはその人を評価するようになるのです。
 逆に、そのように評価されると自覚するようになると、私たちは自分自身の好きのコレクションを、あたかもロールプレイングゲームのキャラクターを育てるように、調整したり、特定の好きのレベルを伸ばしたりするようになります。それで自分の評価が決まってくるのだから、当然に関心を払うようになります。
 このようにして、『好き』でその人を評価するようになってゆきます。これを『信用性』を帯びるといいます。例えば資本主義社会では、お金を借りようとしたら、その人の信用はお金で評価します。ちゃんと返せるだけの給料があるかだとか、担保にできる財産をもっているかだとか、そういう金銭的な評価によって、その人の信用度が決まってくるわけです。
 好き主義でも同じです。その人の持っている好きのコレクションがどのような構成になっているか、それぞれの好きレベルがどのくらいあるかが、その人の信用を現す指標になってきます。もちろん、それでお金が借りられるということにはならないでしょう。そうではなく、好きによって得られた信用によって、より多くの好きの量や、好きの質が得られるということです。
 実際、もうすでにそのような事例がSNS上で散見されるようになってきました。例えば、多くのイイネを貰っている投稿があったとします。SNSを使っている人は良くわかると思いますが、私たちはどのくらいのイイネを貰っているかで、その記事が良い記事かどうかを判断してはいます。そればかりか、どのくらいのフォロワーを得ているかで、その人自身を評価しています。
 SNSをあまりやったことがないという人からすれば、奇妙に見えるかもしれません。なにせ、一度もあったこともない、顔も本名も経歴も知らない相手なのに、評価なんてできるわけがないと思うかもしれません。
 ですが、これは奇妙でも何でもありません。信用するのに相手の顔とか経歴とかが必要になるというのは、資本主義や頑張る主義的な考え方です。お金という現代社会において生存に直結するものを重視するならば、そりゃあ相手の素性なんかは大切になります。
 しかし、好き主義社会で重要視されるのは、あくまでも『好き』です。相手の信用を計るために必要なのは、相手の持つ好きのコレクションです。イイネする側は、相手の持つ『好き』を評価し、その人の発言や投稿などを受け取ったり受け入れたりするかどうかを評価してゆきます。
 こうなってくると、逆に言えば、より多くの『信用』を得ている人は、さらに多くのイイネだったり、あるいは好きに関する情報――まさに経験値です――などを受け取れるようになります。
 また、その人の持っている『好き』によって、特定のコミュニティに入る資格が得られたりする事例もよく見られます。例えば、あるアイドルの非公式ファンクラブがあったとします。特に会費などは徴収していませんが、その代わりに、入るためにはそのアイドルのことをどれだけ知っているかの試験が行われる、なんてことがあります。つまり、『好きレベル』が調べられ、一定レベルでないと入れないということです。逆に言えば、一定以上の好きレベルを持っていれば、そのコミュニティに所属することが出来、利益を享受できるということです。
 これが『好き』が『信用性』を得るということです。
 この『信用』のことを、英語で『クレジット』といいます。皆さんも使っているだろうクレジットカードのクレジットです。
 ほとんどの方が使ったことがあるのでわかると思いますが、クレジットカードで何かもの買うときに、我々はその場でお金を支払いません。いったん、クレジットカード会社にお金を立て替えて払ってもらい、私たちはその分を後からクレジットカード会社に払うことになります。ではなぜ、クレジットカード会社はお金を立て替えてくれるのでしょうか? それは、カードを使う人に『この人は後からお金を払ってくれる』という『信用』があるからです。少なくとも、クレジットカード会社はそのように判断しているので、私たちはその場でお金を払わなくても、モノを買うことができるのです。
 このように『信用』というものは、『お金』の代わりに使うことができるものです。もちろん、これはあくまで資本主義での話です。
 とはいえ、好き主義社会でも同じような現象が起こります。『好き』が『信用性』を帯びるようになると、あたかもお金のように、自分の持っている『好き』を使って、情報を得たり、コミュニティに参加したりすることができるようになります。
 そしてさらにその先には、お互いの『好き』――厳密には『好きレベル』を規定している『経験値』や『イイネ』です――を交換し、まさしく『通貨』のように使える社会が到来することになるのです。
 好き主義そのものは、実はもうすでに私たちの社会のいたるところに姿を現し始めています。というより、私たちの生活の大きな割合を占めるようになっています。この流れは、間違いなくコロナショックによって加速され、来るポストコロナ社会では主流となってゆきます。それこそ、本当に『好き』があれば、それを『通貨』のように使って生活できてしまう世の中にすらなってゆきます。
 ここからは、さらに好き主義社会が進むことで、我々の生活や人生がどう変わってゆくのかについてお話してゆきましょう。

3、多重人格社会の到来

 多重人格という言葉を聞いたことはあるでしょうか? 一人の個人の中に、複数の人格が存在している、というイメージが一般的でしょうか。精神病理学的には解離性同一性障害というそうですが、別に本著で学術的な話をするわけではありません。ここで説明してゆきたいのは、好き主義が進んでゆくと、私たちは「人格が多重化する」という現象に直面するという話です。またそれだけでなく、多重な人格を持つことによって、好き主義社会においてストレスフリーな人生が送れる、という現象にもつながってゆきます。これはいったいどういうことなのか? それでは、話を進めてゆきましょう。
 前項で、好きの多重化のお話をしたかと思います。実際に今でも、皆様は自分の中に色んな好きを持っていると思いますし、好き主義社会が進めば、多様化はより顕著になるでしょう。
 繰り返しになりますが、これらの『好き』は経験値とイイネによってレベル付けがなされます。ただし、経験値もイイネも、自分一人では増やすことはできません。リアルかネットかはさておき、経験値もイイネも、何らかのコミュニティを介さなければ得ることはできません。
 このように言うと、「イイネはともかく、経験値は一人で勉強しても溜められるんじゃない?」と思われる方もいるやもしれません。確かに、一人でも本を読むなりネットを見るなりして、情報の蓄積をすることはできるでしょう。
 ただし、それでは経験値になりません。なぜかというと、あくまでも好き主義における『好き』は、評価されて価値が決まるものであるからです。誰かによって「いろいろ知っててすごい」とか「そんなに熱中できるなんて羨ましい」などと思われることによって、はじめて『経験値』と評価されるのです。
 経験値もイイネも、評価されることで初めて意味を持ちます。そして評価を得るためには、何らかのコミュニティに所属しなければなりません。同じ趣味を持ったサークルでも、ネット上のSNSでのつながりでも、友達とのチャットグループでも、なんでも構いません。ただ、何かのコミュニティに所属しないと、好き主義社会は成り立たないのです。
 ここでポイントになるのは、現代のネットワーク社会においては、『好き』によって所属するコミュニティが、今まで以上にバラバラになるということです。

4、外では社交的、家では根暗

 好きによって所属するコミュニティが別になるというのは、昔からあった現象です。例えば『音楽』と『テニス』が好きなAさんという人がいるとします。Aさんは、二週間に一度のペースでバンド練習を行い、同じく二週間に一度のペースでテニスサークルで汗を流しています。ということは、当然ですがAさんには一緒にバンド活動をしている『音楽仲間』と、テニスサークルに所属している『テニス仲間』がいるということです。それはつまり、二つの『好き』があれば、二つの『コミュニティ』があるということに他なりません。
 実際、皆様も同じようなことが多々あると思います。普段遊んでいる友達と、趣味をするときの仲間が違うなんていうのは普通のことでしょう。ネットであれば、その傾向はもっと顕著です。
 ここで重要になるのが、「私たちは所属するコミュニティによって立場や性格が変わることがある」ということです。例えば先ほどの音楽とテニスの例でみてみましょう。音楽仲間と一緒にいるときのAさんは、あまり前に出ず、裏方やサポートに回る立ち位置で、どちらかというと突っ込み役だとします。けれど、テニス仲間といるときのAさんは、むしろ前に出る旗振り役で、弄られ役だとしましょう。つまり同じAさんですが、音楽仲間といるときと、テニス仲間でいるときで、役割や立ち位置、キャラクターが全然違うということです。
 皆様も、きっと思い当たる節がたくさんあると思います。私たちは誰しも、所属するコミュニティによって役割や立ち位置、キャラクターが変わります。会社でいるときと家族といるときで性格が変わるなんていうのは良くある話ですし、家では引っ込み思案だと思っていたお子さんが、学校では活発的で社交的だったなんてことも良くあります。
 ネット社会だと、この傾向はさらに顕著になります。そもそも、リアルの自分と、ネットの中の自分の性格が違うなんていうのは当たり前です。複数アカウントを持っていて、アカウントごとに立ち振る舞いや言動が違うなんていうのも、よくある話です。
 私たちは所属するコミュニティごとに、様々な『面』――つまり『人格』です――を持っています。故意に演じている場合もあれば、自然にそうなってしまったという場合など、どうしてそうなったかは様々ですが、間違いなく私たちはコミュニティごとに『複数の人格』を持っているのです。
 これが「人格が多重化する」という意味です。これまでの社会でも、私たちはコミュニティごとに違う人格を持っていました。ただし、リアルの社会しかなかった頃は、人格ごとの差はそれほどではありませんでした。リアルの社会では、自分の肉体が移動できる範囲のコミュニティしか所属が出来ません。当然、種類や範囲に限界が出てきてしまいます。
 しかしネット社会では、物理的な肉体に縛られずに多様なコミュニティに所属することが出来ます。それこそ、年齢も住む場所も違う人とネットワーク上のコミュニティで仲間になることが出来るわけです。
 そして所属できるコミュニティが多様化すると、おのずと人格の差も広がっていきます。特に匿名性が高いネットワークの中では、普段リアルの中では出せていない自分の一面を出すこともできますし、あまつ違う性別で振る舞うなんてことすらできます。
 好き主義社会では、私たちの人格は『多重化』します。私たちは自分の持つ『好き』ごとに違うコミュニティに所属し、違う人格で振る舞うようになってゆきます。
 それはあたかも、『一つの好き』に対して『一つの人格』といったように、『一好き一人格』とすらなってゆくのです。

5、健康的な多重人格生活

 人格の多重化は、私たち自身に大きな影響を与えます。別に病的になるとか、そういう話ではありません。むしろ、人格の多重化は私たちの精神衛生に良い影響を与える可能性すら秘めています。
 リアルの社会でのコミュニティしかなかった頃は、複数の人格を持っていたとしても、その差はあまりありませんでした。その人格が、自分にとって好ましい人格であれば問題はありません。けれど、自分にとって心地よくない人格であれば、それは当然にストレス要因になります。よく「自分のことが好きじゃない」という人がいますが、それはたいていの場合、「今の自分の人格が心地よくない」という意味です。本当はこんな風に振る舞いたいという人格があるのに、実際の人格とのギャップがあるので、それがストレスの要因になっているのです。
 しかし好き主義が進み、加えてネット上のコミュニティへの所属の比重が高くなってくると、リアル社会での人格とは全く違う人格を手にすることが出来るようになります。しかも好き主義社会では、自分の『好きのコレクション』をゲームのように育てたり調整したりすることになってゆきます。それは同時に、その『好き』に対応した『人格』を自分で調整したり育てたりするようになるということでもあります。つまり私たちは、自分自身をあたかもキャラクターに見立て、客観的に人格を創ってゆけるということになるのです。
 ただし、もちろんこれには負の側面も存在します。特定の人格への固執や愛着が起こってしまう可能性があるということです。誰しも、小説や映画、漫画などを見て、特定のキャラクターや登場人物にあこがれたことがあるでしょう。ただの憧れなら問題ないのですが、自分自身が作り上げた特定の人格が自分の理想に近づきすぎてしまうと、その人格に固執するようになってしまいます。それだけならいいのですが、その好ましい人格を『本当の自分はこうだ』などと思うようになってしまうと、ほかのコミュニティに所属している人格がその人格に引きずられてしまったり、あるいは好ましい人格以外の人格を疎ましく思うようになってしまいます。そうなると、当然にストレス要因になってしまいます。
 好き主義社会においては、いわゆる『本当の自分』というものは存在しなくなります。というより、様々な好きの集合体としてその人を評価するようになると言ったほうが良いでしょうか。つまり、その人を「複数の人格の集合体」として見るということです。
 好き主義社会でストレスフリーに生きるためには、自分自身を『単重人格』ではなく『多重人格』として捉えることが肝要になります。しかも、その多重人格を『調節可能』と捉えることが重要です。
 調節可能というのは、「自分で創ったり捨てたりできる」ということです。人格を『創る』『捨てる』というとイメージが付きにくいかもしれませんが、要するに「『好き』が増えたり変化したりするごとに新しいコミュニティに所属しなおしたり、今まで所蔵していたコミュニティから自分の好きなように抜けてしまってよい」ということです。基本的に『人格』というのは、関係性によって規定されます。簡単に言うと、所属しているコミュニティでどう振る舞うかとか、どんな立ち位置かによって決まるということです。人格を『創る』『捨てる』というのは、コミュニティに『新しく所属する』『抜ける』という意味なのです。
 現代の我々が抱えているストレスのかなりの部分は、現状の人格と自分の思う人格との不一致によって引き起こされています。たいていの場合、私たちは自分の思い描く理想の人格で振る舞うことが出来ません。リアルの社会では、所属するコミュニティについて、物理的な肉体による制限を受けてしまっているからです。
 けれど、ネットの社会であれば、物理的肉体の制限をほとんど受けません。匿名で所属することも、姿かたちや性別を変えることもできます。
 好き主義社会では、私たちは自分の『好き』に合わせて所属するコミュニティを変えてゆきます。その中で、自分の好きなように自分自身の『人格』も調整することが出来ます。最初は当然に『慣れ』が必要になるとは思いますが、けれどうまく慣れてしまえば、私たちは今までのようなストレスを感じない社会を得ることが出来るでしょう。

第8章 ポストコロナ時代のライフスタイル

1、働くという概念の消失

 遠かれ近かれ、ポストコロナ時代は到来します。その時やってくるのが、好き主義社会です。
 好き主義社会が進むと、私たちの『働く形』は大きく変わってゆきます。それどころか、今まで私たちが当然だと思っていた『働く』という概念自体が消失するという現象すら起こってきます。
 仮にあなたが、街頭でこのようなアンケートを受けたとします。
「あなたは何のために働きますか?」
 これについて、あなたはどのように答えるでしょうか?
 もちろん、答えは様々だと思います。しかし、大別すると回答の種類は二つ――『生きるために働く』と『好きだから働く』の二種類です――になります。
 もう皆様であればご理解いただいていると思いますが、かつては働く一番の理由は『幸せ』のためでした。頑張る主義や資本主義だったころは、働けば働くほどお金を稼ぐことが出来、その分生活が豊かになり、目に見えて幸せになることが出来ました。
 しかし、資本主義が崩壊し、お金が幸せを約束してくれないようになると、その前提が立ち行かなくなります。
 とはいえ、現代社会は貨幣経済です。離島で完全自給自足生活でも送らない限り、なんらかの手段で『お金』を稼がなくては生活できません。それはつまり、好き主義社会が進んだとしても、『お金を稼ぐ』という行為自体は残るということです。
 このように説明すると、「なんだ……結局自分たちはいつまでもお金のために働くのか……」と憂鬱になる方もいるやもしれません。ですがそれは少し違います。どういうことかというと、好き主義社会が進んでゆくと、『働く』という概念と『お金を稼ぐ』という概念が分離し、やがて『働く』という概念が消失するという現象が起こるからです。
 働き方について今でも良く議論されることに、『好きなことを仕事にすべきか?』というものがあります。おそらく、誰しもが一度くらいは誰かと議論したことがある内容でしょう。この議論についての意見としては、大抵、次の二種類になります。
 一つは、「もし可能なら、好きなことを仕事にするほうが良い。好きなことをしてお金がもらえるなら、そんなにいいことはない」という考え方です。
 もう一つは、「好きなことを仕事にするべきではない。仕事になると、好きなことがやがて嫌いになってしまったりする。そうならないためにも、好きなことは趣味程度にしておいたほうが良い」という考え方です。
 おそらく、ほとんどの方がこのどちらかの考え方だと思います。一見すると、どちらの意見も的を射ているように思えます。しかし実をいうと、このどちらの意見も本当はちょっとおかしいのです。
 どういうことかというと、どちらの意見も「働くこと」と「お金を稼ぐこと」をイコールだという前提条件に立っているからです。
 確かにこれまでの資本主義の考え方では、『お金』が価値の基準でした。なので、『働くこと』と『お金を稼ぐこと』は基本的には同義とみなされてきました。
 しかし好き主義社会においては、価値の基準は『好き』になります。それでは『お金』は何になるかというと、『生活のために必要なもの』になってゆきます。もちろん、今でもそう思っている人は大勢いると思いますが、好き主義社会ではより一層、多くの方がそのように考えることになります。
 好き主義社会では、『働くこと』と『お金を稼ぐこと』は同義ではありません。もっと言えば、『働くこと』という概念そのものが薄れ、やがて消失してゆくという現象さえ起こってゆきます。
 では何が残るのかというと、『生活のためにお金を稼ぐ』ということです。
 ここでポイントになってくるのは、自分の中に『お金につながる好き』があるかどうかということです。これは「自分の持っている『好き』が直接的にお金になる能力やスキルを伴っている場合」でも、「そもそも働くという行為そのものが好きな場合」でも、「貯金が増えていくことが好きな場合」でも何でも構いません。これらのような『好き』は、どのようにお金を稼ぐかはさておき、『お金につながる好き』です。
 逆に、『お金につながらない好き』しかない場合はどうなるでしょうか? この場合は、どうあれ生活のためにお金を稼がなければなりません。
とはいえ、これまでのような『週五で働く』ということにはならないでしょう。ポストコロナ社会においては、私たちのほとんどは二つ以上の仕事を持つようになります。より正確に言うなら、『仕事』というより『活動』といったほうがいいでしょうか。
 私たちのほとんどは、「好きのための活動」と「お金のための活動」をするようになってゆくのです。

2、人生の何%を『仕事』に捧げますか?

 これまでは、私たちの生活の主体は『仕事』でした。ほぼすべての社会人が、週五で働き、休みの日に体を休めたり、趣味などを行ってきました。
 しかし、コロナショックにより今までの集合型の働き方が否定され、資本主義の崩壊によって会社組織そのものの形が変わるようになると、そもそもこれまでの『週五で働き、週二で休む』という生活そのものが成り立たなくなります。
 これまで私たちが律義に週五も会社や工場に赴き、そこで働いていたのは、そのほうが効率的にお金を稼ぐことが出来ていたからです。
 しかしコロナショックによって、産業革命以降続いてきた従業員集合型の会社組織は、徐々に数を減らしてゆきます。そうなると、次にやってくるのは産業革命以前の家内制手工業的・農家的働き方です。
 本著の前半でお話しした、農奴ジャンの話を覚えているでしょうか? 産業革命以前の家内制手工業的・農家的な働き方というのは、基本的には「自分のペース」で行うことが出来ました。何せ、年貢さえ納めれば、あとは誰からも管理されたりはしません。ジャンたちの時代では、ほとんど誰からも働くことを強制されていなかったのです。
 それが変わったのが、産業革命以降です。今現代にある生産管理や作業管理という考え方は、そもそも機械や組織の都合に人が合わせなければならない、という考え方によって生まれた概念です。蒸気機関が発明され、人間以外のエネルギーによる大量生産が可能になったがゆえに、我々人間は『人間以外のエネルギー』に合わせた働き方をしなければならなくなりました。
 しかし、ポストコロナ社会は違います。もちろん、産業革命以後の工場的・集合的働き方も業種によっては残ってゆくでしょう。しかし、人が集まらなくても済むような職種では、家内制手工業的・農家的な働き方が主流になってゆきます。
 それは、まさに農奴ジャンのような働き方です。ジャンの生活というのは『週三で働き、週三はブラブラしたり教会に行ったりして、日曜日はやっぱり教会のミサに行く』という生活でした。
 市民革命や産業革命が起こる前のこの時代は、神様主義でした。ジャンたちは、祈ることで神様が自分たちを幸せにしてくれると考えていました。つまり、ジャンの生活というのは『週三』が『生活のための活動』で、『週四』が『幸せのための活動』とみることができます。
 ポストコロナ社会では、私たちの生活もジャンたちのような生活になってゆきます。それこそ本当に、『週三』は『お金を稼ぐための活動』をし、『週三』は『好きなことのための活動』をし、『残りの週一』は体を休める、なんていう生活になってゆくのです。

3、コロナショックが示した『所得』の可能性

 もしかしたら、この働くという概念が消え、『お金を稼ぐ活動』と『好きのための活動』に分かれてゆくという考え方は、なかなか実感できないかもしれません。これまで250年ぽっちとはいえ、資本主義や頑張る主義の社会で生きてきたのだから無理もありません。
 しかし、資本主義社会はもう終わります。もうほとんどの人が、お金が幸せにしてくれるなんて信じていません。なのに、自分の生涯の時間の7分の5をお金を稼ぐために使うなんていう今までの生活を、はたして今から10年先、30年先も私たちは続けるでしょうか? 
もちろん、生きるためにはお金は必要です。ですが、生きるのに十分なお金を稼ぐために必要なのは、私たちの人生の70%を費やすことでしょうか? もし、50%の時間で済むのならば、30%の時間で済むのならば――その時、私たちはそれでも週5でお金を稼ぎ続けるなんて生活をするでしょうか?
 皆様は『ベーシックインカム』という言葉をご存じでしょうか? 日本語に訳すと『基本所得制』とでもいえばいいでしょうか。ものすごくざっくり言うと、生活に最低限必要なお金を、政府が支給してくれるという制度です。生活保護制度に似ていますが、生活保護制度は生活が立ち行かなくなった人に対する政府からの援助なのに対し、ベーシックインカムではすべての国民に対し、生活に必要な最低限のお金が政府から入ってくることになります。
 イメージが付きにくいかもしれませんが、私たちは今、ちょうど良い事例を得ています。それは新型コロナウイルス感染拡大による景気低迷や生活困窮を受け、政府が行った『国民一人一人に10万円を支給する』という政策です。あるいは、会社が仕事がなくて従業員を休ませた場合に、従業員に支払う休業手当を政府が補填するという制度でも良いです。
 もちろん、これらはあくまでもコロナショックに対して行われる救済策です。しかし同時に、冷静に考えると『生活に困らないように政府がお金を支給してくれる』という解釈もできます。
 仮に、この『国民一人一人に10万円を支給する』という政策が、一度きりのものではなく、毎月になったらどうなるでしょうか? 
 あくまで仮定の話ですが、もし毎月10万円がもらえるとしたら、本当に必要最低限ではありますが、生活してゆくだけなら何とかならないこともないでしょう。おそらく、今回のコロナショックにより、世界的なデフレが起こってゆきます。物価が下がれば、10万円でも生活できなくはありません。
 これがベーシックインカムです。まさに、最低限の生活のためのお金を政府が全国民に支給してくれるという制度です。
 もちろん、支給されるお金は生活できるギリギリのラインです。なので、それ以上の生活がしたければ、もちろんお金を稼ぐための活動をしなければなりません。しかし、おそらくそうなったときの『働き方』は、これまでのような『週五で働く』とは違ったものになるでしょう。
 本著では、別にベーシックインカム制度について議論したいわけではありません。
 そうではなく、ここで重要になってくるのは、今まさに資本主義社会が終わり、好き主義社会が進んでゆく最中に我々はいて、これまで当たり前だった工場的・集合的働き方から、家内手工業的・農家的な働き方へとシフトしてゆくということ。そして、これまでの自分の生活の70%を『働く』に費やしていたライフスタイルから、『お金を稼ぐ活動』と『好きのための活動』とを両立させてゆくライフスタイルに変わってゆくということです。
 市民革命や産業革命が起こる前は、私たちの生活はすべて自分たち自身のペースで行っていました。それが、資本主義や頑張る主義が起こり、今のような外部からの管理を受けるような生活になってゆきました。そして今度は資本主義や頑張る主義の時代が終わり、好き主義社会という新しい時代になろうとしています。
 もしかしたら私たちは、本当にかつてジャンたちがしていたようなライフタイルになってゆくのかもしれません。

4、勉強しなくてもよい時代へ

 ポストコロナ時代にやってくる好き主義社会では、『勉強』はしなくてもよくなります。
 いきなりこのようなことを言うと、皆様は驚かれるかもしれません。中には、「勉強しなくていいんだ!」ともろ手を挙げて喜ぶ方もいるかもしれませんし、「勉強しなかったらウチの子はどうなるんだ」と頭を抱える親御さんもいるかもしれません。
 正確に言うと、好き主義社会でも『学習』は残ります。しかし、これまでのような『勉強』はしなくてもよいようになってゆきます。
 コロナショックによって『学校』が崩壊してゆくという話を、前にさせていただきました。そもそも江戸時代までは、日本には『塾』はあっても『学校』はありませんでした。西欧列強に仲間入りしたかった当時の日本という国が、子どもたちを『強兵』にするために作り上げたのが学校というシステムでした。
『勉強』も、実はこの時生まれた概念です。塾システムしかなかった江戸時代までは、『学習』はあっても『勉強』はありませんでした。今でも『手習い』なんて言葉を使うことがありますが、子どもたちは何かを『習う』ことはあっても、『勉強する』ことはありませんでした。
 勉強とは、読んで字のごとく『子どもを強くすること』です。もっと言うのであれば、『強くして兵士にする』という考え方によって生まれたものです。
 しかも、近代兵士というのは突出した特徴を持たず、指揮官の命令によって正確に行動できることが必須でした。
 勉強というのは、このために生まれた考え方です。指揮官の命令に従うためには、適切に命令を理解するための理解力が必要になります。命令書も読めなくてはいけませんし、報告書も書けなくてはいけません。地図も読めなくてはいけませんし、武器を扱うためには算数や科学の知識も必要です。そして何より、集団で行動することや、やりたくないことでも取り組める忍耐力が必要になります。
 これらの力を養うために生まれたのが『勉強』です。まさに『子どもを強くする』ことが目的ということです。
 とはいえ、太平洋戦争が終わり、大日本帝国が日本国へと変わった今、かつての『子どもを強い兵士にする』ための『勉強』など必要ありません。必要なのは、あくまでも目的のための『学習』です。
 では、その学習のための『目的』とはどういったものになるのでしょうか?
 好き主義社会においては、『好き』が幸せの価値基準です。もちろん、生きてゆかなければいけないので『お金を稼ぐ力』も当然必要にはなりますが、直接的に幸せにつながるのは『好き』になります。
 ここで思い出していただきたいのは、『好きレベル』を決めるのは『経験値』と『イイネ』であるということです。
 今回、ポイントになってくるのは『経験値』です。
 好きレベルを定める経験値とは、その『好き』にどれだけ夢中になっているか、どのくらい熱中しているかという指標です。これはおおむね、その『好き』に対する知識の深さや熱中している期間で表されます。その『好き』について、どれだけ情報を持っているか、どれだけ知識を深められているかで、その人の経験値が決まってくるということです。
 さて、「好きこそものの上手なれ」という言葉があります。好きなものであればあるほど、上達が早いという意味です。そして好き主義社会では、『好き』が学習の目的となってゆきます。
 つまり、『好き』を深めることが学習の目的になるということです。

5、学習ではなくレベリング

 好き主義社会が進むと、勉強という『子どもを強くする』というものはなくなります。代わりに出てくるのは、『お金を稼ぐ能力を身に着ける』ための学習と、『好きを深める』ための学習の二つになります。前者は、現代社会で生き延びてゆくため。後者は、自分自身の幸せのためです。
 こうなると、いよいよ『学校システム』ではなく『塾システム』が求められるようになります。もちろん、既存の学校という呼び方や存在そのものが急に『塾』に変わるわけではありません。そうではなく、これまでの多種類にわたる教科学習から、個別具体的な選択的教科学習へと変わってゆくということです。
 また、新型コロナウイルスの脅威に対してそうであるように、密集型授業形式からより少人数・個別型の学習形式へとシフトすることになるでしょう。その中で、より『お金を稼ぐために必要な学習』や『興味のあることを深める学習』――つまり『好き』を深堀する学習です――が行われるようになります。
 ちなみに学校の塾化は、学校自身がより特色をはっきりさせてゆくという動きにつながってゆきます。実際に今でも残っている有名私立学校などは、創始者の教えを忠実に守っていたり、独自のカリキュラムを設定していたりします。そもそも、歴史のある有名私立というのは、ほとんどの場合、『塾』に端を発しています。何らかの教育理念を持った創設者がおり、その教育を体現するために作った塾が、今の学校システムの中で成長し、現在の形になっていったのです。
 今後、生き残ってゆく教育というのは、それぞれが独自の教育理念を持ち、特色のあるカリキュラムを持っているところになってゆきます。なぜかというと、好き主義社会では、学校そのものも『好き』で評価されるようになるからです。その学校がどんな経験値を持っているのか、どれだけのイイネを得ているのかで、私たちはその学校の『好きレベル』を評価し、ランク付けするようになります。逆説的に言うのであれば、何かしらの『好き』をその学校が持っていなければ、評価のしようがないということです。
 ゆえにこそ、これから求められる学習機関というのは、お金を稼ぐ能力を身につけさせてくれるところか、多くの賛同と共感を得られる『好き』を持っているところか、あるいはその両方を備えているところかになってゆきます。
 そのような学習機関では、行われるのは『勉強』ではありません。『学習』です。しかも、場合によっては、それは『好きを深める学習』になります。そうなると、これまでのような『勉強嫌い』という子どもはいなくなってゆくでしょう。興味のない教科を延々とやらされる――つまり強い兵士を作るための訓練です――からこそ、勉強嫌いな子どもが生まれてゆくのです。
 しかし、好き主義社会で行われるのは、生きてゆくために必要な学習と、好きを深めるための学習です。特に後者は、言ってみればロールプレイングゲームのレベル上げです。深めれば深めるほど経験値がたまり、自分の『好きレベル』が上がり、その結果、周囲から評価してもらえるようになるのです。
 これまで私たちは、明治時代に生まれた富国強兵政策の名残である『学校システム』にとらわれてきました。しかし、好き主義社会が進むことによって、これまでの『勉強』という概念は消え去り、本当の意味で個別的な『学習』へと切り替わってゆきます。
 それは、あるいは今まで勉強をしてきた大人たちから見たら、奇妙に見える学習かもしれません。しかし、むしろ奇妙に見えるくらいでないと、本当の意味で学校システムから抜け出せたとは言えません。
 今まさに、私たちは抜本的な学習観の転換点にきているのです。

6、ポストコロナ時代の家庭の形

 好き主義社会では、家庭の形もいままでのままとはいきません。
 好き主義社会が進むと、私たちは多重人格化するというお話をしたかと思います。それはなぜかというと、自分の持つ『好き』に合わせて、様々なコミュニティに所属するからでした。
 好き主義社会では、私たちは『好き』ごとに違うコミュニティに所属することになります。繰り返しになりますが、『好きレベル』を評価するには他者からのイイネが必要です。そしてイイネを得るためには、自分の持つ『好き』と同じような『好き』を持っている人たちとつながらなければなりません。
 あなたが仮に『テニス』と『アニメ』という二つの好きをもっていたのなら、テニスのコミュニティとアニメのコミュニティの二つに所属する必要があります。テニスサークルにいるメンバーだけでは、アニメに関するイイネはあまり望めないからです。
 それでは、『家庭』というコミュニティはどうでしょうか? 家庭を構成する基礎は家族関係です。これは、好き主義における『好き』を基礎としたコミュニティとは全く違う構造です。
 そもそも現代の我々が考える家庭の形は、『消費単位』で構成されたものです。高度経済成長によって周囲に物が増え、所得が増えてそれらのものを買えるようになってきました。そんな中で形作られたのが、現在の我々がイメージする『家庭』の形です。
 そもそも経済成長前――特に農業や漁業などの第一次産業従事者が国民のほとんどを占めていたころは、家庭とは『生産』の最小単位で構成されたものでした。家業という言葉が象徴しているように、作物を育てるのも、何らかの品物を作るにしても、すべて『家庭』が一単位でした。
 しかし高度経済成長が起こり、周囲に品物があふれ、自給自足ではなくお金を貰って生活をする貨幣経済になると、家庭の単位は『生産』ではなく『消費』となりました。車も、カラーテレビも、冷蔵庫も洗濯機も、家庭で一台といったような買われ方をしました。消費の最小単位が『家庭』だったのです。
 今現代の私たちがイメージする『家庭』は、このころに生まれた『消費』をベースとした家族形態のことです。資本主義社会であればこそ、成り立ってきたコミュニティの形です。
 では、資本主義社会が終わり、好き主義社会となるとどうなるでしょうか? 

7、家庭のルームシェア化

 好き主義社会における『家庭』は、『生存』をベースとした単位によって構成されることになります。
 貨幣経済そのものが残ってゆく限り、好き主義社会であっても、生きるためにはお金が必要です。しかし、だからと言って個人個人が自分でお金を稼ぎ、一人で生きてゆくということにはなりません。さみしいとか誰かと一緒にいたいとかいう、感傷的な理由ではありません。ものすごく歯に衣着せずに言うと、家庭を作ったほうが、一人で暮らすよりもコスパが良いからです。
 これは、言ってみればルームシェアの考え方です。一人暮らしだと、家電製品も何もかもが必要です。けれど、ルームシェアであれば、必要最低限の私物を除き、共有することが出来ます。家賃だって、複数人で分割したほうが安いでしょう。
 これが『生存』を単位とするという意味です。好き主義社会における家庭とは、『ルームシェア』に近い形式になります。もちろん、共同で子育てもするでしょうし、団らんもするでしょう。決して、ルームシェアに近いからと言って、関係性が希薄になるとか、そういうわけではありません。
 とはいえ、今までとは大きく形を変えてゆくでしょう。
 生産をベースとしていたころは、一緒に『作る』という行動が家庭を構成していました。消費をベースにしていたころは、一緒に『使う』という行動が家庭を構成していました。
 しかし、好き主義社会では、100%同じ『好き』を共有することにはなりません。一部の『好き』を共有することは、もちろんあるでしょう。しかし、個人の中の好きは多様化し、多重化します。家族の全員が、同じ『好きのコレクション』を持つなんてことはあり得ません。
 そして『好き』が違えば、所属するコミュニティも違うということになります。生存をベースにしているので、帰ってくるのはこれまでのように『家庭』にはなるでしょうが、それだけでは経験値やイイネを増やすことはできません。
 シェルターと言い換えてもいいかもしれません。これからの家庭は、避難場所のような存在になります。私たちはシェルターに軸足を置きつつ、自分の『好き』に合わせたコミュニティに所属するという生活を送るようになってゆくのです。
 家庭そのものの単位は、おそらくこの先も残ってゆくことになります。特に子育てまで含めた生存をベースにした場合、やはり家庭が最小単位となるでしょう。
 しかし好き主義社会が進めば進むほど、家庭という器では、家族を受け止めきれなくなります。家庭では、家族の『好き』をまんべんなく満たすことはできません。そもそも、家庭ですべてを受け止めきろうという考え方自体がナンセンスです。
 家庭も1つのコミュニティに過ぎない。それが、ポストコロナ時代の家庭の形になってゆくのです。

第9章 好きの『格差社会』を生きる

1、評価とともに生まれるもの

 これまで、今まさにやってきつつある好き主義社会について、いろいろとお話をさせいただいてきました。本著の最後となる本章では、好き主義という新しい価値観が席巻した世界で、私たちはどのように生きてゆくことになるのか、あるいはどのように生き延びてゆけばよいのかについて、お話をしていきたいと思います。
 これまでの解説で、好き主義社会では『好き』が価値の基準になるということをお話してきました。これからの時代では、あなたの持つ『好き』が、あなたの評価の主たるものになってゆきます。
 これをどう受け取るかは、もちろん人それぞれでしょう。中には、「ようやく自分が評価される時代が来た!」と喜ばれる人もいると思います。
これまでの資本主義社会や頑張る主義社会では、お金にならなかったり、ただの遊びやゲームに過ぎないものは、評価されてきませんでした。
 ですが、好き主義社会になると、そういったものにも光が当てられるようになります。量と質が伴っている『好き』であれば、それは評価に値する『好き』です。もちろん、そんな『好き』を持っていれば、その人自体も評価され、信用を得ることが出来ます。それが好き主義社会における価値観であり、評価の仕方になります。
 また、好き主義社会では多様な『好き』があるのが当然という価値観となります。マイノリティだからと言って、一方的に評価されないなんてことはありません。もちろん、『経験値』や『イイネ』が伴っていることが前提ですが、どのような『好き』であろうと、少なくとも認めてもらえる社会にはなってゆくでしょう。
 このように述べると、非常に精神的に自由な社会が来るような気がしてしまいます。しかし、実はそうではありません。好き主義社会が進んだとしても、それは決して誰もかれもが評価される社会の到来を意味しないのです。
 どういうことかというと、ありとあらゆる評価は『差』を生みだすからです。
 資本主義社会であれば、お金を持っているか持っていないかで、その人の評価に『差』が生まれました。頑張る主義社会では、頑張れる人かそうでないかで、その人の評価が決まってしまっていました。評価には、必ず『差』を生むという面があるのです。
 現代のことを、よく『格差社会』といいます。もちろんこの場合の『格差』とは、『経済的な格差』のことを指します。
 ちなみに、厳密に言うと格差社会とは『差』があるだけの社会のことではありません。差を埋めることが困難な社会のことを、格差社会と呼びます。
農耕時代からそうであったように、人が集まり社会を構成すれば、どうしても階級がうまれます。『差』が出来るのは世の常です。しかし、仮に『差』があったとしても、本人の努力や機会によって、その『差』を覆すことが出来るのならば、それは格差社会とは呼びません。ただ単に『差』があるだけの社会です。
 けれど、格差社会は違います。お金を持っているものは、よりお金を持つことが出来、お金のないものはいつまでもお金が増えない。不可能ではないけれど、貧乏人がお金持ちになるのが困難な社会。これが資本主義における格差社会です。
 そしてこれは、好き主義社会でも当然に起こる社会現象です。

2、好きカーストの誕生

 これから先の未来では、私たちは『好き』の格差社会を生きることになります。恋愛カーストと同じように、これを『好きカースト』と呼んでみたいと思います。
 あくまで仮にですが、本当に『国民総ステータスカード制』が導入され、『好きレベル』がゲームのように可視化されたと仮定しましょう。免許証やマイナンバーカードのように、一人に一枚、『ステータスカード』が配られたとします。あるいは、そういったスマホアプリが開発されたとしましょう。
 そのステータスカードには、あなた自身が持っている『好き』が載っています。
 例えば、仮にあなたのステータスカードに、『アニメ』という『好き』の項目があるとしましょう。先述したように、好きレベルは『経験値』と『イイネ』によって規定されています。ステータスカードは、あなたのSNSや学校などの成績、インターネットの閲覧情報とすべて連携しています。動画サイトの閲覧履歴や視聴情報もすべて蓄積されています。
 ステータスカードは、どのくらいアニメを見ていたのか、アニメに関する情報をどれだけ持っているのかを蓄積し、それらを数値化することで『経験値』をはじき出し、今のあなたの経験値を評価します。
 また、SNSなどの情報から、あなたが発信したアニメに関する情報にどれだけ『イイネ』がついたか、あるいはアニメに関するコミュニティに属する人間のフォローがどれだけもらえているのかを計測し、『イイネ』を評価します。
 そして『経験値』と『イイネ』を総合し、あなたの『アニメ』の『好きレベル』をはじき出します。
 しかも、ステータスカードの機能はそれだけではありません。ステータスカードには、今のあなたの『好きレベル』が載っているのと同時に、あとどれだけの『経験値』と『イイネ』を貯めれば、次のレベルになれるのかまで載っています。
 果たしてここまでのシステムが実現可能かはさておき、仮にこれほどの機能を備えたステータスカード制が導入されたとしましょう。その結果は明白です。私たちは、ありとあらゆる価値をこの『好きレベル』で評価するようになります。それは他人だけでなく、自分自身の価値も『好きレベル』で定めるようになるのです。
 しかも、本当にステータスカードに『次の好きレベルまで経験値○○ポイント、イイネ○○カウント』と記されるようになったとしたら、いよいよ私たちの生活は『好きレベル』にすべて支配されるようにすらなるでしょう。
 これまで私たちの価値を定めていた勉強や、出世や、人間関係などは、すべてあいまいな評価で決まっていました。どれだけ勉強したら、東京大学にはいれるようになるかは誰も教えてくれません。どれだけ頑張ったら、課長に出世できるのかははっきりわかりません。意中の相手を振り向かせるのに、どれだけの感情を勝ち取ればいいのなどさっぱりです。
 しかし、ステータスカードは違います。『好きレベル』を明確に教えてくれます。それどころか、あとどれだけの『経験値』と『イイネ』を貯めれば次のレベルアップが来るのか教えてくれます。
 想像していただければわかるかと思いますが、間違いなく人々は『好きレベル』を生活の主軸に置くようになるでしょう。多重人格化の項でお話ししましたが、好き主義社会では私たちは自分自身をキャラクターのように見立て、調節したり育成したりするようになってゆきます。そりゃそうです。これだけ明確にレベルがわかり、次のレベルアップまでの条件がわかれば、誰だって自分自身を育て、調整するようになります。
 また、『勉強』という概念がなくなってゆくことも、前の項でお話ししました。これもイメージしていただけると思います。勉強を嫌がる原因のほとんどは、過程と成果がよくわからないことに起因しています。どれだけ勉強していいかわからない中で、とにかくやれと言われるので、子どもも大人も勉強嫌いになってしまうのです。
 しかし、ステータスカードによって、次のレベルに達するための条件が明確化されていたら、話は別です。しかも、レベルの指標は『好き』です。『好きレベル』が高ければ高いほど、周囲からすごいと言ってもらえ、承認してもらえ、信用してもらえるのです。
 そうなれば、人々はレベル上げに励むことでしょう。それは『勉強』ではなく『レベリング』だからです。ロールプレイングゲームをしたことのある人はわかると思いますが、たとえ出てきた敵を機械的に倒すだけのつまらない作業だとしても、どれだけの経験値を貯めればレベルアップできるのかがわかり、その結果目的を達成できる――ボスを倒したり、アイテムを手に入れたりする――ことがわかれば、つまらなくても人々はレベル上げに励むことができます。
 これこそ『勉強』という概念が消えるという意味です。さらにここまでくると、もしかしたら『学習』という言葉ですらなくなるかもしれません。もはや文字通りの『レベリング』になるのです。

3、生活が『好きレベル』に支配される中で

 好きレベルが浸透し、可視化できるステータスカード・システムが出来たとしたら、私たちの生活は『好きレベル』に支配されるようになるでしょう。というより、もはや人生の価値を『好きレベル』にゆだねると言ってもいいのかもしれません。
 マズローの五段階欲求説では、人間の持つ最終的な欲求は『自己実現の欲求』とされています。五段階欲求説を支持するかどうかはさておき、確かに我々の中には多かれ少なかれ、『こうありたい』という自己実現の欲求があるかと思います。
 とはいえ、現実に自己実現といわれても、ほとんどの人が『良くわからない』というのが本音ではないでしょうか。自分のことであるがゆえに、客観的な自己評価というのはなかなかに困難だからです。
 しかし、好きレベルによって『自己』というものが評価されるようになればどうでしょうか? そうなれば、客観的な自己評価ができるようになります。それどころか、ステータスカードがあれば、どうすれば自分の好きレベルを上げられるのか、つまりどうすれば自己の評価を上げてゆけるのかがわかるようになります。人々は、これまでと違って自己実現への道筋を手にすることが出来るようになるのです。
 このように言うと、もしかしたら『なんて素敵な世界なんだ!』と思う方もいるかもしれません。確かに、評価が可視化され、明確化されるというのは利点も多いです。まして、その評価の上げ方まで明確になったとしたら、確かにそのメリットは計り知れません。
 しかし、です。評価が明確になるということは、『差』が明確になるということでもあります。現代の我々は、例えば友人であっても、自分の給与の金額や貯金の金額を明確に言うことはあまりないでしょう。むしろ、親しい友人であればあるほど、自分の給与や貯金の金額を教えるのを忌避する人のほうが大半です。
 それはなぜかというと、『金額』という明確な数字を言うことで、明確な評価が決まってしまうからです。そしてその結果、明確極まりない『差』がわかってしまうからです。
 好きレベルも同じです。仮に本当にステータスカード・システムが出来たとしたら――SNSが発達し、ITがあらゆるものと連携してゆけば、決して実現不可能なものではありません――私たちは、明確な『レベル』によって評価が定まることになります。そしてそれは当然に、明確極まりない『差』を私たちに突き付けることになります。
 これが単なる『差』だけであれば、さほど問題になりません。しかし、『好きの差』は、やがて『好きの格差』を生みます。
 いえ、「やがて」といいましたが、それは正確な表現ではありません。もうすでに、『好きの格差』は表面化しつつあります。
 今までですら、夢中になれる趣味を持っている人を、無趣味な人は羨んできました。人に自慢できる『好き』を持っている人を、羨望の目で見ていました。
 それがさらに『好きレベル』で明確に自分と相手との『差』が可視化されてしまったとします。そうなれば、もはや言い逃れのできない『差』を人々に突き付けることになります。
 もちろん、『次のレベルアップ』への道筋は示されています。レベリングを行い、自分自身の好きレベルを育てることはできます。
 しかし、好き主義社会は、本著の表題の通り『好き』が『通貨』になる世界です。『好きレベル』が高ければ高いほど評価され、信用されます。信用はやがて通貨性を帯びるようになり、それを使うことで、好きレベルの高い人は、より多くの経験値やイイネを得ることができ、さらに『差』が広がるようになってゆきます。
 量と質の高い『好き』を持っている人はより評価され、低い『好き』しか持っていない人は評価されない――『好きの格差社会』とは、つまりこういうことなのです。格差は、一度広がるとなかなか覆すことが出来ません。もちろん、『バズる』という言葉が示すように、ひょんなことから一気に『話題』になり、評価をもらえるようになることはあるでしょう。しかし、それはほとんどの場合、個々人が意図して起こせるものではありません。
 そうなると、『好きレベル』の低い人と高い人の間には、大きな差が生じるようになってしまいます。しかも、今までのようなフワッとしたものではありません。好きレベルによって明確化されてしまっているのです。こうなると、もうごまかしようがありません。低い好きレベルからなかなか抜け出せない人は、明確化された『低い評価の自分』を突き付けられ続けることになります。
 当然に、これは心理的な不安をもたらします。不安を抱いた人が増えれば、それがもたらすのは社会不安です。現代でも、富裕層と貧困層という所得格差が広がってゆくと、社会不安が起こり、犯罪率が増加したりする現象は地球上のありとあらゆる国や地域で起こっています。
 好きの格差が広がれば、同じような社会不安が起こるのは自明の理です。しかも『お金の差』以上に、『好きの差』はその人のアイデンティティに大きな影響を与えます。今ですら、失業したり借金を抱えたりして自殺する人が後を絶ちません。アイデンティティの喪失が、人間を破滅的な行動に走らせるのは、歴史上枚挙に厭わないのです。
 好きレベルは、その人の評価や信用そのものになります。それはもはや、『好き』が人間のアイデンティティになるということです。そのアイデンティが脅かされたり、あるいは喪失した時に人々がどうなるのか――あまり想像したくないことになるでしょう。

4、『好き』をデザインする

 もはや何をしようが、『好き主義社会』は間違いなく到来します。『好きが自分たちを幸せにしてくれるという価値観』が、これからの社会のパラダイムとなってゆきます。すでに始まり、コロナショックによって加速されてしまったこの流れを止めることは、誰にもできません。
 それでは、近い未来に到来するであろう『好き主義社会』で、私たちはどのように生きてゆけばよいのでしょうか? あるいは、どのように生き延びてゆけばよいのでしょうか?
 まず大切になるのは、自分が今その時に持っている『好き』に固執しないということです。多重人格化の項でもお話しましたが、私たちは自分の持っている『好き』にあわせて、様々な人格を持つようになってゆきます。これらの人格は、『好き』や『所属しているコミュニティ』によって調節が可能なものです。
 私たちはどうしても自分が思う理想的な人格を手にすると、それを手放したくなくなります。よく『本当の自分はこうだ』とか『自分の個性はこういうものだ』と思っていらっしゃる方がいますが、好き主義社会では『単重な人格』ではなく『多重な人格の総体』でその人個人を評価します。平たく言えば、いろいろな自分の面をすべて総合して、『自分である』と評価するということです。
 そしてこの『自分の色々な面』は、ゲームのキャラクターのように育てたり、捨てたりできるものです。ここで重要になるのは、自分をどれだけ客観的にデザインできるかです。たとえ一つの『好きレベル』が低かろうと、そこだけをみて「自分はダメだ」などと思わないことです。繰り返しになりますが、好き主義社会においては、人の評価は『好きの集合体』で決まってきます。特定の『好き』や『人格』だけで判断しないことが、好き主義社会を健康的に生きるのに必要なものになってゆくのです。
 また、好き主義社会では『発信』が非常に重要になってきます。何せ、発信しなければ『イイネ』が得られないからです。この発信をするためには、誰かとつながる必要があります。そりゃそうですよね。イイネを自分で自分に着けても意味がないからです。
 好き主義社会では、実は今まで以上に『コミュニティ』が大きな意味を持つようになります。ネットワークの中であろうと、現実の世界であろうと、どちらでも構いません。とにかく、コミュニティに所属し、関係性の中で生きてゆくことが今まで以上に大切になるのです。
 そして何より重要なことは、何か一つでも良いので『お金につながる好き』を持つことです。このように書くと、「なんだ、結局、金か」と顔をしかめる方もいるやもしれません。しかし、貨幣経済が続く以上、生活の糧を得ることは続けなければいけません。
 かといって、今の社会のような働き方が続くわけではありません。好き主義社会が進めば進むほど、今までのように生活のほとんどを仕事に費やすようなライフスタイルはすたれてゆきます。
 とはいえ、お金を稼ぐ活動は大なり小なりしなければなりません。そんなときに、一つでも『お金につながる好き』があれば、『お金を稼ぐ活動』と『好きなことをする活動』を同時に行うことが出来ます。それだけでなく、その『好きレベル』を上げれば上げるほど、経済的な利益も増えるようになってゆきます。
 これは生活的にも精神的にも大きな優位性をもたらしてくれます。『よりどころになる好き』と言っても過言ではありません。
 このような『お金につながる好き』を今からでも少しずつ育ててゆくことが、好き主義社会を生きてゆくうえでの重要な生存戦略となるでしょう。

終章 ポストコロナ時代の生存戦略

 これからやってくるのは、今までの資本主義や頑張る主義とは全く違う価値観の世界です。
 繰り返しになりますが、本当はこの変化は50年くらいかけて徐々に進むはずでした。少しずつ『好き主義』という価値観が社会に浸透し、我々の人生の指標となってゆくはずでした。
 しかしコロナショックという予想だにしなかった事態により、緩やかに訪れるはずだった変化の波は、濁流となって我々を襲うこととなりました。もはや、この流れに逆らうことはできません。誰あろう、我々自身がこの流れを巻き起こしているからです。
 変化には大きな痛みを伴います。それが我々の社会の根底を築いてきた価値観革命ともなれば、変化の過程で我々に襲い掛かる痛みは、おそらく経験したことのないものになるでしょう。
 そもそも、このコロナショックによって私たちや私たちの社会が受けた痛みこそ、価値観変化による痛みの一端なのです。この痛みは、これから太く長く続くことになります。
 ですが、わけもわからず転ぶのと、躓くことがわかっていて転ぶのでは、その意味は大きく違います。ともに転んでしまうことには変わりありません。躓くことがわかっていたとしても、価値観革命という巨大な岩では、転ぶことを回避することはできないからです。
 しかし、転ぶとわかっていれば、手をつく準備をすることが出来ます。ケガをしないように、クッションをあらかじめ持っておくことは出来ます。
 私たちに今問われているのは、まさしく今起こっているパラダイムシフトの中で、これからどのように生き延びてゆくかということなのです。


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