入社の頃の「制作部で

入社した1983年、会社は大阪の東天満にあった。日本テレビに遅れる事5年、1958年に突貫工事でなんとか開局。

用地はお寺のお墓を移転して、そこに建てたものだった。「お墓の跡地」は縁起が良いらしい。

僕が「制作部」に配属された当時、5階にある「制作部」の北東の角の席は「鬼門」と呼ばれていた。

そこに座った部員が次々と亡くなったからである。もちろん、例外的に生き延びた人もいたが。

スタジオは2つにサブ(副調整室・ディレクター等が座り、スタジオに指示を出す部屋)が1つ。

つまり、一度に2つの番組は作れなかったのである。

建物は増築に増築を重ねて、複雑に入り組んでいた。

何故か、スタジオの中を通らないと行けない場所があったり。

一階には正面玄関とパーラーがあった。今みたいにテレビ局の警備も厳重では無く、玄関に警備員はおらず、誰でも自由に入れた。

その後、「包丁を持った男」が乱入して来て、警備も厳しくなった。

社屋の周りに目を向けてみよう。

目の前にあったのが、中華料理店「十番」。ここで、「11PM」のADをしていた同期入社のS君とは、本番の日、ラーメンとチャーハンを5分で食べた。

レストラン「バッファロー」。「高校生クイズ近畿大会」の長時間の会議の時、Iチーフ・プロデューサーが料理とビールの出前を大量に取ってくれた。

このレストランの料理は何を食べても脂っこく胃もたれがした。Iチーフ・プロデューサーが「ツケ」をものすごく溜めており、彼からの注文を店側は非常に嫌がっていた。

「11PM」のMC藤本義一さんとTチーフ・プロデューサーがリハーサルまで水割りを飲みながら待っていたステーキハウス「ティジャ」。正面玄関を出て、左隣にあった。西川きよしさんの妻・西川ヘレンさんの経営。

ここの「ステーキ重」は絶品だった。

僕はコンコンと店のドアを軽く叩き、店内に顔をそっと入れて、藤本さんに「リハーサルが始まる事」を伝えていた。

同期のAD・S君も藤本さんを呼びに行っていたが、「呼び込みの仕方」が荒っぽかったのかも知れない。(実際の現場を見ていないので分からないが)

藤本義一さんは2人のADの比較を連載中のエッセイに面白おかしく書かれた。

プロデューサーのNさんが好きだった鮨屋。どのネタもジメッと湿っていた。「新鮮」という
言葉と真反対だった。

Nさんが何故ここの湿ってじっとりしたお寿司が好きだったのか、今でも不思議に思う。

「11PM」の生放送が終わって行った店、二軒。

一軒はおばあちゃんが1人でやっていたお好み焼き屋。瓶ビールを勝手に出して飲んでいた。ここの特製餃子は美味しかったなぁ。

もう一軒は空心町の交差点にある「にんにくラーメン」。

チャーシューやもやし炒めをアテにビールをグビグビ飲みながら、「11PM」や「テレビ」について激論を交わした。それはいつも午前3時過ぎまで続き、帰りのタクシーに乗り込んだ時には東の空が明るくなっていた。

「制作部」の宴会は「南川会館」二階、畳敷きの大広間がよく使われた。

「制作部」はある種の「野武士の集団」。

宴会で僕たち新人AD3人が「一癖も二癖もある野武士たち」の前で「宴会芸」を披露する事になり、緊張しながらも一生懸命練習。白い白鳥の扮装をして「ラインダンス」を踊った。

緊張はMAXに達したが、先輩プロデューサーやディレクターにウケたかどうかはもう憶えていない。

何故、今回「旧々社屋」(開局当時の社屋)の事を書いたかと言うと、「テレビの黎明期の雰囲気」が残り、「分業化されていなかった番組作り」「世の中に『裏と表』があった時代」の事を書き記したかったからである。

「インターネット」も「スマホ」も無い「日常」。

1983年4月、2時のワイドショー」(1979〜1992)班には同期のU君。「11PM」(1965〜1990)班にはS君。「おもしろサンデー」(1982〜1992・関西ローカル)班には僕が配属された。

「制作部」は3班に分かれていた。

僕は同年7月に「11PM」班に異動になる。

ほとんどが社員。今の「制作部」の半分も人はいなかった。

新人AD3人は「テレビ黎明期の空気」を吸い込みながら、テレビマンとして育っていった。

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