鶴橋康夫監督を悼む

「『視聴者』と『相手役』と『監督である僕』と『映像の神様』の4つのショット」を撮らせて下さい。

1976年の連続ドラマ「新車の中の女」の撮影現場で、鶴橋康夫監督が主演の浅丘ルリ子さんに言った言葉だ。

鶴橋康夫監督は、基本、4方向から2カメで8パターンの映像を撮って、それを粘りに粘って、緻密に編集する。

僕は1994年夏、大阪の「制作部」から東京の「ドラマ制作部」に異動になった。

「阪神淡路大震災」の起こる前の年の事だ。

東京に出て来て、最初にAP(アシスタント・プロデューサー)として付いたドラマが小林旭さんが主演の連続ドラマ「寝たふりしてる男たち」(1995年1月ドラマ)。

僕は、APにも関わらず、幸運にも、鶴橋康夫監督の側にずっとベタ付きする事になった。

小林旭さんと鶴橋監督の初顔合わせ。

小林さんと鶴橋監督は、「ゴルフ」の話で盛り上がった。

「役」の話は全くしなかったが、撮影現場の二人の関係は申し分なく良好だった。

監督がドラマの記者会見で大阪本社に行く事になった。

「監督、『フグ』食べにミナミに行って、関空から最終便で東京に帰りませんか?」

「フグ」が大好きな監督は、その提案に両手を挙げて大賛成。

監督と僕は、「道頓堀の『美味しいフグ料理屋』」に早い時間に行き、「昼ビール」を飲みながら、「てっさ」と「フグちり」を山ほど食べて大満足。

「ほろ酔い気分」で、関空から羽田空港に向かう最終便に乗ったのだった。

次に鶴橋康夫監督と御一緒したのが、中谷美紀さん主演の連続ドラマ「永遠の仔」(2000年4月ドラマ)。

共演は、椎名桔平さん、石田ゆり子さん、渡部篤郎さん。

原作に出て来る四国の霊峰・石鎚山。

監督、カメラマン、僕らで、石鎚山に登った。

片道、4時間強。石鎚山の山頂手前で、監督は疲労困憊。蹲ってしまった。

実際のドラマでは、「石鎚山ロケ」は無かったが、今思うと、登って良かったと思う。

「石鎚山」の「厳粛な佇まい」がひしひしと伝わって来たからである。

ロケ車の待っている駐車場まで戻って来た時、売店のシャッターが閉まりかけていた。

店に無理言って、買った缶ビールをグビグビ飲みながら、監督はじめ僕たちは松山市の全日空ホテルに「ほろ酔い」で向かったのである。

夕食後、解散になり、自分の部屋で寝る準備をしていると、ドアをコンコンと叩く音がする。

「今頃、誰かなぁー?」

と思って、ドアを開けたら、鶴橋監督が立っていた。

「ラーメン、食べに行くぞ!」

監督とカメラマンと僕は、松山の夜の街に繰り出し、その夜ラーメンを食べた。その時のラーメンの味は一生忘れない。

次に鶴橋康夫監督と御一緒したのは、佐藤浩市さん主演の連続ドラマ「天国への階段」(2002年4月ドラマ・鶴橋監督が読売テレビで最後に演出した作品)。

ドラマは北海道・浦河を舞台に始まる。

2週間にわたる北海道ロケ。監督は毎晩、撮影が終わってから、俳優さんとお酒を共にした。来る夜も来る夜も。

俳優さんは「出演シーン」によって、「朝ゆっくり」とか、「夕方で終わる」とかがあるが、監督は一日中連日撮影現場にいなければならない。

それでも、「俳優さん」と飲むのが、「鶴橋監督の流儀」だと僕は勝手に思っている。

飲みながら、俳優さんの話を聞き、自分の意見を言い、「意思の疎通を図りながら撮影に望む事」を大切にされていたのだろう。

そんな「鶴橋康夫監督」が逝去された。

「鶴橋組」の一員としては途方に暮れるばかりである。

「OK、オライー、大オッケー‼️」

どこからか、まだ監督の声が聞こえて来る気がするのは僕だけでは無いと思う。

僕は1994年から監督と御一緒したが、「木曜ゴールデンドラマ」時代、いやそれ以前から鶴橋康夫監督とドラマを創り続けたキャストやスタッフの方々も大勢いらっしゃる。

その方々の「悲しみ」は想像さえ出来ない。

鶴橋康夫監督、有難うございました。
監督の御冥福を心からお祈り致します。

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