曖昧さ

僕は思う。

今の時代ほど、「曖昧さ」の求められている時代は無いと。

「良い」と「悪い」は「主観的な価値観」である。

全ての物事は、見る角度によって、見る人によって、「良かったり」「悪かったり」する。

「客観的」な「善」「悪」というものは、この世に存在しないのだ。

それを、コンピューターの「ON」「OFF」で決める「デジタル思考」によって、「善」「悪」が決められる。

「日本人」は「世の中はクリーンであると考える国民性」を持っている。

でも、「人間」には「差別意識」が必ずあり、それを奪い取る事は不可能だ。

インターネットの時代になり、「罪人」は消し去れ!という論調をよく聞くようになったと感じている。

何年か前、「反社」と行動を共にした芸人達が芸能界から追放された。

「反社」という言葉が存在するという事は、「一般人が暮らす正しい社会」があるとみんな思っているはずだ。

しかし、考えてみれば、「反社」になっている人の中にも、親に虐待され、愛情も全く受けず、「反社」に入るしか、道が無かった人もいるのかも知れない。

「想像力」を持つことも肝要なのだ。

そういう意味で、「一般の暮らす正しい社会」と「反社」、二つだけに分けられるものなのだろうか?

この文章の冒頭で書いた「曖昧さ」が必要なのでは無いか?

中学高校時代、グレたり、不登校になったりする子どもたちもたくさんいる。

そういった人たちを「社会が排除しようとする風潮」が無くは無いだろうか?

一つのニュースが流れると、ネット上で一斉に攻撃し始める。あたかも、「自分たちが正しい考え」を持っているかのように。

「正しい考え」も「誤った考え」も無いのである。

あるのは、その「発言した人の、責任のある意見」のみだ。

ありとあらゆるところで、「謝罪させよう」とする。

ありとあらゆるところで、「謝罪さえすれば、大丈夫」だと思う輩がいる。

「謝罪」の有無では無く、「起こった事実」や「話し合いの経過」の公開が大事なのでは。

それに対して、「実名」で意見を述べるのが、「正々堂々」としていて、それがあるべき姿だと僕は思う。

でなければ、そっと「曖昧」にしておく方法もあるのでは?

「多様性の時代」と言われている。

今こそ、「グレーゾーン」、「曖昧」が大切なのである。

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