「私とは何か」という問いはもっと俗っぽくなればいい

偉い人が言っているように「私」は主体なので対象にすることは難しい。それにしたってもう随分長いこと「私」ってなんだろうは問われ続けて、いろいろな答えが提出されてなお「?」のままでいる。



「私たち」一人ひとりが「私」であるから、みんながみんな、「私」の問題として「私」に向き合うわけだ。そうした構造上、その都度問われ直される「私」に分かりやすい答えがありえると思うことはナンセンスなんだろう。「私とは何か」と言って、偉い人が教えてくれるのは答えではなくヒントでしかない。



だから、「私とは何か」と言って世に論じられるところは、「私」の答えではなく、方法論やその意義となっている。ただ、意義はあらためて問うまでもない。さっき言ったようにそもそも「私たち」は構造上永遠の「?」を絶対に持ち続けるのだから、意義もなにもない。

ここでループする。「それにしたってもう随分長いこと」である。「私たち」はあるとき思い出したように「私」ってなんだろうって思うのだ。それぞれ、いろいろ、違った形で、違ったきっかけで。「それにしたって」そのとき助けてくれるもの・思想があまりに貧弱すぎないか。もっと対処療法を用意するべきじゃないのか。絶対に答えはないのだとすればなおさらだ。



私はかつて西田幾多郎という対処療法を見つけた。この人、そんな「?」は気の迷いだからと切り捨てる。切り捨て方を説明するのに苦慮していてちょっと何言ってるか分かんないが、そんな気の迷いは捨てて、己とみんなを信じなさいみたいな熱っぽい教えは意外とシンプルで救いがある。

もう一つ。私はかつて『複雑さを生きる』という本を読んで「複雑」はキーワードだと思った。この世に存在する数あるものの中でもとりわけ複雑なもの、それが「私」であり「私たち」である。「複雑さを生きる」というのは、「私」「私たち」を「私」「私たち」という枠にハメて理解せず(そんなものあるのか知らないが)ありのまま受け入れる態度を示すものだ。これは西田だなと腑に落ちた。



お気づきだろうが私はすでにこの態度を反故にしている。語っている時点で枠にハメてる。怖。「私」の嫌らしいこと。複雑ですね「私」って。

この結論で、再度ループしよう。「もっと対処療法を用意するべき」とさっき私は言ったね。それも「私」はさせてくれないらしい、ということになる。手も足も出ない。この事実を認めることは大切だと思う。

ここで、諦めるか、諦めないかで道は分かれる。いま・こうしているあいだにも「私」は少しずつ時間を使っていて、残り時間を消化している。これを前進していると見るか。「前進」は「私」同様、「私たち」が創り上げた価値観であるとすれば、まずその縛りに疑問を付すなら、「私」はどうしたらよいのだろう。

諦める=「私」とは何かを問うことを、誰もがもれなくプレイするゲームだと思って楽しむというのは、ひとついい手ではないかと思っている。

注意事項一。このゲームをプレイしている自覚を持つと、実はみんなはもうクリアしていてその先の別のゲームをプレイしているんじゃないかという不安にかられるところが玉にキズ。
注意事項二。これを「人生の暇つぶし」と思おうものなら積極性が失われる。答えに近づく姿勢が失われる。でも答えはないのが前提なのでそれはショートカットでこのゲームをクリアしてしまうようなもの。
注意事項三。クリアが目的でないとすると、何のためにしているのか分からなくなる。

他にもたくさん注意事項はある。私が言いたいのは、このゲームのチュートリアルがあってもいいんじゃないかなと言うことである。それさえない、できない、それはルール違反だとするのは思想家の甘えではないだろうか。そして、きちんとチュートリアルを用意してもっとみんなに布教すればいい。これより、「私」より大事なこと・面白いことはないというのは、私の持論である。

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